35.遺児と公子


 その日の午後、州都の市民は寒空にこだまする低い遠吠えを聞いた。

 街道に黒い獣が出没したと噂に聞いていた人々は皆、一様に胸騒ぎを覚えたことだろう。しかし、その予感を深刻に受け止めた者はそのうちの一割もいなかった。不安を覚えながらも「まさか、そんなことが起きるはずがない」と、ほとんどの人々が日常の続きに戻っていった。

 俗に正常性バイアスと呼ばれる、人類特有の認知が引き起こす現象だった。

 遠吠えから一刻もしないうちに、それは来た。

 数は推定、三十から五十。

 薄汚れた獣の群れが疾風怒濤の勢いで州都に雪崩れ込んだ。

 逃げ惑い、恐怖にうずくまる市民たちを避けながら、獣たちは一直線に駆けていく。群れが通り過ぎたあとに死者はおろか怪我人はおらず、道ばたに取り残された人々は互いの無事な顔を見て、忘れていた呼吸を再開した。

 ――今のは、なんだったのだろう?

 市民たちが正気を取り戻しつつあったそのとき、群れは目的地に間近に迫っていた。

 門衛の老人が頭を抱えて床に伏せる詰所のすぐ横を通り抜け、足音を響かせて橋を渡り、獣たちは次々と西州公の居城へ飛び込んだ。



 宮中の各寮で働く者たちは皆、めいめい仕事場の戸締まりを徹底し、緊張に身を固くしながら息を潜めていた。この未曾有の事態にあって彼らが恐慌を来すことなくいられたのは、ナサニエルが発した〈風のたより〉によって、外の状況を逐次知ることができたからだった。

「各寮各員に告ぐ」

 宮城の屋根上部から屋内に向けて、彼は自らの声を響かせた。

「おれはスイハ=ヤースン専属の魔道士ナサニエルだ。緊急時につき〈風のたより〉で状況を伝える。敷地内に侵入した獣たちは現在、宮城入り口で対応中だ。武装する必要も、避難する必要もない。これらは魔物にあらず。繰り返す。これらは魔物にあらず。各寮各員、続報があるまで持ち場で待機せよ」

 腕輪から指を離し、ナサニエルは眼下の光景を見下ろした。

 それは、なんとも奇妙な光景だった。

 西州公の死によって在り方を歪められたもの。六年間、黒い獣と呼ばれて恐れられていたもの。それらが今、宮城の前庭で行儀良く列を作っている。自分の番を待つ静謐な眼差しに狂気はない。痩せ細り、薄汚れたその姿はまるで、教会の施しを受ける浮浪者のようだ。

 先頭の獣が前に進み出て頭を垂れた。サクが両手でその顔を撫でる。

 みすぼらしい体躯に、みるみる活力が漲っていくのが見て取れた。

 鼻先から、骨と皮ばかりの胴を通って足の先、尻尾の終わりまで、供給された霊素が全身に巡っていく。血と泥で固まった毛皮は四肢を張って体を震わせる一瞬のうちに生え替わり、膿で塞がっていた両目には光が差した。性質の反転から解放され、生まれついた姿形を取り戻した彼らは、軽やかで、しなやかで、美しくすらあった。

 これが西州公の眷属、本来の姿だ。

 見た目は狼によく似ているが、こうして霊素の供給によって肉体が再生する様を見せられると、普通の動物とは異なる摂理を持つ生き物なのだと思い知らされる。

 一頭にかかる時間は十秒にも満たない。

 最後の一頭の番は、すぐに来た。

 他の獣たちより一回り大きい、人の背丈ほどもある巨躯。

 あの獣を、ナサニエルは知っている。雪山でやり合ったやつだ。〈かまいたち〉で切り刻んでもビクともしなかった。狂気と正気の狭間で、獰猛さと合理性を併せ持つ恐ろしい相手だった。

 サクの傍らで、トウ=テンが刀の柄に油断なく手をかけている。こちらもまた因縁があるようだ。

 治療が終わったあとも、巨大な灰色狼はその場から動かなかった。恥じ入るように低く頭を下げている。

 たとえ己の意志でなくとも、その牙と爪で、守るべき人類を恐怖に陥れた。何十、何百という命を奪った。他の眷属を遙かに凌ぐ高い知性が、そのことを理解してしまう。犯した罪の重さが灰色狼の気力を奪う。体の傷が癒えても、踏みにじられた尊厳は戻らない。項垂れて目を閉じる横顔は、このまま、首を落とされることを望んでいるかのようだった。

