33.白日


「ねえ、ジェイン。用心棒のトウ=テンさんのこと、四位って呼んでたけど……。あの、わからなくて。四位ってなんのこと?」

 香り立つお茶のカップから顔を上げて、ジェインはテーブル越しにいるメイサに微笑みを向けた。

「久鳳に七人の将軍がいるのは知ってる? そのうちの一人が彼。第四位将軍、勇者トウ=テンユウよ」

 気が緩んでいる。まるで、両親のいる実家に帰って来たかのようだ。

 昨晩、〈風のたより〉で団長に状況は報告した。本当ならすぐにでも仲間と合流しなければならない。だが今は、メイサが食後に入れてくれたお茶を言い訳にして、もう少し話をしていたい気分だった。

 だって、懐かしい人に会えたのだ。

 一晩経って、じわじわと興奮が湧きあがってきた。

 喋りたい。彼のことを一人でも多くの人に知ってほしい。

 将軍、と聞いて、メイサは目を丸くしている。その素直な反応が嬉しい。

「そんな人がどうして用心棒をしているの?」

「私も驚いたの。戦死したって聞かされてたから。あの頃はいろんな噂が流れていたわ。サナンの卑劣な罠にかかったとか、官僚の陰謀で殺されたとか……」

「ジェインは久鳳にいたのね。そのとき彼と知り合ったの?」

「知り合いなんてほどのものじゃないわ。命の恩人なの。……あなたは十年前、自分がなにをしてたか覚えてる?」

「この家に来たのが、ちょうどその頃だったわ。一緒に暮らしていたお母さんが亡くなって、父が迎えに来てくれた。そのとき初めて自分に兄弟がいるって知ったの」

「そう。心細かったでしょうね」

「ジェインは?」

 こちらが話したがっている気配を察して、聞き役を買って出てくれている。ジェインはメイサの厚意に甘えた。

「もう十一……十二年近く前よ」

 まだ精霊憑きの自覚もなく、日常の中にある小さな喜びや驚きを摘みながら漫然と過ごしていたあの頃。

 少女時代の思い出を、ジェインは懐かしく振り返った。

「父のお勤めの都合で、ヨームから久鳳に引っ越したの。父は建築家でね。帝都の旧市街を再開発する仕事を請け負っていた。新しい家は仕事場の近くだったわ。家賃が安かったし、通うのに便利だったんでしょうね。母は不便だってよく愚痴ってたけど、私はあそこの暮らしが嫌いじゃなかった。すぐに友だちができたし、気軽に父に会いに行けたから」

 父は結婚十年目にしてようやく授かった娘に大層甘く、ジェインが仕事場に顔を出すと「友だちには内緒だぞ」と言ってこっそり新区画の図面を見せてくれたりした。

 そんな愛おしい日々に、唐突に、場違いに鳴り響いたサイレンの音は、今でも忘れられない。

「なんの前触れもなかったわ。急に避難命令が出たの。一緒にいた友だちと別れて、父を迎えに走ったわ。だけど、仕事場はすでにもぬけの殻だった。馬鹿よね。近道を使ったせいで逆に入れ違いになって、私、避難区域に自分から取り残されてしまったのよ」

 途方に暮れているうちに、あちこちで建物が崩れ始めた。

 彼女は走った。土煙の上がっている場所からとにかく離れなければと、行く当てもなく走った。

「どこをどう逃げ回ったかなんて覚えてない。気づいたときには、無事な建物の中に隠れてた。でも、そこも安全ではなかったの。そのうち動けないくらいの地響きが起きて、危険がすぐ近くに迫ってるってわかったわ」

「それは事故? なにかが爆発したの?」

「いいえ。信じられないことだけど、旧市街の倒壊はすべて一人の人間が引き起こしていたの。世間では魔物の仕業だってことになったけれど、私は見た。黒い襤褸をまとった人物が、大きく肩をいからせて獣のように吠えているのを」

 あれは『逸脱者』という、魔物以上に危険な存在なのだと。誰にも言わないという約束で四位が教えてくれたのだ。思い出すまで忘れていた。昨晩の再会がなければ一生、記憶の底に封じられたままだっただろう

「あいつが威嚇している先にいたのが、四位だった。降ってくる瓦礫に次々に身を潜めながら、すごい速さで距離を詰めていったわ。一度も止まらなかった。あっという間に後ろを取って相手を倒したの」

 それはさながら、閃光のようだった。瞬きをしたら見逃してしまうほどの速さで、四位は死線を越えて勝負を決めたのだ。

「あとから体が震えてきて、私、声を上げて泣いたわ。子どもがいるって気づいて、四位はとても驚いてた。……それだけ。たったそれだけの縁よ」

 名前を聞かれ、しゃくり上げながらジェン、と名乗った。父が建築家で、ここで働いていること。迎えに行ったけれど会えなかったこと。経緯を説明したつもりだったが、泣いていたためにどこまで言葉に出来たかわからない。

 四位は膝を突いて、ジェインが落ち着くまで大きな手で背中をさすってくれた。

「そのときはまだ四位のことを何も知らなかったの。保護されたあと、彼を支援していたハッコウ傭兵団の……前団長が教えてくれた。人喰いの蛮族を倒した勇者で、傭兵と初めて雇用契約を結んだ将軍だって。私、彼の力になりたかった。だから団長に無理を言って、押しかけみたいなかたちでハッコウ傭兵団に入れてもらったの。両親には大反対されたけどね」

