第一章~②

 いつも通っている店でさえ、スタッフが少ないから事前に連絡してくれと言われてしまう。さらにその日のその時間は無理など、自由に利用できなくなった時期もある。

 またようやく入れたとしても、消毒液がどこにあるかすぐには分からない。それだけでなく、普段締まっていたドアが換気の為に開けっぱなしにされ、通常と違うので認識できず驚いたりもした。

 ソーシャルディスタンスを保つ為だろう。障害者に対し声をかけ援助してくれる人が、極端に少なくなったことも大きく影響した。 

 間隔を空けて並ぶ目印のテープが床に貼っているというが、ほぼ全て凹凸おうとつがないので確認できない。どのくらいの距離を保てているか推し測るのは、空間認識力が高い須依でさえ一苦労だった。

 そんなコロナ禍も更なる変異種の出現で油断できない状況が続き、国民の八割近くが二回目のワクチン接種を済ませたにも拘らず、第六波で最大の感染拡大を経験した。

 三回目接種が始まり着々と接種者が増えたこの三月にはピークも過ぎ、やや落ち着きを取り戻しつつある。けれどいつまた次の変異種が広まるか分からないのに、懲りない人はもう動き出していた。

 その上かつてから一般の人達に比べれば、マスコミ関係者の三密対策は甘いと言われている。よって以前にも増して密集、密接せずに取材などできないと言わんばかりの態度を多くの人が取っていた。 

 ブースの中でもマスクさえしていない人が少なからずいるのは、声の調子だけで直ぐに気付く。だから本音ではこんな所から早く出たかった。けれど仕事だからしょうがない、と須依は溜息をついた。

 今回依頼された事案は、都内の公園近くで女性の刺殺死体が発見された件だ。これが単なる殺人事件なら、須依にまで声はかからなかっただろう。

 だが世間やマスコミが大きく関心を示した為、少しでも他社を出し抜く追加情報を得ようと、遊軍記者まで駆り出されているのだ。  

 というのも二十三歳の被害女性の新原にいはら明日香あすかは、五か月余り前に起こった殺人事件の共犯者として、警視庁捜査一課がマークしていた人物だった。

 しかし逮捕された実行犯の米村よねむら正高まさたかは、一人でやったと主張し続けた。共犯の疑いは濃厚だったが、米村は明日香に惚れていたらしい。その為彼女は証拠不十分で釈放され、逮捕されずにいたのだ。 

 彼女がその好意を利用し逃れたのではないか、と警察は睨んでいた。その為何度も任意の事情聴取を行い、家宅捜索まで行っている。 

 それでも逮捕できるほどの証拠が得られず、不本意ながら解放せざるを得なかったのだ。

 そんな忸怩たる思いを抱いていた重要参考人が、公園の近くで包丁と思われる鋭利な刃物により背中を刺されて倒れ、死んでいるところを発見された。騒ぎが大きくなったのは、そんな背景があったからである。第一発見者は公園で毎朝六時頃に体操をしていた、近所に住む七十二歳と七十歳の老夫婦だという。死亡推定時刻は夜中の一時半前後と推測されたらしい。

 事件当夜、彼女は十二時過ぎまで都内のガールズバーで働き、客達と過ごした後、終電に乗り自宅へと向かった。その後最寄り駅に着いた彼女が公園の横を通り過ぎる際、何者かに襲われたようだ。

 事件発生直前の足取りは、一緒にいた人物や使用した駅の防犯カメラでも確認できている。だが肝心の公園周辺にはカメラが無く、犯人と思われる人物の特定まで至っていない。

 また財布等が盗まれていない為、警察は怨恨か愉快犯の線で捜査しているという。愉快犯とは世間を騒がせることで快感を得ようと行う犯罪だ。今回は夜道を歩く若い女を狙ったと考えているようだ。

 単なる愉快犯なら、大衆やマスコミもここまで関心を持たなかっただろう。しかし被害者が殺人の共犯者と見られていたあの新原明日香だと分かった時点で、世間の多くは以前起こった事件関係者による復讐ではないかと疑った。そうした憶測が大衆の興味を引いた。

 それはそうだろう。米村が殺害した和尻わじり一也かずやは、被害者に暴力を振っていたとされる元義父だからだ。被害者の母親、新原千鶴ちづるは須依と同い年の四十四歳で、二十一歳の時に勤めていたスナックの客と懇意になり、明日香を産んだ。しかし男に逃げられ、一人で子供を育てざるを得なくなったという。

 その後、男癖の悪い千鶴は点々と多くの男と関係を持つ生活を過ごし、コロナ禍になる二年余り前に一也と結婚。だが一年ほど同居している間に、工場勤務だった彼が職を失ったのがきっかけで荒れ、暴力を振るいだしたらしい。それは妻の千鶴だけでなく、娘の明日香にまで及んでいた。

 当時二十一歳だった明日香は生活費を稼ぐ為、高校を卒業後にガールズバーで働いていた。そんな彼女を、和尻は性的暴行まで振るった形跡があるという。それを知った千鶴が激怒し、離婚したのだ。 

 けれどその後も新たに別の工場で働き始めた一也は、時折客として明日香の店に訪れ付き纏っていたらしい。米村は被害者が勤める店の常連で、彼女に相当入れ込んでいた。

 よって被害者は米村を唆し、邪魔な和尻を殺させたと警察が推察したのも当然で、世間の多くも元義父を排除したに違いないと疑った。それでも証拠が見つからず、釈放されてのうのうと生活していた彼女が殺されたのだ。

 その為犯人は被害者に恨みを持つ人間ではないかと、誰もが考えたに違いない。もちろん警察も警視庁内に捜査本部を立ち上げ明日香や一也、さらには千鶴に関わる人物を徹底的に洗った。けれども犯行時刻が夜中ということもあり、目撃者もおらずアリバイの無い者が多すぎて絞り込めなかった。その上犯行を裏付ける証拠など、全く発見できずに時間だけが経過していたのである。

 そこで業を煮やし動き出したのが、須依を含めたマスコミだ。単なる殺人事件ならそう長く話題にならない。しかし警察が取り逃がした明日香を恨んでの犯行となれば事情は変わる。一体誰が犯人かと各局のワイドショーが取り上げ、勝手な想像を膨らませたのだ。

 まずは一也と親しい人物が挙げられた。親族はもちろん、DVをしていたとはいえ男遊びに慣れた千鶴と結婚した程の男性だ。その為に惚れた女性もそれなりにいた。そうした人物が復讐した可能性はないかと、彼の過去における女性遍歴を辿ったのだ。

 これだけでも結構な数にのぼる。また単独犯とされた米村の親族や、彼と親しい人物ではないかとも考えられた。特に六十代半ばの両親は、三十二歳になる息子が明日香にたぶらかされたと信じており、取材に訪れたマスコミに向かってもそう強く主張していた。

 よって騙した彼女が逮捕されないことを憎み、襲った可能性もあると見られていた。さらに離婚をしたけれど、実はまだ一也に未練があったとの噂が残る千鶴の犯行ではないか。いや明日香に惚れていた米村以外の店の客が嫉妬による犯行に及んだ、はたまたとり逃した警察関係者が法で罰せられない彼女を私刑で裁いたのでは、とまで憶測を呼んだのだ。

 こうなってしまえば、容疑者候補に名を連ねた人物は相当数いた。だからこそ事件が解決しない内は、謎が謎を呼んでミステリーマニアだけでなく、大衆を巻き込んでの騒動となったのである。

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