 大気がピリッと震えた。

 寛いでいた獣たちが耳を立てて、ある一方を見やった。灰色狼の額を撫でる手を止めて、サクが険しい面持ちで宮城のほうを振り返る。

 ナサニエルは屋根を蹴って地上に降り立った。

 建物から出てきたユウナギは、あからさまな不満顔をしていた。

「わたしが呼んだのに。なんで先回りしてる?」

「教えてくれたの」

 そう答えるサクの肩には、赤いリボンをつけたネズミがいる。バンブ三世だ。バンブ三世はチュウチュウ鳴きながら抗議するように公子を指さした。

 ユウナギは口角を上げて舌なめずりした。

「ふうん、わたしに意見か。生意気なネズミだね。食後のおやつにしてやる」

「ユニの友だちを食べないで」

「友だち? ユニの?」ユウナギは目を瞬き、凶悪な笑みを引っ込めた。「なあんだ。じゃ、今のなし」

 思考は短絡的、かつ単純。人間の姿をしていても中身は獣だ。その瞬間の感情と、本能、思いつきの連続で生きている。ナサニエルは胃の腑が重くなった。

 サクがユウナギを睨んだ。

「どうして獣たちを呼びつけたの」

 ユウナギは不愉快そうに目をすがめた。

「防犯のために決まってるでしょ。おまえは用心棒がいるからいいけど、わたしは丸腰なんだから。小狡いジジイを脅かすならこれくらいしないと。ねえ?」

 ユウナギが振り返った先には、今しがた小狡いジジイ呼ばわりされたラザロ=ヤースンその人がいた。宮城の入り口で、青い顔をして立ち尽くしている。見開かれた双眸が、ユウナギとサクを交互に見やっていた。

「八つ裂きにしてやろうと思ったのに」

 綺麗な顔をして物騒なことを言う。よほど恨みが深いと見える。

 バンブ三世の報告を聞いてから各寮に出向く際、スイハはラザロの動向を特に警戒していたが、当の本人はこの通り、今にも死にそうな顔で幽鬼のように佇むばかり。

「ユウナギ」

 サクが感情を抑えた声で問う。

「メイサと、ジェインはどこ」

 ラザロの全身がビクリと震えた。乾いてひび割れた唇から漏れる呼吸は怯えている。表情の失せた土気色の顔に、じわじわと汗が滲む。

 その反応が見たかったのだと言わんばかりに目を細めながら、ユウナギは愉快そうにクスクス笑った。

「さあ、どこに隠したかなー。ラザロの手下たちが必死になって捜してるけど、そんな簡単には見つからないよ。おまえも宝探しに参加する?」

「だめだよ。こんなことしたら」

「だめってなに? わたしが何をされたか知らないくせに。奪われたくなかったら、大事なものは隠しておかないと」

「……大事なの?」

 サクが怪訝そうに問いかけると、ユウナギは唇の前でもじもじと指を合わせた。

「だってねえ……メイサは、目が合うと笑ってくれるの。わたしが困ってるとすぐ気づいて助けてくれるし、手を繋いでくれるの。ジェインはちょっと怒りんぼだけど、目がきれい。物語に出てくる宝石みたいにキラキラしてる。どっちもわたしのもの」

 ユニはともかく、メイサも、ジェインも、おまえのものじゃないだろう。

 そう突っ込みたいところを、ナサニエルはグッと堪えた。下手に不興を買えば木っ端のように消し飛ばされる。ホーリーに課せられた、人類を傷つけてはならない、という制約も、ユウナギに対しては何も意味を成さないだろう。

 勇敢なるバンブ三世が、拳を振り上げてチュウチュウと声をあげた。つぶらな黒い瞳が潤んでいる。こんなに表情豊かなネズミは他に見たことがない。直接言葉を理解できなくとも、熱い思いを訴えていることは伝わってきた。

「うるさいなあ。ちょっと眠ってもらってるだけだもん」うるさそうに手を振って、ユウナギは腰に手を当てた。「閉じ込めたりしないよ。用事が終わったら返してあげる」

「用事ってなに」

「言ったでしょ」ユウナギは颯爽と踵を返した。「八つ裂きだって」

 カツカツと靴音を響かせながら、大股で、うずくまる老人に迫る。

「ラザロ=ヤースン。おまえだよ」

 一瞬の躊躇もなかった。彼女はラザロの胸ぐらを掴んで、文字通り吊し上げた。苦しそうに咳き込む様を睨みつけ、唇を歪めて笑う。

「気づいていただろう。アサナギの中にもうひとり、別の誰かがいたことを。なのにおまえは、現実に背を向け、耳と目を閉じ、口を噤むことを選んだ。見ないふりを続けるために、カルグを切り捨てて、アサナギを見捨てたんだ」