「ジェインの人生を変えるきっかけになった人なのね」

「ええ。……四位がいた頃の帝都は活気で溢れてた。ひと旗揚げようと世界中から傭兵が集まって、商人もたくさん出入りして……」

 人喰いの蛮族の脅威がなくなって、四位が『戦死』するまでの三年間は、まさに久鳳の全盛期だった。世界中の珍しいものが市に並んだ。人種や国籍を問わず、様々な職業の人たちがいた。魔道士ですら、組織に所属している者に限りという条件付きではあったが、大手を振って暮らすことができた。まるで毎日がお祭りだったのだ。

 泡沫の、夢のような日々だった。

「……自由に生きられる場所って、思っていたより少ないものね」

 四位が『戦死』した後、傭兵を正規に雇おうという将軍はおらず、傭兵たちも、勇者以外と組んでも捨て駒にされるだけだと次々に帝都を離れていった。ハッコウ傭兵団は要人警護に定評があったので食い詰めることはなかったけれど、先代団長の判断で五年前、とうとうヨームに拠点を移した。

 ジェインは唇を噛んだ。

 先代団長が引退を表明して、シュウが跡を継ぐと聞いたときは傭兵団を辞めようかと本気で悩んだ。潮時だと思ったのだ。新規の顧客は年々減っていたし、実家にいる両親を安心させたい気持ちもあった。

 でも辞めなかった。

 シュウに泣きつかれたからではない。

 故郷に帰るということは、今後一生、魔道士であることを隠して生きるということだ。

 それは嫌だった。精霊と心をひとつにしたとき体中から湧きあがる歓喜と興奮。肉体という枷から解き放たれて魂が自由になる感覚を、一生封じて生きていくなんて、大空の下で息をするなと言われているようなものだ。

 ――触れれば障りがあり、殺せば祟りをもらう。

 誰が言い出したか、各国に共通するこの戒めのせいで魔道士はいまだ肩身が狭い。堂々と名乗れる西州が逆に異端なのだ。

 ジェインは空になったカップを置いた。

「聞いてくれてありがとう。そろそろ行かなくちゃ」

 荷物を背負って玄関口に向かう。

 屋敷の使用人が、道が悪いので馬車を使うよう勧めてくれたが辞退した。メイサの警護が一区切りついた今、自分一人のためにそこまでしてもらうわけにはいかない。

 玄関を出たところでジェインは振り返った。

「さようなら、メイサ。いつかまた、縁があったら会いましょう」

「ジェイン。私、あなたのこと好きよ」

 それは完全な不意打ちだった。

 呆然とするジェインに、メイサは上目遣いで照れたようにはにかんだ。

「あなたにはたくさん助けてもらったわ。いつかなんて言わないで。私はまた、あなたに会いたい。仕事抜きでも、さっきみたいにお話しできたら嬉しいもの」

 面映ゆいほど素直な好意に、どう反応していいか戸惑う。

 ただ、不愉快ではなかった。胸の奥から優しい気持ちが溢れてくる。

「……そうね、メイサ。私も……」

 ジェインはハッと空を見上げ、とっさにメイサを後ろに庇った。

 彼女たちの前に男が一人、黒い髪を翻して音もなく空から降り立った。ジェインは驚愕と共にその名を呼んだ。

「ナサニエル……!」

「メイサ=ヤースン。すぐ来てくれ」

 乱れた髪を整える間もなく、ナサニエルが険しい面持ちで切り出した。その様子は、宮のほうで異変が起きたのだと察するには十分過ぎた。

 メイサが血相を変えて尋ねる。

「なにが起きたんです?」

「ユウナギが戻った」

「公子様が……!」

 ナサニエルが声を潜めろと言わんばかりに口の前に指を立てる。メイサは困惑し青ざめながらも、口を押さえてコクコク頷いた。

 ジェインは気持ちを切り替えるために息を吸った。

 現実というのはいつもこうだ。前触れなく突然で、嵐のようにすべてを巻き込んでいく。渦中にいると気づいたときにはもう遅い。後手に回らざるを得ない状況で、自分たちはできうる限りの最善を尽くすしかない。

 せめてもの慰めは、この男も例外ではないということだろうか。

「おれたちじゃ手に負えない。あんたの助けが必要だ」

 規格外の魔道士から聞けたこの一言で、ジェインは少なからず溜飲が下がった。



 最善を尽くした、という自負はある。

 それはまだ、低い位置にいる太陽が地上をぬるく照らしている時分のことだった。典薬寮の給湯室で食べ物を漁っていたナサニエルは、突如として幻視に襲われた。それは例えるなら溶鉱炉でドロドロに溶かされた鉄、何もかもを焼き尽くす真っ赤な濁流だった。

 もちろん、現実に空気が熱を帯びていたということはない。

 その正体は極めて高濃度の霊素だ。魔道士は特に影響を受けやすく、めまいや頭痛、酷くなると嘔吐、意識消失に至る。脳を揺さぶる幻視を振り切った彼は、すぐさま霊素の出所へ向かった。

