第4話
僕らの住む河崎市から、急行で7駅ほど離れた場所に、避暑地にして温泉街でもある「猪狩沢(いかりさわ)」と呼ばれるリゾート地域がある。
今時の避暑地として見ればやや垢抜けないし、温泉保養地としても泉質が微妙という中途半端な場所なんだけど、それでも夏冬の長期休みの時期にはそれなり以上の客が来るらしく、臨時の人手が欲しいみたい。
で、そこにある旅館のひとつを経営してるのが、長津田さんのお母さんの友人のお父さん、ってことらしい。
「──ダウト。朝日奈恭子は私のことを「雪さん」と呼ぶ」
「そうね、あたしのことも「晴海さん」だし……アンタも“恭子”してる間は、そう呼ぶのよ!」
「わ、わかったよ、ねぇ…じゃなくて、晴海サン」
猪狩沢へ行く途中の電車の中で、他のふたりとそんな風な会話を交わす。
え? 「本物の」朝日奈さん?
うん、さっき駅で別れて、本来僕が行くはずだった夏季講習合宿に行ってもらった。
それにしても、さすがに中一用の講習は高一にとっては退屈なんじゃないかなぁ。
「まぁ、主目的はソッチじゃなくて、「男子中学生の日常に触れる」ことだからね。それと、恭子の一人称は“わたし”よ」
そ、それはちょっとさすがに恥ずかしい気が……。
「──それほど無茶な話ではない。そもそも、僕や俺という一人称が公的に許されるのは学生の間だけ。社会に出れば、男女問わず“私”を使うのが日本では一般的」
う……言われてみれば、確かに。
「そーゆーこと。じゃ、ソレを踏まえて、元気に自己紹介いってみよー!」
晴海姉ちゃん、ノリノリだね。仕方ないなぁ。
「わ、ワタシの名前は朝日奈恭子、恒聖高校の一年生です。えっと、趣味は、ポプリ作りとハーブティーを集めること?」
「なんでソコで疑問形になんのよ。まぁ、いいわ、続けなさい」
え~、まだやんの? うーん。
「今回は、お友達の晴海サンと雪さんと一緒に、こちらで働かせてもらうことになりました。短い期間ですが、よろしくお願いします」
そう言って、(想像上の雇い主に向かって)ペコリと頭を下げてみせる。
「ふーむ、雪、どう思う?」
「──75点。お辞儀をする際は背筋を伸ばしたまま、腰を折る方が綺麗。それと、両手を身体の横にピンと伸ばすより腰の前で揃える方が女性的に見える」
「まぁ、合格点ギリギリってトコね。精進しなさい、“恭子”」
き、キビシぃー!
ちなみに、こんな風に騒いでいても平気なのは、ね…晴海サンが「人に注目されなくなる術」を使ってくれてるからだったりする。
いくつか知ってはいたけど、魔女の技術って、ほんと便利だなぁ。僕も女なら、いろいろ教えてもらえてたのに。その点は、ちょっとだけ残念かも。
* * *
猪狩沢でのバイト先とのファーストコンタクト(?)は、あっけないほどスムーズに済んだ。
「貴女たちが、オーナーの紹介で来てくれたアルバイトの子たちかしら?」
目指す旅館の受付で来意を告げると、すぐさま30代半ばくらいの優しそうな女性──この旅館、“喜多楼(きたろう)”の雇われ女将さんである新海(にいみ)さんが、来てくれた。
新海さんに連れられて応接室に入った僕らは、簡単な質疑応答の末、無事にココの短期バイトとして採用してもらうことができたんだ。
いくらコネとは言え、さすがに向こうも非常識な人材はノーセンキューだったらしい。その点では、一応最低限のラインは越えていると判断されたみたいだ。
「貴女たち、高一ってことは15歳くらいかしら。みんな随分しっかりしてるのね」
まぁ、雪さんはいつ見ても年齢不相応に落ち着いてるし、晴海ね…サンも、こういう場面で猫かぶるのは巧い。
本来中一の僕も、さっきの電車の中で予行演習しておいたおかげで、それなり礼儀正しく自己紹介とかできたと思う。
「服装の乱れもないし、気立ても良さそうだし……鷺澤オーナー、いい子たちを紹介してくれたわ♪」
新海さんの柔らかな視線がくすぐったい。
でも、朝日奈さんの部屋で着替えたワンピースの上にサマーボレロを羽織り、あまりヒールの高くないクリーム色のエナメルシューズを履いた僕や、膝丈の白いサマードレスと上品なパンプスを着用した雪さんはともかく……。
ミントブルーのノースリーブ&デニムのホットパンツ、足元も素足にストラップサンダルという晴海サンの格好は、はたして“ちゃんとした服装”なのだろうか。
「……なによ?」
「い、いえ、何も」
「うふふ、夏場ですもの。鶴橋さんくらいの服装でも全然問題ないわ。でも、お仕事中は和服に着替えてもうから、動きにくさや暑さは覚悟しておいてちょうだい。
それじゃあ、明日から2週間、よろしく頼むわね。多岐江さん、この娘たちに、今日のうちにいろいろ教えといてくださる?」
新海さんは、傍らに控えた、いかにもベテランといった風な40歳前後の仲居さんに声をかけた。