「ううっ……ぐ……」

「でも、おかげで楽に近づけた」

 ユウナギは犬歯を剥き出して唸った。

「アサナギの最期を教えてやろうか。惨めな最期だった。腐った体で何年も生かされて、ひとりぼっちで、誰にも看取ってもらえず、わたしに許しを請いながら死んだよ」

 締め上げられた喉から嗚咽が漏れる。老人の目から溢れた涙が、皺の上を伝う。

 ユウナギの全身から殺気が溢れた、その瞬間。

 目を覆うバンブ三世を灰色狼の頭に預けて、サクが地面を蹴った。トウ=テンが同時に飛び出して距離を詰める。

 二人の動きを目で追ってはいたものの、ユウナギはとっさに反応できない。足を払われて体勢を崩し、短く叫びながら尻餅をつく。復讐を邪魔されたという事実に意識が追いつくまで、数秒の間があった。自分が取り落とした老人の体をトウ=テンが肩に担ぐのを見て、彼女は激昂した。

「こいつ!」

 駄々っ子のように地面に拳を打ちつける。石畳が大きくひび割れ、爆ぜた地面から石つぶてが四方八方に飛び散った。死角からの攻撃を、トウ=テンは飛び退くことで難なく回避する。再度、拳を振り上げたユウナギをサクが取り押さえた。

「は、な、せ!」

 目を焼くような白い閃光が迸る。瞬間的な霊素の放出。単純だが、オリジンの出力だと洒落にならない。ナサニエルは反射的に腕を上げて顔を庇い、衝撃に備えた。

 霊素の渦から生じた圧力が、不意に霧散する。

 いや、違う。

 相殺したのだ。

「おまえ……」

「ユウナギ。そこまで」

 ナサニエルは腕を下ろし、向かい合うオリジン二人を呆然と見つめた。

 ユウナギとサクナギ、同じ親から生まれた者同士、力も互角だと思い込んでいたが、どうやら見解を誤っていたようだ。出力の差で安易に優劣はつけられないが、サクのほうが明らかに安定している。ユウナギが力任せに放出した霊素を、器用に去なして散らした。

 速く、鋭く、細やか、かつ大胆。

 バン=ハツセミを去なしたトウ=テンと印象が重なる。

 それはきっと、何度も、何度も頭の中で反芻したであろう記憶の残滓。夢の残り香から育てた、内なる心象。トウ=テンがサクの過去を夢に見たように、サクもまた、夜毎にトウ=テンの生き様を見てきたはずだ。

 過去を巡る旅で、サクは知った。血を流さずに収められる争いがあることを。傷つけずに相手を無力化できることを。彼ならばこうする、という絶対の信頼が、未熟な精神と、それに見合わぬ莫大な霊素の釣り合いを成立させる。

「サク。不用意に近づくな」

 二人の距離が近いのを見て、トウ=テンが警戒を促した。ラザロを離れた場所に下ろして、素早くサクのそばに戻る。

「また頭がグルグルになるぞ」

「なに、グルグルって?」

 訝しむユウナギに、サクが簡潔に説明する。

「記憶が混線すること。前に湖であったこと、覚えてない?」

「あー、あれか。おまえの用心棒に殺されるかと思った」

「ユウナギは平気だったの?」

「あのときは頭がパーだったからね。……ああ、けど、思い出したよ。アサナギが死んだとき、零れた中身の一部がわたしに流れ込んできて……頭が、そう、グルグルになった。それで自分を見失ったんだ……」

 他のことに興味が移った途端、怒りが冷めた。感情の起伏が激しいのは困りものだが、長続きもしない。それに一応、最低限の倫理観はあるようで、立ちあがったとき自分が壊した石畳をこっそり裾で隠した。

「ユウナギ」

 サクが改まった口調で言った。

「せっかく元に戻れたのに、こんなことしちゃだめだよ。やっと家族と暮らせるんだよ。これから楽しいことがたくさん待ってるんだから。スイハも言ってたでしょ。もう誰も、あなたの自由を侵したりしないって」