 辿り着いた先はカルグの病室の前。開け放たれた扉の中を覗いたナサニエルは、愕然とした。

 以前見かけたときは鹿の姿をしていた。

 それが女の姿を取って、癇癪を起こしていたのだ。

「きらい! きらい、きらい!」

 裸体を隠す長く白い髪は眩く輝き、朝焼けを思わせる瞳は燃えていた。

 部屋を入ってすぐのところに老医師ラカンが蹲っていた。高濃度の霊素に当てられたのだろう。額を押さえて、めまいを起こしているようだった。ナサニエルはとっさに老医師を部屋の外に引きずり出し、扉を閉じた。直後、内側から何かがぶつかる鈍い音がした。

 まるで嵐だ。

 人の力でどうにかできるものではない。対面した一秒でそのことを悟ったナサニエルは、すぐさまサクを呼びに行こうとした。

 それを引き止めたのはラカンだった。

「すまんが、君。メイサを呼んでくれ」

 ナサニエルは正気を疑ったが、老医師は顔色は悪くとも目つきは確かだった。

「サクナギはいかん。火に油だ。メイサが宥めればユウナギも落ち着く」

「なにを根拠に……」

「いいから呼んできてくれ。責任は私が持つ」

 結果的に、老医師の判断は正しかった。到着から半刻もしないうちに、メイサはユウナギを落ち着かせることに成功したのだ。

 風呂に入り、服を着て、食事を取って。カルグの病室に戻ってきたとき、ぽかぽかの体にお腹まで満たされて、ユウナギはご満悦だった。

 寝台に腰掛けて、彼女は綺麗に三つ編みされた髪を自慢げに撫でた。

「カルグ、見て。きれいでしょう。メイサがやってくれた」

「うん。綺麗ですね」

「この飾り紐がユニとお揃いなんだって。わたし、会いに行ってくるね」

 そう言ってユウナギは、侍女のように側に控えていたメイサにくっついた。世話をされるうちにすっかり気を許したらしい。

「ユニは何してるかなー。ご飯食べてる? まだ寝てる?」

「ご案内いたしますわ。でもその前に、公子様。ひとつ約束です」

 ユウナギの手を取り、目を見て話すメイサは、まるで小さな子どもを諭すようだった。

「この時間、医術師たちはもう仕事を始めています。国の医療を支える大事なお仕事です。彼らの邪魔をしないよう、廊下は静かに歩きましょうね」

「はーい。ねえ、早く行こう!」

 本当にわかっているのやら。

 この調子では、公子の帰還が典薬寮中に知られるのも時間の問題だろう。

 やっと静かになったかと思ったのも束の間、ユウナギが戻って来て顔を覗かせた。

「ラカン! さっきは怒ってごめんね?」ニッと歯を見せて、悪びれない顔で笑う。「あとそっちの、なんだっけ。スイハと一緒にいたおまえ。これ返すよ」

 そう言ってユウナギが放ったのは、スイハに貸していた根付けだった。

「片手がないと不便だろう」

「……ちゃんと洗ったんだろうな」

「おまえ、無礼なやつだな。まあいいか。スイハを守ってくれたことだし。多少のことなら目を瞑ってやる」

 歯に衣着せぬ物言いといい、奔放な振る舞いといい。とんだじゃじゃ馬だ。

 ナサニエルが推察するに、おそらくユウナギは、ホーリーの記憶を持っていないのだろう。もしくは持っていたとしても、自我が混同するほど鮮明なものではないのだ。

 幸いなことではあるが、厄介でもある。

 記憶があろうがなかろうが、オリジンであることに変わりはない。〈CUBE〉が言うところの霊素の産生炉。呼吸をするだけで精霊を活性化させる、世界の要石。

 こいつが暴走したらどうしようもない。

 いざというとき歯止めになるであろうカルグが存命でよかった。もし治療が間に合わず死んでいたらと思うと、ゾッとする。

「ラカン、あとでラザロ呼んできて。じゃあね」

 ひらひらと手を振ってユウナギは今度こそ出て行った。

 ラカンが深く息をついた。

「やれやれ……」

「メイサはどうやってあのじゃじゃ馬を手懐けたんだ?」

「あの子は優しいからね。だからこそ……それこそが、ヤースン家が西州公の側役に取り立てられた理由なのだよ」

 カルグの寝台を回り込んでラカンは窓掛けの紐を引いた。日差しが遮られて室内がやにわに薄暗くなる。それは内密の話をするという暗黙の了解に思えた。

「君は、〈竜殺し〉の弟子だそうだね」

「ああ。あんたくらいの年なら知ってるのかな。うちの師匠が四十年くらい前、こっちに邪魔したことがあるんだって?」

 老医師は目を伏せて、自嘲気味に微笑んだ。

「サクナギはわたしを賢者と呼んでくれたが、本当の知恵者とは彼のような者を言うのだろう。〈竜殺し〉のオブライエン。彼は来る前から知っていたようだった。西州公の持つ、もう一つの側面……『彼』のことを」

 寝台の脇の椅子に腰を下ろすラカンの姿を、カルグが怪訝そうに見つめた。おそらく彼も初めて聞く話なのだろう。

 考えてみれば、この老医師は先代、先々代と西州公を看取ってきたのだ。

 年寄りというものはまったく。瀬戸際まで追い詰められなければ、重大な秘密を後生大事に抱えて墓まで持って行くのだから始末に負えない。

「〈竜殺し〉が、どうしようもないものに成り果てたと断じたアレを……それでもヨイナギは信じて庇った。最期まで。彼女だけではない。その前の西州公イサナギも、『彼』と心中するように病を得て死んでいったよ」

