第36話
午後、社員が抜けて、フロアの座席は半分以上が空いていた。雪葉は残っていた作業を終わらせパソコンの電源を落とす。鞄を持ち、帰る途中に三階に立ち寄った。勉強会に参加するまではいかないが、どんな様子なのかちらりと覗いてみようと思った。
三階に来たのは初めてだった。人がちらほらいる廊下の左右を確認し、大会議室を探す。並ぶ扉の表札を確認することに気をとられ、前方注意が疎かになっていた。誰かとぶつかる。
「あ、すみませ――……」
時間が止まったかと思った。目前に、スーツ姿の昊がいた。花火大会以来、三ヶ月ぶりの再会だった。雪葉の顔を鏡に映したかのように、昊も呆気に取られていた。
「え……なんで……」
呟いた昊に、雪葉は我に返り言葉を返そうとした。だが先に、別の声が後方から重なった。
「伊桜ー。プロジェクターの準備手伝ってー」
昊がはっとして雪葉から視線を逸らす。「はいっ」と返事をし、昊は行ってしまった。
(こ――昊くんだ……!)
雪葉は胸がいっぱいになった。また昊が視界に入ったらと思えば、気づけば逃げるようにビルから出ていた。
久しぶりに、顔を見た。声を聞いた。話す好機だったのに、話せなかった。
会えたことが嬉しい。嬉しくて、嬉しくて、けれど同時にとてもつらかった。また恋人の関係に戻れないかと、みっともなく昊に泣きつきたくなる。
自社に着くまでの間、雪葉は久しぶりに、ずっと昊のことを考えた。
×××
大会議室にはパイプ椅子がずらりと整列していた。入社三年以内の社員が、プロジェクターを用いながら発表をしている。それを眺めながら、昊は心の内で雪葉との再会に動揺していた。会社での、予想外の再会だった。
発表の合間の休憩時間に入り、会議室内が賑やかになる。各々が自由に動き、話す中で、離れた席にいた沖が近づいてきた。
「久しぶりー。どう? いまの現場」
「……お前……」
昊は沖に詰め寄った。
「言えよ! 雪葉と一緒に開発してるとか、そういう大事なことは!」
人聞きに、沖や雪葉が今月から陣之内のプロジェクトで絶賛開発中だと耳にした。
「報告しろ俺に!」
「ええー。だって、元村さんから普通に聞くと思ったし……。だいたい、お前も教えろよな。別れたとかさぁ」
昊は舌打ちをしたい気分だった。会話を聞いている人もいないだろうが、沖が声を低くして続ける。
「で。なんで別れたの? 元村さんのほうは、まだお前に気がありそうな感じだったから、お前から振ったんだろ?」
沖は実に楽しげに訊いていた。昊は渋々答える。
「一言で言えば……本調子に、戻ろうと……」
「嫌いになったわけじゃないってこと? 本調子って、PM降ろされたから?」
無言の肯定を返すと、沖は眉尻を下げ、心配そうにした。
「お前、気合い入ってたし、へこむのはわかるけどさ。でも、恋愛は関係ないんじゃない? 俺、元村さんと一緒に、お昼に社食行ったりしてるよ?」
「……なんだよその、仲良しな感じは」
「お前と合うかもって、思ったよ。控えめな印象だけど、仕事してみたらしっかりしてるし。うまく甘やかしてもらえるんじゃないの?」
「……甘える、って……」
雪葉に甘えるとは、どういう意味だ。昊のほうが二歳年上で、どちらかと言えば主導権を握っていた気がする。恋人同士のスキンシップのことを言っているのか。
「物理的な話?」
「精神的な話だよ! 物理的には好きにしてろよっ」
昊は難しい顔で眉間にしわを寄せた。その時、前方に陣之内の姿を見つけた。手洗いから席に戻るところのようだ。
「……つーか、陣之内の奴、PM任されたって、自社の楽勝案件じゃねーか。束ねるの八人とか、ちょっと人数多いチームリーダーじゃん」
「お前だって、久我さんががっつり基盤使ってくれた、それなりの良状況だったじゃん」
「お前のほうは、初のチームリーダーおめでとう」
「そうなんだよー! 久我さん、俺のこと、管理者に育てようとしてんのかなぁ」
「歳とるにつれて、上には立ってかなきゃなんないだろ」
「嫌だよー。中間管理職なんて、胃に穴開くだけだよー」
IT技術は、五年経てばまるっと変わる。いつまでも自分が手を動かし続けることは難しい。二十年技術を積み重ねてきたとしても、まだ二十歳そこそこの若者が作り上げた新しい技術にすぐにとって代わられる、そういう世界だ。
昊は、視界の端にまだ陣之内をとらえていた。彼は椅子に座り、デスクトップが映った状態で静止しているスクリーンを、背筋正しく見ている。
「……なあ」
「ん?」
「一緒に社食行ってるってさ、……陣之内も、一緒に行ってんの?」
「そりゃあね」
「……あっそ」
沖が「やっぱり気になるの?」と訊いたと同時に、休憩時間が終わった。人が席に戻り出す。茶化す問いには取り合わず、昊は会話を打ち切った。
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