「あいつがいるじゃないか。〈CUBE〉が。あいつの言いなりになる人間も」

「うん。だから、これから話すの」

「ハッ! なにを話すっていうの。あいつに心はないよ。アサナギの命を引き延ばすために、わたしから血を抜いて何度も体を切り刻んだ。アサナギ自身は、そんなことちっとも望んじゃいなかったのに」

 過去に思いを馳せる顔に、憐れみが浮かぶ。

「……話すの、やめなよ。なにを言ったって〈CUBE〉には通じない」

「いいえ。昔と今とでは状況が違う。ここに死にかけのホーリーはいない。〈CUBE〉が意固地になる理由がないもの」

「どうしようっていうの?」

 ふと気がつけば、庭で思い思いに寛いでいた眷属たちも、いつの間にか話に聞き入っていた。ある者はキョトンとした顔で、ある者は殊勝な顔で、サクが次に言う言葉を待っている。灰色狼が、バンブ三世を頭に乗せたまま立ちあがった。

 いつかの時代の西州公が産み落としたもの。母の願いを受け、陰ながら人類を守ってきたものたち。時代の節目によって、彼らの役目もまた、終わろうとしていた。

 トウ=テンと顔を合わせて頷いてから、サクは言った。

「〈CUBE〉に、船から降りてもらうの」



 〈CUBE〉との交信は、謁見の間で行われることになった。選ばれた理由は単純に、声が通りやすい造りになっているからだ。

 謁見の間には主要な関係者の他、四名の参加者が集められた。壁際に並べられた革張りの椅子に、彼らは順に腰掛けていく。典薬寮の長ラカン。図書寮の長コルサ。兵部省の長オルガ。そして、呼ばれていないのにやって来た御服所の長ミソノ。

「どうも、どうも。いや、お気遣いなく。公子様を採寸したいだけなので」

 前のめりに腰掛けた。撫で肩の鷲鼻、ミソノの手には巻尺が握られている。

「おまえは呼ばれておらんだろう、仕立屋。さっさと工房に戻らんか」

 その隣の席から長身の禿頭、オルガが小声で叱責を飛ばす。

「まったく……書記くらい同伴させろというのに。最近いよいよ目がいかん」

 小柄な団子鼻、コルサが眼鏡の位置を直しながらブツブツ愚痴をこぼす。

「眼鏡を新調したほうがいいよ。そろそろ定期健診の時期だ。皆さん、忘れず受けに来るように」

 立派な顎髭を蓄えたラカンが、ここぞとばかりに念を押す。

 老人ばかりが集まって、まるで診療所の待合室だ。長年、宮中で働いている人たちを集めて欲しいというサクの要望に応えて、スイハが人選した。アサナギよりさらに前、ヨイナギの代から宮仕えを続けている者たち。呼ぶ必要があったのか甚だ疑問だが、彼らはその代表というわけだ。

 部屋の中央通路を挟んだ反対側の壁際に、ナサニエルはスイハと並んで腰掛けている。ちょうど各寮の長たちと向かい合うかたちだ。この場において唯一の異邦人だが、意外にも周囲の感触は悪くない。スイハ=ヤースン専属の魔道士を名乗ったことが功を奏したようだ。兵部省の長オルガなど、席に着く前にナサニエルに会釈までした。