「教えてくれ、先生」

 ナサニエルは宙に腰掛けて足を組んだ。奇異なものを見つめる眼差しを受け、この感覚は久しく忘れていたなと口の端で笑う。

「どうしてヨウ=キキを逃がした」

 驚きを引っ込めて、老医師は物思いに耽るように目を細めた。

「当然の疑問だろうね」

「西州公の最期は決まって病死。医術師としては苦渋の結末だろうが、それだって言ってしまえば『今さら』のことだ。次代を育て、先代を看取る。宮中のサイクルは変わらない。どれだけ強い感情も、喉元を過ぎれば忘れちまうのが人間だからな。なのにあんたは、サクナギを身籠もったヨウ=キキを逃がし、ユウナギとカルグの密通を黙認した。同じ轍は踏まないっていう執念みたいなものを感じるよ」

 ラカンはくつくつと笑った。

「執念か」

「一体なにが、あんたをそうまでさせた?」

「怒りだよ」

 間を置かずに返ってきた答えに、ナサニエルは目を丸くした。

「『彼』の所業に、ラザロは目を瞑った。わたしはできなかった」

 穏やかな佇まいから仄かに立ちのぼる、青く揺らぐ炎を見た気がした。この老人の内側には今も、昔日の怒りが熾火のように燃え続けているのだ。

「わたしは医術師だ。平凡な感性を持った、どこにでもいる人間だ。許せないことは許せない。生まれたばかりの赤ん坊を殺せと言われて……」

「待てよ。誰のことだ?」

「ああ……すまない」ラカンは我に返ったように髭をしごいた。「ユウナギは、生まれたときに母親を亡くしていてね。それが『彼』には気に食わなかったようなのだ」

 なぜ今代に限って、西州公の跡を継ぐべき白い獣が二人もいるのか。

 合点がいった。

 ユウナギは生まれながらにして資格がないと見なされたのだ。

 教導官ホーリーは人類を傷つけてはならない。母体の命と引き換えに生まれた次代は、すなわち、ホーリーにはなり得ない。理不尽な話だと思うが、アサナギと共にあった〈CUBE〉はそう判断したということだ。

「生まれたときから親殺し。なるほどね。おれと同じ〈忌み者〉ってわけだ」

「出産で母体にかかる負担は大きい。母親が命がけで送り出してくれた自分の生を、そんなふうに言うのはよしなさい」

「別に卑下しちゃいないさ。自分で名乗ったわけでもなし」

 それより、とナサニエルは組んでいた足を解いた。

「ユウナギを生かし、サクナギを逃がした。あんたは罰を受けなかったのか?」

「当時はね。ユニが生まれたときに初めて、監督不十分で罷免を言い渡されたよ。ラザロの口添えで謹慎になったが、結局……アサナギの存命中に戻ることは許されなかった。可哀想なことをした……」

 ラカンの謹慎後、その後釜についた医術師は、西州公崩御のどさくさに紛れて忽然と行方をくらましたという。

 ナサニエルは不穏な予感を覚えた。

 カルグが精神操作によって自由を奪われ、ラカンが不在だった期間。これを仮に空白の三年間としよう。

 そのあいだ、ユニは両親から引き離され、ひとりぼっちで閉じ込められていた。幼子にとっては終わりの見えない、まさに暗闇に置かれたような孤独と恐怖だったはずだ。少女が負った心の傷はしかし、この六年でだいぶ癒えたに違いない。スイハと手を繋いで、陰のない明るい顔で笑っていた。普段からヤースン家の兄姉に――本当は叔父と叔母にあたるわけだが――大事にされているのだ。

 問題は、助けてもらえなかった者たちだ。

 兄の豹変を目の当たりにしたホノエは、過去の歴史を紐解くことで西州公の正体に迫ろうとした結果、神経を病んだ。図書寮の奥深くに眠っていたソラの叡智に触れ、それが現代では解明できない文明であることを理解してしまったがゆえに。

 ナサニエルの見立てが正しければ、彼は世界でも稀少な瞬間記憶能力者だ。スイハも相当物覚えが良いほうだが、ホノエは常軌を逸している。なにせ過去に目を通したすべての書物の内容を正確に記憶しているのだ。そして瞬間記憶能力というものは、持たざる者からすれば便利に思えるが、辛く苦しい出来事まで鮮明に記憶してしまうのだという。六年前の焚書のことも、本人にとっては昨日のことのように思い出すことができてしまうのだろう。あれは半病人の顔色だ。ソラの叡智を丸ごと記憶しているホノエは重要な証人であるから、今後のためにも、どうにか立ち直って欲しいところではあるが。

  空白の三年間の最大の懸念は、ユウナギだ。

 夫と娘を一度に奪われ、幸福な日々を失った。彼女は西州公を憎んだはずだ。

 ナサニエルは思考を止めて、寝台に横たわる病人を見下ろした。

「カルグ。返事をしなくていいから聞いてくれ」

 最低限の礼儀くらいは心得ている。彼は宙から降り立った。

「おれは二年間、西州の異変を調査してきた。スイハにくっついて行ったおかげで、やっと進展したってところだ。あんたの手紙も読んだよ。おかげでわかったこともある。異変の発端はユウナギだ」