「畏まりました」
「多岐江さん」と呼ばれたベテラン仲居さんに連れられ、僕ら3人は神妙な顔で従業員控室のひとつに入っていく。
そこで僕らは、改めてアルバイト向けの従業員規則を聞かされ、業務に関する説明を受けた。
と言っても、所詮はバイト。簡単に言えば、
1)お客さんに出す朝昼夜の食事の配膳と片付けの手伝い
2)廊下や裏口など、室内以外の場所の掃除
3)お客さんから預かった汚れ物の洗濯
──の3つが主な仕事で、あとは買出しなど臨機応変に雑用がフられるらしい。
もちろんお客さんに対する言葉遣いなども指導された。もっとも、こちらも無理に謙譲語や古風な言い回しなどを使おうとせず、普通の丁寧語ベースでもいいと言われたので助かるかも。
(ずいぶん要求水準が低いなぁ)
いや、ひょっとして以前雇った学生バイトが、それすら満足にできないほどヒドかったのかもしれない。
そこまでは、まぁ、よかったんだけど……。
「では、次に、仲居としての制服である着物の着付けについて説明します」
それこそ旅館の浴衣以外に和服なんて着た経験のない男に、いきなりハードルが高いですよ!? いや、相手からしてみれば、僕は“高校一年生の女の子”なんだろうけどさ。
(そう言えば、本気で誰も、僕のこと男だなんて疑わないんだなぁ)
つくづく姉ちゃんの暗示はスゴいな──「僕が元から女顔過ぎるから女装してたら女の子にしか見えない」という可能性はあえてスルーする方向で。
幸いにして、この喜多楼の仲居さんの制服は、キチンとした紬の着物とかじゃなく、上下に分かれた、簡易着物とか二部式着物とか言われるタイプみたい。
とりあえず荷物を奥の長机に置いてから、僕たち3人は多岐江さんに促されて、服を脱いで長襦袢に着替えることになった。
──うん、正直、鶴橋香吾としては、いくらそのうちのひとりは姉とは言え、年上の女性3人と一緒に着替えるなんて、メチャクチャ恥ずかしいんだけど、此処で拒否するわけにもいかないしね。
白い長襦袢自体は、それこそ旅館の浴衣かバスローブみたく、腰紐でとめればいいから、それほど着るのが難しい代物じゃない。ブラとかショーツとかの下着類も、着けたままでいいって言われたし。
けど、そこからがひと苦労。ボトムは巻きスカートみたく、巻き付けてマジックテープをとめるだけで楽ちん(もっとも、僕の場合、スカートそのものに慣れてないんだけど、それは今更だ)なんだけど、上衣がねぇ。
結局、何事も要領のいい、ね…晴海サン以外、つまり雪さんと僕──おっと、そろそろ気をつけて脳内でも“ワタシ”って言うことにしよっと──ワタシは、着物の上を3回ほど脱いだり着たりするハメになった。
「ふむ……着崩れもししてませんし、帯の形も整ってますね。いいでしょう、合格です」
ようやく多岐江さんから合格と認めてもらってから、ワタシたち3人は、今日からしばらくお世話になる従業員用の部屋へと案内されたんだ。
連れて行かれたのは北向きだけど、窓が大きく風通しが良さそうな、四畳半くらいの和室だった。決して新しくはないけど、手入れはいき届いてるみたいだし、今は夏だから日当たりが悪い方がむしろ居心地よさそうだ。
でも……。
「え、3人一緒なの!?」
「当然でしょ、あたし達はお客じゃなくて従業員なのよ。泊めてもらえるだけでも、好待遇ってモンよ!」
そりゃそうかもしれないけどさ。
晴海サン──姉ちゃんは、まぁいいよ、家族だし。でも、雪さんは嫌がるんじゃない?
「──問題ない。この事態は想定済み。私は、貴方の事を信頼している」
高校からの友人の(本物の)朝日奈恭子さんと違って、雪さんは中学に入った直後に晴海姉ちゃんと知りあって、一ヵ月も経たないうちにマブダチになってた。だから、ウチ──鶴橋家にもよく遊びに来るし、本人的には僕のことを弟みたいなものと見てるのかもしれない。
確かに、僕だって、雪さんのことはもうひとりの姉みたいに思ってる部分もあるけど……ちょっとフクザツな気分。
「まぁ、アンタに、フラチな真似するような度胸も甲斐性もないとは思うけど、念のために、ホラ」
差し出された姉ちゃんの掌を反射的に覗き込んだ僕は、そこから漂う刺激臭に思わず鼻を押さえて涙目になった。
「ぶわっ! な、何、コレ!?」
「海綿体充血反応抑制効果のある香水よ。ん~、端的に言うとね──あたしが中和する薬作るまで、アンタのち●ちん、勃たないわね」
へっ!?
「安心しなさい。一生そのままってワケじゃないわ。家に帰ったら、キチンと中和剤作ったげるから」
オーマイガー! 神様、僕って、そんな過酷な
──そんなこんなで、とにもかくにも、僕…もといワタシ達のアルバイトライフは幕を開けることになったんだ。
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