 スイハがブルッと体を震わせた。

「いよいよだね。緊張してきた」

「緊張? スイハ=ヤースンともあろうものが?」

「そっちこそ。さっきからずっと腕輪を触りっぱなしじゃないか」

 自身の手元に目を落とし、ナサニエルはパッと両手を挙げた。

「こいつは良くない癖だな」

「大丈夫だ。ナサニエルはうまくやるよ」

「一丁前の口をききやがって」

 彼はスイハの髪の毛をガシガシかき回した。

 入り口からホノエが姿を現した。伏し目がちに各寮の長たちにお辞儀をする。

「兄さん、こっちこっち」

 乱れた髪を撫でつけながら、スイハが隣の椅子をポンポン叩いた。

図書寮の長コルサが、眼鏡の奥でギュッと細めていた目を大きく見開いた。

「ん、ホノエか!」

 驚愕と、安堵が入り交じった声。ナサニエルは意外に感じた。焚書事件以降、図書寮とホノエの関係は断絶されたものと思っていたが。

 コルサは椅子から立ちあがり、よたよたとホノエに歩み寄った。

「久しぶりだ。どれ、よく顔を見せてみろ。ちょっとは良くなったのか。え?」

 背中に手を添えられて、ホノエは困った顔をする。

「眠れてるか。疲れることはするな。無理するんじゃないぞ」

「はい」

「そうだ、気になる飯屋があるんだ。近くを通ると良い匂いがしてな。品書きを読むのが億劫で、まだ行けてない。調子が良いときに付き合ってくれ」

「はい、コルサ殿。お話の続きはまた、後ほど……」

 老人を礼儀正しく椅子まで送ったあと、彼は弟の隣の席についた。

 スイハが兄の腕を掴む。

「兄さん。どこか悪いの?」

「大したことじゃない」

 答えを濁されて、すかさず向かいの席に視線を向ける。ラカンは目をそらした。スイハはまなじりを上げて兄に詰め寄った。

「あとで典薬寮に行く」

「そんな時間はない。これから忙しくなる」

「時間は作る。絶対、行くからね」

 ホノエは憂いを帯びた眼差しで弟を見つめた。どう言って聞かせよう、とでも言うような逡巡の沈黙のあいだも、スイハは真っ直ぐ目をそらさない。

 最終的に根負けしたのは兄のほうだった。彼は静かに肩を落とし、弟の頭に手をやって髪の乱れを直してやった。

 さて。

 杖をつく音がした。ラザロ=ヤースンだ。各寮の長たちにお辞儀をして、列に加わる。顔色は土気色で表情は硬い。ユウナギに詰られたのもあるが、何より、メイサを人質に取られたことがよほど堪えたようだ。抜け落ちた白い頭髪が、糸くずのように肩にくっついていた。

 父は老齢。長男は腐傷。次男は半病人。スイハは父と血の繋がりがない自分はいずれ追い出されると話していたが、ヤースン家の状況的にそんな余裕はないだろう。逆に末子を頼りにするはずだ。それにスイハが兄たちを見捨てられるとも思えない。カルグはまだまだ全快には程遠いし、ラカンやコルサの反応を見るに、ホノエの不調はナサニエルが考えていたより深刻のようだ。

 不意に、老人会が揃って立ちあがった。診療所の待合室を思わせる緩んだ雰囲気が、一変する。背筋を伸ばした不動の姿勢は、主を迎える宮廷人のそれだった。

 ホノエ、スイハに続いて、ナサニエルは立ちあがった。

 謁見の間の前で、サクが大きく息を吸う。

 隣にいるトウ=テンと顔を合わせる。二人は無言で頷き合う。そうして再び、サクは前へと向き直る。凜とした顔つき、足取りで、一人、謁見の間に足を踏み入れる。背後で扉が閉じる音に一瞬だけ、睫毛が震えた。左右からの視線を受けながら歩みを進め、最奥の上段に据えられた椅子の前で止まる。

 一体、ここにいる何人がその存在を知っていただろう。

 十六年前、ヨウ=キキが腹に抱えて連れ去った遺児。ミアライの山奥にある小さな村で生まれ育った薬師。アサナギから新しい未来と可能性を託された者。

「皆さん」

 振り向き、胸の前で手を握り合わせながらサクは口を開いた。

「ヨウ=キキの子、サクナギです。今日は集まってくれてありがとう」

 たおやかな声音、素直な言葉に、老臣たちが息を呑む。

 血統を証明するものは何もない。にもかかわらず、先代、先々代の西州公に仕えてきた彼らは確信したのだ。この少女は紛れもなく、先代アサナギの子なのだと。

 兵部省の長オルガが目頭を押さえて鼻を啜った。

 彼らがサクに故人の面影を見るのは当然だ。〈CUBE〉の言う『精神の鋳型』というものが本当にあるのだとしたら、西州公たちは皆、限りなく同一に近い精神性を有していたことになるのだから。

 サクが色々と理由をつけてトウ=テンを同席させなかったのも、このあたりの事情が関係しているのかもしれない。普段、日常を共にしている相手に、見られたくないところもあるということだ。

 重厚な木製の椅子に、サクはゆっくり腰掛ける。足が浮く。浅く座り直して、辛うじて爪先を床に揃える。

 その様子を見ていた御服所の長ミソノが、おもむろに相好を崩した。

「失礼いたします、サクナギ様。御服所のミソノです。発言してもよろしいですか?」

 同輩の不敬を咎める視線に刺されても、ビクともしない。

 サクはやや緊張気味に頷いた。

「どうぞ」

 鷲鼻の老人は一歩前に進み出て、熱っぽく話し出した。

「その椅子は少し大きいでしょう。でもね、それでいいんです。なぜかって言うとですね、西州公様の正装はね、裾が長くなっているんですよ。足下は隠れて見えません。そんなに頑張って爪先を揃えなくて大丈夫。楽にして下さい」