 突然の告発に対して、カルグは顔色ひとつ変えなかった。

 いずれはスイハもこうなるのだろうか。不意に湧きあがった感情を、奇妙に思いながら吟味する。誰かの将来を思うなど初めてのことだ。

 ラカンが怪訝そうに問いかけた。

「ユウナギが一体、どうしたというのだね」

「黒い獣の出現条件、そして六年前の状況から導き出せる結論は、ひとつしかない。西州公は殺された。ユウナギが手を下したんだ」

 老医師は即座に首を横に振った。

「あの子がそんな恐ろしいことをするはずが……」

「いえ、先生」カルグが言葉少なに告げる。「ユウナギは、やります。考えるより先に……怒りがあれば」

 そこなのだ。問題は。

 過ぎたことは変えられない。道徳の話をしようというわけでもない。単純に、オリジンの力を感情任せに振りかざされては困るという話だ。

「過去のことはいい。したいのは先の話だ。あんた達を悩ませてきた異変は解決できる。スイハの言うように、この国は変わることができるんだ。ただそのためには、黒幕にご登場願わなきゃならない」

「黒幕……。まさか」

 絶句するカルグに、ナサニエルは頷いた。

「やつの名前は〈CUBE〉。西州公と共に在り、この国を管理してきた存在だ」

「サクナギは『彼』の声を我々に聞かせると言っていたが。本当に大丈夫なのかね」

 ラカンはさすがに不安を隠せない様子だった。

 〈CUBE〉は基本的に、西州公の意識を押しのけて体を乗っ取るかたちで表に現れる。先代や先々代の西州公たちを側で見てきた老医師が心配するのも無理はない。

 ナサニエルは自分が受けた説明を繰り返した。

「体を明け渡すのは緊急時か、二人のあいだで合意があったときだけらしい。サクが受け取った〈CUBE〉の声を、周りにも聞こえるよう音にして出力するのがおれの仕事だ」

「離れた場所でも会話ができる……魔道士の力の応用ですか?」

「まあ、そんなとこだ」

 州都に着くまでに、〈風のたより〉を応用して何度か練習した。どんなことでもそうだが、習得の第一歩を阻むのは出来ないという思い込みだ。コツはすでに掴んだ。片腕が戻った今ならば、信号を音にすることなど容易いことだ。

 サクが〈CUBE〉と何を話すつもりなのかは、ナサニエルも知らされていない。ひとつ確かなのは、二人が始めたこと、昔から続いてきたことがついに終わるということだ。

 カルグの治療を終えて、予定通り、順調に行くはずだった。

 今朝までは。

「おれは大事な仕事を邪魔されたくない。ユウナギが余計なことをしないよう、見張っててほしいんだが」

「わかった。ユウナギの世話は引き続き、メイサに頼もう。といっても、しばらくはユニに夢中だろうが……」

 娘と再会している今が好機というわけだ。徹夜明けでサクも疲れているだろうが、急いだ方がいいだろう。

 病室を出て行く前に、ナサニエルは老医師に尋ねた。

「先生。あいつ、〈CUBE〉はお世辞にも友好的とはいえないやつだよな」

「こちらを突き放すところはあったね」

「それを踏まえた上で疑問なんだが。どうしてヤースン家は西州公の側役でいられたんだ?」

 素朴な疑問だ。

 人類を絶滅させてやるとまで言った〈CUBE〉が、西州公の側近くに人間を置くことをなぜ許したのか。

「……さっきも言ったように、優しさだよ」

 ラカンの答えは簡潔だった。

「メイサ、それにホノエが色濃く受け継いだヤースン家の気質……。他者の痛みに寄り添い、共に生きる。彼らにとってそれは理屈ではない。損得を抜きにした本能なのだ」

「そんな理由で重要な役職を与えるのか? 善良な人間が必ずしも正しい判断をするとは限らないんだぜ、先生」

 老医師は首を振った。そうではない、とでも言うかのように。

「公平無私で知られた西州公たちにも、願いがあった。世界中の人々に、こうあって欲しいという願いが。互いを許し合う心。助け合いの精神。人種や国家、思想の垣根を越えて、いつの日か……人々が共存共栄を実現することを、彼女たちは心から祈っていた」

 それは、死にゆく者へのせめてもの慰め。

 彼と彼女が育てた土地に芽吹いた、ささやかな希望。

「わかるかね。ヤースン家は西州公の願望を体現した人間だった。彼らの優しさは、病に伏せる西州公の心の支えだったのだ」



 蚊帳の外、という言葉がある。

 よそ者、部外者、野次馬。ジャンドロンの好きな立ち位置だ。一歩引いた場所は視界が広い。当事者たちの一挙手一投足を観察しながら思考を広げるのに打ってつけである。

 とはいえ、いつまでもこの立場に甘んじてはいられまい。

 昨夜、事態が大きく動いた。

 ヤースン家の三男が、とんでもない顔ぶれを連れて帰ってきたのだ。

 〈忌み者〉のナサニエル。そして、第四位将軍トウ=テンユウ。

 雇われた先が同じであれば良かったのに、と心から思う。前者はかの悪名高い〈竜殺し〉の弟子で、後者は人喰いの蛮族を討伐した勇者。西州公の遺児の用心棒として、これ以上の人材はいない。彼の現役時代を知るジャンドロンにしてみれば、今のうちに白旗を準備しておきたいくらいだ。

