第32話
「電車の時間合うの、珍しいですね。元村さん、いつも仕事早いから、僕よりも残業少なくて」
「え、いえ。中川さんとは、振られてる作業の重さが、違いますから……」
「そんなことありませんよ。ソースコードとか、成果物見ても、元村さんは、丁寧で良い仕事するなぁって思います」
にこりと笑って言われた。他意はなさそうだ。雪葉は「ありがとうございます」と、素直に感謝した。
電車が次の駅に到着する。小さな駅のため、乗り降りする人は少ない。中川も降りる気配はなく、発車ベルを耳の端でとらえながら会話は続く。
「ほんと、まだ若いのに」
「一応、五年以上働いてるものですから。……高卒で、エンジニアになって」
システムエンジニアは、資格や学歴がなくてもなれるが、それでも専門職のため、専門学校や大学を出ている人がほとんどだ。高卒は珍しい。
「中川さんは、もう、経歴十年以上ですか?」
年齢から推測してみた。
「そんなに長くないですよ。僕、ずっとエンジニアしてたわけじゃないので」
「そうなんですか?」
「一度辞めて、アイスクリーム屋さんをやってた時期があるんです」
「アイスクリーム、屋さん……」
瞬間、ちぐはぐな印象を受けた。中川がエプロンをして、帽子でもかぶって、アイスクリームをコーンに載せている姿を想像した。いや、案外似合うかもしれない。
「三年くらいで、やめちゃったんですけどね」
電車がまた速度を落とした。次の駅は主要駅のため、多くの人が座席を立ち始める。
「じゃあ、お疲れさまでした」
中川も、ほかの降車客と一緒に開いた扉から出ていった。入れ替わりに多くの人が乗り込んでくる。大量に空いた座席が、一瞬でまた埋まった。雪葉の乗換駅は次の主要駅だ。流れゆく窓の外を眺める。
(いろんな生き方が、あるんだよね)
中学校を卒業して、高校を卒業して、大学や専門学校に行って、就職して、定年まで働く。そんなレールに乗った真っ直ぐ生き方だけではなく、いろいろな生き方がある。頭ではわかっている。雪葉自身の生き方は正規のレールから外れているが、こんな生き方の人は、もちろんほかにも大勢いるだろう。
(アイスクリーム屋さんなんて、どうしてやろうと思ったんだろう)
こうしてまた元の仕事に戻ってきている。アイスクリーム屋をする時に、きっと会社を辞めたはずだ。経験を積みずっと同じ職を続けていたほうが、給与だって上がっていくに違いない。あの年齢ならば、場合によっては役職もついている。遥かに上手く生きられそうなものだ。
でもきっと、そういうことじゃない。やりたいと思ったから、やったのだ。雪葉だって同じだった。受けたいと、挑戦したいと思ったから、三度も同じ大学を受験した。
失敗したって、他人から理解してもらえなくたって、どう生きるかは、やはりその人の自由だ。
×××
自宅の最寄り駅に着く頃には夜になっていた。少しだけ本屋を覗き、家へ向かった。
給湯室で聞いたことを思い出せば、明日仕事に行くのが憂鬱だった。けれど今月一杯は、心を強固にして乗り越えなければならない。
しかし、いつまで続けられるだろう。心は、いつまでもつだろう。
元気なく足を動かしていると、自社の携帯電話が振動した。佐久間からの電話だった。社長の電話というものは、進んで出たいものではない。重い気持ちで通話ボタンを押す。次の現場の面談の話かもしれない。
「はい、元村です」
『佐久間です。お疲れさまです。いま大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です」
『まだ職場かな?』
「いえ。今日はもう、帰ってるところで」
『そっか。お疲れさま。それでね、次の現場のことなんだけど』
やはり予想通りの電話だった。
「はい」
『ノヴァソリューションさんから、元村さんに、手伝って欲しい案件があるって言われて』
雪葉は歩道で、足を止めていた。
『久我さんって知ってる? 去年の暮れ辺りから入った案件で、PMだった人で』
「は、はい」
久我の送別会で、自社の社名が入った名刺を渡していたことを思い出す。それで声をかけてくれたということか。
『元村さんを、ぜひお願いしますって。すごいねぇ、元村さん。直接契約できるから、マージンもなしにお金も入ってくるし』
雪葉の仕事ぶりを買ってくれた誘いに違いなかった。嘘かと疑ってしまうほどに、嬉しいことだ。
『今度、昇給も考えようね』
「あ――ありがとうございます!」
いくつか近況報告も交わし、通話は終了した。携帯電話を持つ手が震えた。嬉しい。どんな案件だろう。ほんの二ヶ月ほどで終わる、小さな案件かもしれない。わからない。
だが、五年間積み重ねてきたことが報われた気がした。喉がつんと苦しくなり、瞳に涙が滲んでいく。
雪葉は歩き出しながら、両手で涙を拭った。だがなかなか止まらないから、何度も拭う羽目になる。
(仕事を、しよう)
過去には戻れない。失敗した結果の取り返しはつかない。人生をやり直すことはできない。でも、これでいい。
(私の生き方は、これでいい)
その日は、また夜に泣いた。三度受験に落ちてから、初めて前を向いて歩けるようになった気がした。
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