「教えてくれてありがとう」サクは遠慮がちに足を崩した。「でもわたしは、西州公にはならないんです」

「まあ、なんとかなりますよ。六年、なんとかなったんです。難しいことはヤースン家の皆さんが考えてくれます。私は仕立屋です。お話が終わりましたら採寸と、色合わせを致しましょう。いい生地があるんです。晴れ着、仕事着、寝間着まで、ご要望があればなんなりと。あなたのお好みの衣装を、丹精込めて仕立てます」

 尊い人の衣装を仕立てられる喜びに、最高の仕事をするのだという意気込みに、頬を染めて目をキラキラさせている。この老人はどうやら根っからの職人らしい。

 ナサニエルはホッと息をついた。

 椅子に座っているサクを見る。よく言った、と思う。西州公にはならないと、老臣たちに期待を持たせないよう結論を先に出した。

 服を仕立てることにしか興味がないミソノ、事情を知っているラカンに動揺はない。一方で、コルサとオルガは、この宣言を受けて目に見えて狼狽えている。

「皆、静粛に。サクナギ様がお話しされる」

 ラザロがすかさず言った。年の功だ。場の空気を読んで御するのがうまい。

 老人たちの動揺が落ち着くのを見計らって、サクは膝の上で手を揃えた。そうしていると小柄さも相まって、座っているというより、椅子にチョコンと載せられているように見える。

「わたしはミアライで生まれました。今は薬師をして暮らしています。そうして生きていけるよう、母が育ててくれたんです。だからスイハが来るまで、自分の出生のことや、西州公のことは知りませんでした」

 サクの声は特別大きいものではなかったが、謁見の間によく響いた。

「ここへ来たのは、西州公の次代として生まれた責任を果たすため。そして、皆さんの献身に報いたかったからです。アサナギが亡くなってから、とても大変な思いをしてきたと思います。頑張ってくれてありがとう」

 兵部省のオルガが、目と鼻を赤くして首を振る。

「恐れながら、サクナギ様。私は、いやしくも兵部省を預かる身でありながら……多くの兵を死なせてしまいました。お言葉を受け取る資格がありません」

 落ち込む禿頭にサクが声をかけあぐねていると、図書寮のコルサがクイッと眼鏡をあげた。

「申し上げます。数の問題ではありませんが、西州兵の死傷者は五年前をピークにそれ以降は減少傾向にあります。民の犠牲はもっと少ない。たとえ最善の結果でなくとも、兵部省の働きは無駄ではなかったと言えるでしょう」

 彼は横目で怪訝そうにラザロを睨んだ。こういうのはヤースン家の役目だろうに、と言いたげな眼差しだ。

 コルサの視線に気づいていないのか、ラザロの顔に目立った表情はない。

 ナサニエルの隣から、スイハが小声で呟いた。

「なにか考えてる顔だ」

「悪巧みか?」

「わからない。用心しといて」

 そう言うあいだも、スイハは油断なくラザロを見張っていた。

 とはいえ、この状況で何ができるとも思えない。メイサの身柄はユウナギに奪われたままだし、謁見の間の入り口はトウ=テンが守っている。妙なことを企む時間などなかったはずだ。

 とりあえずスイハの懸念を心に留めておくことにして、ナサニエルは会話に意識を戻した。

「さきほどミソノが申し上げましたように、先代様亡き後、我々はなんとかやって参りました。しかし、何度も思ったものです。こんなとき、西州公様がおられれば、と。叶うならば、サクナギ様には西州公の位を継いでいただきたい」

「畏れ多いことですが、私も同感です」コルサに続いて、オルガが縋るような眼差しでサクを見る。「主のいない城は寂しいものです。いて下さるだけで、励みになるのです。あなたが初めてお言葉を述べられたとき、往年の西州公様の面影が重なりました」