 ここ宮中では、私闘、暴力、刃傷沙汰は固く禁じられている。それでも依頼人の命令があれば、道理に背くことでも従わねばならないのが傭兵だ。

 先代から託された、ハッコウ傭兵団の名を貶めることだけは避けたい。そのために日頃から客層を選んで仕事をしている。ラザロ=ヤースンが傭兵の名誉を軽んじるような人物だとは思わないが、いざというときは、こちらから諭す必要も出てくるだろう。

  ナサニエルとスイハが連れ立って出かけていくのを見送り、時刻は午後を跨ぐ。

「ジャンさん。交代するよ」

 片手を挙げてジャンドロンに近づいてきたのは、団員のピジョンだ。

「向こうは騒がしいよ。なんかユウナギ公子が帰って来たとか……。庭を歩いてた、あの白い髪の人がそうだったのかな」

 ピジョンは狙撃手だ。視力と聴覚に優れ、情報収集能力で言えばジェインに次いで高い。宮中の見回りついでに周囲の微かな囁き声に耳をすませていたのだろう。

 鋭い五感に加え、射撃の精度も高い。それなのにハッコウ傭兵団に入る前は、人を撃てないという、ただひとつの欠点で仕事を干されていた。

「女の子と手を繋いで上機嫌に歌ってた。すげー下手くそだったな」

 彼は思い出し笑いではにかんだ。荒んでいた入団当時からは考えられない穏やかさだ。

「ジェインはまだお嬢さんについてるよ」

「仕事ですからね。シュウとハツセミはどうしています?」

「ハツセミのことは知らないけど、団長は依頼人から呼び出し食らってる。ジャンさん、助けてあげてよ」

「やれやれ。行くとしますか」

 ジャンドロンは持ち場をピジョンに預けて典薬寮を離れた。

 優れた五感がなくとも、宮中の空気が昨日と変わったことは肌で感じ取れた。西州人の良くも悪くも素直な国民性がよく出ている。ジャンドロンはその長い足で黒光りする板張りの廊下を進んだ。

 回廊で、シュウが手すりにもたれて中庭を眺めていた。

「団長。哨戒任務中ですか?」

「お疲れ、ジャンドロン」

 シュウは中庭の四阿を指さす。

 女性が三人、少女が一人。ユウナギ公子と、メイサ、ジェイン。そしてユニだ。冬用の外套に身を包み、火鉢を囲んで暖を取りながら寛いでいる。いや、ジェインはいささか緊張しているだろうか。

「依頼人はなんと?」

「手を出さずに様子を見ろってさ。事情はよくわからないが、よっぽど後ろめたいことがあるんだろうな。やっこさん、真っ青だったよ」

 どうやらラザロ=ヤースンにとって、ユウナギ公子の帰還は喜ばしいことではないらしい。つかず離れず、手出しせず様子を見ろとは。まるで機嫌を損ねることを恐れているようではないか。

 どの国でもそうだが、国王の跡継ぎが複数いれば、ややこしい問題はいくらでも湧いてくる。そのうえ西州公の一族には、魔道士を遙かに凌ぐ神通力まであるのだ。

 隠された遺児の存在、六年ぶりに帰って来た公子。

 いやはや、とジャンドロンは眉間を押さえた。

「とんだ厄介ごとに巻き込まれましたね」

「なあ、ジャン。四位に会ったのか?」

「会いましたよ。本人で間違いありません。私のことも覚えていましたしね」

「そうか……。……そうかぁ」

 シュウは手すりにもたれて頭を抱えた。

 そうしたくなる気持ちは理解できる。ジャンドロンは昨晩、十年ぶりに再会した顔を思い浮かべた。

 依頼人の意向次第では、戦わなければならない。勇者と呼ばれた男と。そして実に残念なことに、ユウナギ公子に対する姿勢から、ラザロ=ヤースンが遺児の身柄を確保しろと言い出す可能性は十分にあり得るのだ。

 シュウが頭を抱えたまま、低く呻いた。

「……ハッコウ傭兵団は、一度引き受けた仕事は完遂する」

 ハッコウ傭兵団。

 第四位将軍のもとに集った有象無象、数ある傭兵団のうちの一つ。

 それが名前を覚えられるまでになったのは、どんなに些細なことでも請け負った仕事は確実にこなす、先代団長の堅実さを買われたからだ。

 十年以上前、四位にかけられた一言を、ジャンドロンは今でも覚えている。

『さすが、ハッコウ傭兵団は良い仕事をする。これからもよろしく頼む』

 本人の口からそう告げられたときは、らしくもなく胸が熱くなったものだ。あの日は夜遅くまで先代団長、ハク=コウシュンと肩を組んで飲み歩いた。

 人の縁とは皮肉なものだ。

「親父の代から……頼まれたらなんでもやってきた」

「浮気調査や迷子捜し、喧嘩の仲裁もしましたね」

「……参ったな」

「シュウ。先代のことは考えなくてよろしい」

 ジャンドロンはしょぼくれるシュウの肩を叩いた。団長の座を継いでから五年目。彼が年長者の助言を必要とするのもあと一、二年のことだろう。

「依頼人が欲するのは結果だけです。過程の取捨選択は私たちに委ねられている。方針が定まったら言って下さい。落とし所を探しますよ。私はあなたが率いるハッコウ傭兵団を、結構気に入っているんです」

 幸い、四位は話の通じない人物ではない。暴力を好む性格でもない。こちらが話し合いの意志を示せば、必ず応じてくれる。

 少しは気休めになったのか、シュウはやっと顔を綻ばせた。

「……ありがとう。ジャン」

 四阿に動きがあった。

 ユウナギ公子が立ちあがった。屋内に戻るようだ。ユニが手を引いて先導する。ラザロから様子を見ろと言われている手前、自分たちも距離を置きながらついていくべきだろう。

 そこまで考えて、ジャンドロンは辺りを見回した。

「ハツセミの姿が見えませんね」

「そういや、昼飯が終わってから見てないな……」

 ハツセミは久鳳の元軍人だ。昨晩〈風のたより〉で四位の存在を聞いたときは、目を爛々とさせて落ち着きのない猿のようにウロウロしていた。

 まさかとは思うが、一夜明けてまだ興奮が冷めていないのだろうか。

 嫌な予感がした。

 シュウも同じ懸念を抱いたようだ。

「……あいつ、まさか四位にちょっかい出してないだろうな」

 それはまずい。実にまずい。下手をすれば交渉の余地が消える。

 こうしてはいられない。

「四位は典薬寮だったな」

「公子のことは今しばらくジェインに任せましょう」

 頷き合って、彼らは全速力で駆け出した。



 典薬寮には空き部屋がたくさんある。まだ市街地に医療院がなかった時代、療養病床として開放していた名残だという。州都周辺の土地の開拓のために、かつて国中から多くの人々が集まり、子を産み育て、年老いて死んでいった。過去の西州公たちは、この典薬寮で何人もの人間を看取ってきたのだ。

 そんな歴史ある古色蒼然とした区画に、場違いな音が響いている。

 スイハは体を強ばらせた。

 硬質な、低い音が、絶え間なく。最悪なことに彼らの進行方向から、トウ=テンとサクが使っている部屋のほうから聞こえてくる。

 緊急事態だ。

 こんな場所で打ち合い稽古をしているわけがない。宮中で、まさか刃傷沙汰か。寝不足も相まってスイハは気が遠くなりそうだったが、先んじて駆け出したナサニエルの背中を見て、まずは事実確認をしなければと気を引き締めた。

 角を曲がったところでナサニエルの腕が行く手を塞いだ。

 廊下の先で繰り広げられている光景に、スイハは息を呑んだ。

 剣戟の火花が飛ぶ。

 ぶつかり合う武器はどちらも似た形をしている。薄ら寒くなるほど鋭利な切っ先、細長い刀身。久鳳の刀だ。そして刃を交える二人もまた、久鳳人だった。

 一方は、もちろんトウ=テンである。部屋の扉を背にして一歩も動かないまま、素早く繰り出される攻撃を涼しい顔で防ぎきっている。スイハたちのほうへ一瞥を投げる余裕さえあるほどだ。

 もう一方はというと、見覚えがない。年の頃は二十代半ばほど。中肉中背の男だ。艶のないぼさぼさの黒髪を後ろで一つに括っている。

 男は曲芸師のように壁を、天井を蹴り、身軽に立ち回りながら、果敢にトウ=テンの間合いに挑んでいる。息をつく暇もない連撃はしかし、一撃も届かない。髪の毛一筋に掠りもしない。ことごとく防がれているというのに、汗の粒を飛ばしながら刀を振る精悍な横顔は、笑っていた。ただただ、刃を交わすのが楽しくて堪らないというかのように。

 着地の足下がわずかにぐらついた。トウ=テンが突きを繰り出す。すれすれで躱した男がニヤリと笑った瞬間、その下顎を、死角から振り上げられた鞘がしたたかに打ちつけた。

 悶絶する男を見下ろして、トウ=テンが溜息交じりに刀を鞘に収める。

「もういいだろう」

 天と地ほどの差がある。

 事の重大さも忘れて、スイハは興奮した。素人目にもはっきりわかるほど、トウ=テンは圧倒的だった。

 男は床に仰向けになって、瞑っていた瞼をカッと見開いた。

「負けたッ!」

 カラカラと、大きな笑い声が天井に響き渡る。

「トウ将軍、今年で何歳だよ。昔より強くなってんだろ!」

「……バン=ハツセミ。武家の息子が、こんなところで何をしている」

 男は笑うのをやめてバッと体を起こし、まじまじとトウ=テンを見上げた。

「俺のこと覚えてんの?」

「稽古場によく来ていた。それに、親父さんがいつも自慢していたからな」

 どうやら知った顔らしい。

 しかし、いくらトウ=テンの知り合いでも、宮中で武器を振り回した事実を見逃すわけにはいかない。誰の指図で来たのか、どこから入り込んだのか、何が目的か。取り調べを受けてもらわなければ。

 幸い、衛士を呼ぶ前に身元は知れた。

 ハッコウ傭兵団の団長、副団長が駆けつけてきたからだ。

「ハツセミ! なにしてる!」

 左右から拘束されて、バン=ハツセミは舌を出した。傭兵団の仲間だったのだ。フーテンの無頼漢でないことはわかったが、そうなるとなおさら、トウ=テンを襲撃した理由が解せない。団の意向でないことは団長シュウの青い顔を見れば明白だ。