 面影、と聞いて、サクはしばし瞑目した。

 やがて口を開き、こう言葉を紡ぐ。

「――人類は何度も、不可能を可能にしてきた」

「それは……」

 ラザロが夢から覚めたように顔を上げた。彼の声は疲れ果て、掠れていた。

「昔、ヨイナギ様が……まったく同じことを仰った」

「いいえ。それはヨイナギの言葉ではありません」

 目配せを受けてナサニエルは立ちあがった。

 腕輪を外して、そのうちの一つをサクに渡す。

「ご静聴願います」何が始まるのかと戸惑う老人たちの目が、ホノエに向いた。「これより皆様方にお聞かせするのは、西州公に隠された最大の秘密。国の安寧を守り続けた神通力の正体に他なりません。本題に入る前に、まずは私の口から、概要を説明させていただきます」

 話をしている隙に、ナサニエルは準備を進める。

 瞼を閉じ、五感を閉じ、第六の視界を開く。以前、師匠が鍵に見立てた腕輪を介し、サクに干渉したときの感覚を呼び起こす。光の届かない深淵の際まで意識を凝らす。

 ――見える。感じる。

 〈CUBE〉に繋がる、細く長い痕跡が、繭からほぐした糸のように伸びている。

 それを認識したまま、ナサニエルはゆっくり、慎重に五感を戻す。

「歴代の西州公様の中には、本来の人格の他にもうひとつ、別個の人物が存在しました。その根拠となるのは、先々代の図書寮の長が遺した手記の記述です。一部を抜粋します。『ヨイナギ様はあれを信じて頼るべしと仰ったが、あれは民の安寧に関心がない。道を整備するような無機質さで人の世を均す』。ヨイナギ様の公子時代の教育係でもあった彼は、ヨイナギ様とその人物を明確に区別し、別人と認識していた」

 どよめく老人たちに構わず、ホノエは淀みなく続けた。

「『日に日に、あれが出ている時間が長くなる』。これは、ヨイナギ様が病を得てからの記述です。これに関しては、アサナギ様に長く仕えた我が父ラザロ=ヤースンにも、思い当たる節があるはず。普段とはまるで別人のような振る舞い、ありえない言動……」

 ラザロは答えず、ふらりと、貧血を起こしたように椅子にへたり込んだ。肩を震わせて顔を覆っている。返事はなくとも、その反応が十分な証左だった。

 ラカンと同時期に、彼もまた、同じことを命じられたのだ。

 ユウナギを、次代を殺せと。

「……ありえない。本当に……そうだ」

 ラカンの吐息混じりの呟きは、同輩の耳に届くことなく消えた。

 ホノエは一呼吸置いてから続けた。

「『記憶を戻してはならない』と、図書寮の先々代の長は手記をそう締めくくりました。西州公の位を継ぐこと……それはすなわち、公子様たちに彼の存在を気づかせることでもあったのです」

 教導官ホーリーの記憶から、西州公は〈CUBE〉を信じて庇う。

 図書寮の先々代の長も、ラカンも、〈CUBE〉の存在に気づきはしたが、そこまでだった。彼がどこの誰なのか、どういう理屈で西州公と共に在るのか。

 その真相が今、ようやく明かされようとしている。

「記憶とはなんのことだ?」

 コルサの問いかけに答えたのは、サクだった。

「初代西州公の記憶です」

 その膝の上で、腕輪が仄かに光っている。

「彼女の名前はホーリー。過去の西州公たちはみんな、まるで生まれ変わりであるかのように、その記憶を受け継いできた。彼との繋がりも」

「あれは……彼とは、誰なのですか」

 憔悴しきったラザロの顔は、汗で濡れている。

「彼は〈CUBE〉といいます。遠い昔、人類が絶滅の危機に瀕していた時代に、スレイマン博士の手で生み出されました。説明が難しいけど……体を持たない、魂だけの存在なんです。災害を生き延びたホーリーは〈CUBE〉の助けを借りて、体を持たない〈CUBE〉はホーリーの体を借りて、二人で力を合わせてこの国を作りました」

 後半の説明は、サクの想像と願望が混じっている。

 だが真相は、この際どうだっていい。〈CUBE〉という存在が西州公の体を借りて、治世に関わっていた。それだけ老人たちに伝わればいいのだ。

「つまり我々は……知らず知らずのうちに、その〈きゅうぶ〉とやらの指図を受けていたということですか?」

 まだ理解が追いつかないのか、オルガは不可解そうに眉を顰めている。

「むむ……人の世を均すとは、言い得て妙な表現だ。先々代が罷免されたのは、秘密に迫りすぎたせいだったのかもしれんな……」

 コルサは思考に耽るように腕を組んだ。

「精霊がいるんですから魂だけの人がいたって驚きゃしませんが、体がないのは不便でしょうなあ。着飾る楽しみがないなんて勿体ない」

 ミソノの図太さも、ここまで来ると清々しいほどだ。

「記憶と共に、繋がりも受け継ぐ……。それはわかった。しかしだ。〈CUBE〉は西州公の病に、なにも対策しなかった。ヨイナギも、アサナギも、病を得て長く苦しんだというのに。わたしには彼の考えがわからない」