「彼は我々の仲間です。四位殿。それに、スイハ=ヤースン殿。このような騒ぎを起こしてしまい面目次第もございません。どのような処分も受けます」

 スイハは、深く頭を下げるジャンドロンを見つめた。灰色の髪が、風を受けたように乱れている。よほど慌てていただろうに、この往生した態度。昨夜は視界の暗さも相まって得体の知れない印象を抱いたが、改めて見ればいかにも、年若い団長を補佐する老練の副団長である。

 事を起こしたハツセミはというと、床に正座している。視線だけ向けると目が合った。紺色の瞳に悪びれた様子はなく、かといって、こちらを子どもと侮る気配もない。

「バン=ハツセミ。いくつか質問させて下さい」手振りでジャンドロンに頭を上げるよう伝えながら、スイハはハツセミに話しかけた。「さっきトウ=テンも言ってたけど、どうして国を離れて傭兵をやっているんですか?」

「最近は戦争らしい戦争もなくってね。腕っ節だけが自慢の三男坊は、出稼ぎでもしないと食っていけないわけ」

「トウ=テンを襲った理由は?」

 ハツセミが見せた苦笑は自戒めいていた。やらかした自覚はあるようだ。

「夢だったんだ。第四位将軍閣下と手合わせするのが」

 トウ=テンが辟易と首を振る。

「俺はもう四位じゃない」

「そんなことないよ。四位は今でも四位だよ」

 さも当然のような口調に、彼は怪訝そうに眉を顰めた。

 続きを促すような眼差しを受けて、ハツセミが嬉しそうに口を開く。

「この十年、四位の席はずっと空いたままだ。クザン帝が許さないんだよ。四位は勇者の席だからって、誰もそこに座らせない。まあ、座れるほどの武勲を立てられるやつなんて、今の久鳳にはいないんだけど」

「――話はわかりました」

 西州を害する意図はないということだ。

 衛士に引き渡したところでスイハの利になるところは少ない。今後のことを考えたら見逃して恩を売っておくべきだろう。こういう繋がりは大事にしていかなければ。

「本当なら捕まえるところだけど、幸い怪我人もいないし、ハッコウ傭兵団の日頃の働きには感謝しています。今回の騒動については不問にしたいと思うんですが……。いいですか、トウ=テン」

 被害者が許すと言うのなら呵責なく彼を解放できる。

 顰めっ面で瞑目したのち、トウ=テンは頷いた。

「先代団長ハク=コウシュンと、バン=ギリョウに免じて許す」

 シュウとジャンドロンが深く頭を下げた。

 部屋に戻ろうとトウ=テンが扉を開くと、サクがいた。ずっと中から様子を窺っていたのだろう。安堵に瞳を潤ませて、サクはトウ=テンの胸に抱きついた。

「大丈夫だ」

 扉が閉じる音と共に、ジャンドロンがホッと胸をなで下ろした。彼はスイハに向き直って改めて頭を下げた。

「口添え、感謝いたします。おかげで首が繋がりました」

「貸しにしとくんで。僕が困ったときは助けて下さいね」

 こういうときは遠慮しない。嫌みを感じさせないよう笑って愛嬌を添えた。

 シュウが騒動の元凶の首根っこを引っつかんだ。

「おまえも礼を言え、ハツセミ」

「貸しなんだろ? 借りを返してチャラだ」

「わかった、減俸だな」

「ありがとな、坊主。恩に着るぜ」

 去って行くハッコウ傭兵団の背中を見送って、スイハは一息ついた。

 気の良い連中ではあるが味方になったわけではない。ラザロとの契約が続いているあいだは敵に回る可能性がある。トウ=テン相手に正面から戦いを挑んでくることが今後ないとしても、サクの身辺には今まで以上に注意しなければ。

 不意に、頭がずしっと重くなった。

「困ったときってなんだ?」

 スイハは屈んでナサニエルの腕の下から抜け出した。

「言葉の綾だよ」

「本当に言いたくないなら聞かないけどな。ヘコんでたろ」

 ――どうなのだろう。

 自分の心に問いかける。

 昨夜は確かに、不意打ちで打ちのめされた。枕に顔を押しつけて、涙が涸れるまで泣いた。そのおかげか知らないが、今はなんとなく吹っ切れたような、開き直りの境地に至ったような感じだ。

「僕はラザロと血が繋がってない。母から望まれていたわけでもない」

 口に出してみれば、それ自体はなんてことはないのだとわかった。

 消えないしこりはやはり、姉のことだった。血の繋がりがない姉と、これまでと同じように接することができるのか、それが自分に許されるのか。

 それだけが。怖い。

「いつ家を追い出されてもおかしくない立場だってわかった。だから、いざその時が来ても慌てないように、備えをしておきたい」

「そうか。地道に積み立てていけよ。そういうのは、家を追われなくたって役に立つもんだ」

 静かな相づち、ささやかな肯定が、慈雨のように心に沁みた。

 下手な慰めより、よほど勇気づけられる。

「ありがとう、ナサニエル」二人は拳を軽く付き合わせた。「ここが正念場だ。最後の詰めを、みんなで話し合おう」

「ああ」

 スイハは顔を上げて扉をノックした。

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