 ラカンの声には〈CUBE〉に対する明らかな批判が込められていた。

 サクは唇に指を当てて目を伏せた。

「わたしがアサナギを知らないように、〈CUBE〉も、ひとつ前の自分を覚えていないんだと思います。ホーリーの記憶と違って、次代が経験した記憶は引き継がれない。だからきっと……お互いに対策できないまま、繰り返す。同じ状況が起きたとき、同じ判断をしてしまう」

 神代写本を信じるのであれば、ホーリーと〈CUBE〉はすでに死者だ。

 再生などではない。死者は蘇らない。時間を戻す術はない。歴代の西州公と〈CUBE〉は、記憶と仕様を受け継いだ次代で、オリジナルを再現したものに過ぎない。

 こんなことを誰が仕組んだのか、答えは闇の中だ。

 だが、再現だと気づくことができたからこそ、できることがある。

「その仰りようですと、サクナギ様にも〈きゅうぶ〉が憑いているのですね。そんなものは祓ってしまったほうが良いのではありませんか」

「方法があるのなら、わたしもそれに賛成だ」

 オルガとラカンは〈CUBE〉に否定的だ。

「ひとつの体を共有するのは問題ですが、共同主権だと考えれば納得はできます。危険視して排除するのは早計に思えますな」

「〈きゅうぶ〉殿にも体があればいいんです。結局はそういう話ですよ」

 コルサは慎重派。ミソノの意見は単純だが案外的を射ている。

 ラザロは座り込んだまま黙っている。口の前で指を組び、見開かれた目はただ虚空を見ている。先ほどスイハが警戒していた「なにか考えている顔」だ。

 意見が割れても、老人たちは互いに言い争うことなく落ち着いている。訓練された犬が無闇に吠えないのと同じだ。尊い人の御前で醜態を晒すことは決してしない。

 サクは老人たちの顔を一人ずつ見つめて、微笑んだ。

「まず、皆さんにお礼を言わせて下さい。〈CUBE〉のことを……そんなものはいないなんて言わずに、真剣に考えてくれて、本当にありがとう」

 ナサニエルは手元に残った腕輪を宙に浮かせた。

 第六の視野と、目で見る視界が重なる。〈CUBE〉に繋がる細い糸に、輪を通す。

「わたしは皆さんに、次代として生まれた責任を果たしに来た、と言いました。それは西州公になることじゃなくて、ホーリーと〈CUBE〉が作ったこの国を、人の手に引き渡すことだと考えています」

 サクは膝に置いた腕輪を両手で握った。

 霊素の粒子が蛍のように淡く立ちのぼる。

「これから〈CUBE〉と話をします。ナサニエルに手伝ってもらって、わたしだけに聞こえていた彼の声を、皆さんの耳に届けます」

「そんなことができるのですか?」

 コルサの疑問に声に応えて、ナサニエルはニヤリと笑って見せた。

「〈風のたより〉の応用だよ。さっきのことを思い出してくれ。あんた達全員、その場にいないおれの声を聞いたろう?」

 確かに、と老人たちは頷き合う。

 実際のところ今回は、単純に自分の声を遠方に届ける〈風のたより〉と求められる技能が異なる。ナサニエルにとっても初めての試みだ。

「ナサニエル。はじめられる?」

 大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。慣れない護衛よりよほど向いている。サクが受け取った声を、腕輪を通じて音にするだけ。心臓を止められる心配はしなくていい。最大の危機は過ぎ去った。あとはほら、簡単だ。やるべきことをやれ。

「痕跡は捕捉した。いつでもいける」

 サクの膝の上で、腕輪が淡く明滅する。

 右手を耳に当てて――その仕草に意味はない――サクが口を開いた。それと同時に、ナサニエルは思わず天を見上げた。

 細く垂れる糸の先から、光の速さでそれは来た。

「〈CUBE〉。聞こえる?」

『無事なのか』

 待ち構える暇もない。

 人の世を均すもの。心ないもの。

 一部の人々からそのように言われてきた〈CUBE〉の第一声は、サクの身を案じるものだった。

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