20.師弟の夜


 通報を受けた駐屯軍が駆けつけてきてから、一夜明けた。

 事情聴取の係官が退室したあと、ホノエは疲れ果てたように項垂れて顔を覆った。

 スイハは次兄の背中をさすった。

「兄さん。少し寝たほうがいいよ」

「……俺の責任だ」

 ゼンは市内に銃を持ち込み、発砲した咎で現行犯逮捕された。ウノは目を覚ますなり主人に刃を向けたと自白して連行されていった。残されたジンは同僚が立て続けに起こした不祥事に耐えられず心労で倒れてしまった。

「誰のせいでもない。兄さん、そんなふうに考えないで」

 こんな気遣いは、ホノエにとってなんの慰めにもならないだろう。

 スイハはひどい顔色をした次兄を着替えさせ、寝台に押し込んだ。こういうときは無理にでも眠ってしまうに限る。眠るのを見届けたあと、その足でジンを見舞った。なかなか震えが止まらないようだったので、下に降りて宿の従業員に温かい飲み物を運ぶよう頼んだ。

 夜通し動きっぱなしで疲れていたが、今はとにかく何かしていたい気分だった。

 ウノが吐露した思いはおそらく、西州に暮らす誰もが多かれ少なかれ胸に抱いているものだ。みんな、救われたいと願っている。平和だったあの頃に戻りたいと、心から。

 スイハは自分の部屋に戻り、畳んでおいてあるサクの服を手に取った。

 あのとき、確かに見た。

 ふわふわの白い毛並み、つぶらな灰色の瞳。白い獣の姿を。

「……小さかったな」

 自然と笑みが零れた。

 正体が獣だったらなんだというのか。

 知り合ってから日は浅いが、出会って、言葉を交わして、友だちになった。裏切られたとは露ほども思わない。ただ、こんな別れ方は不本意だ。

 家族も友人も、未来への希望も、自分は何も失っていない。まだ終わりではない。

 こんがらがった思考を解いて、一つずつ、丁寧に片付けよう。

「ナサニエル。いる?」

 開きっぱなしの窓からナサニエルが滑り込んできた。

「〈聞き耳〉で駐屯軍を探ってきた。通報したのはトウ=テンだ。さすがに手慣れてる。情報を攪乱して警備が手薄になった隙に町を出たみたいだな」

「そうか」

「いつ出発する?」

「明日」ナサニエルが不満を口にする前に、スイハは言った。「行き先はサノワ村だ」

「サノワ村?」

「トウ=テンはサクを連れて家に帰ったと思う。準備しておいて」

 財布を投げて渡す。ミアライ周辺の地図や、雪山に入る装備は市内で揃うはずだ。

 ナサニエルは財布を受け取って窓の桟に足をかけた。

「了解。おまえも明日に備えろよ」

 顔を洗って着替えたあと、スイハは一階に下りた。

 捜していたセン=タイラは食堂にいた。物思いにふける目つきで、卓上の湯飲みにぼんやり視線を落としている。スイハが向かいの席につくと、彼はハッと顔をあげた。

「……休めましたか?」

「やることがすんだら休みます」

 気遣いは無用とばかりに本題に入る。

「ゼンが持っていた銃を拾っていましたね」

 セン=タイラは姿勢を正し、卓上で手を組んだ。

「久鳳帝室近衛隊の自動拳銃です。印章が削られていましたが間違いありません。どうやって手に入れたかは本人を追及するしかないでしょうな」

「尋問は駐屯軍に任せます」

 事と次第によっては駐屯軍から任意同行を求められるかもしれないが、その時はその時だ。ホノエがあの様子ではスイハが行くことになるだろう。

 セン=タイラは間を取り繕うように小さく咳払いした。

「なんの気休めにもならないでしょうが、彼は馬を狙っていましたよ。二人を逃がすまいとしたのでしょう」

「外れてよかった」

「狙いは正確でした。トウ殿が銃弾を弾いたんです」

 破裂音とほぼ同時に、闇に散った火花。あれは銃弾を弾いたものだったか。

「なにも見えなかった。弾けるものなんですか?」

「普通なら反応もできないでしょう」

「トウ=テンは普通じゃないと」

「十四歳で初陣して以来、武勲を重ねて一兵卒から将軍にまでなった方です。あの方ほどの経験と技量を持った武人はなかなかいません」

 初めて戦場に出たのが十四歳。想像もつかない世界だ。

「話してた重宝っていうのは?」

 話題がトウ=テンに関することだからか、セン=タイラの応答はなめらかだった。

「トウ殿が持っている刀のことです。久鳳帝室が所蔵している国宝のうちの一つで、夷の蛮族を討ち滅ぼした褒賞として、クザン帝が手ずから下賜されました」

 一軍人に対して、皇帝が直々に国宝を与えるのは異例のことだろう。クザン帝はそれだけトウ=テンを評価していたのだ。

 その宝は、数多の命を奪った証でもある。

 しかし。

「……用心棒を続けるなら、刀は必要だ」スイハは顔を上げた。「重宝のことは、あとでなんとかします。そのときになったら協力して下さい」

「もちろん。私にできることであれば」

 略奪された村で、墓に手を合わせていたトウ=テンの姿を思う。

 彼は理不尽に命を奪われた村人の死を悼んでいた。死体を運び出し、手ずから穴を掘って、一人ずつ埋葬したのだ。武功を立てて地位を築いたといっても、好んで戦いに身を投じる気性とは思えない。

 彼が何のために戦ってきたのか。

 失踪のきっかけは、妻子の死だ。

「タイラ。トウ=テンが話した理由、納得できましたか」

 十年越しの疑問の答えとして。

「はい」

 彼は頷いた。

「……僕はまだ。これからだ」

 スイハは立ちあがった。

「ついてきて下さい。ハン=ロカと話をつけます」



 薪を焚いた温かな部屋で、スイハは卓を挟んでロカと向き合っていた。扉の前にはセン=タイラがいて、直立不動で出口を塞いでいる。

 スイハは昨夜の出来事を簡潔に伝えた。

「トウ=テンは出て行きました」

「……そうか」

 ロカは悄然と項垂れている。

 ――この人がいなかったら、今の自分はいなかった。

 決意が揺らぐ前に、スイハは思い切って尋ねた。

「先生。昔に何があったか教えて下さい」

 椅子の背もたれに体重を預けるロカの顔は蒼白で、目の下に薄らと隈が広がっていた。たった一日でだいぶやつれてしまったように見える。

 彼はスイハのほうを見ないまま、カサカサに乾いた口を開いた。

「……長い話になるが」

 その話は、十年以上前の久鳳の情勢から始まった。

「久鳳の南方領では何年ものあいだ、人食いの被害が問題になっていた。セイカイ山脈に住む食人鬼……夷の蛮族の仕業だった。夷の蛮族は集団で山から降りてきて、羊を襲うオオカミのように領民を追い詰め、食らい、女子どもをセイカイ山脈に連れ去った」

 夷の蛮族は長らく食人文化を持った未開の部族だと思われていたが、生体研究所のゴウ博士は近年その説を否定。十数年にわたる研究結果から、霊素欠乏症の末期症状である飢餓状態が常態化した人々なのではないかと考察している。

 スイハは質問を挟まず黙って話の先を促した。

 ロカは落ち着かない様子で手を握りあわせて、後ろめたそうに目を伏せた。

「当時、俺は宮廷内務次官の地位にあった。学院を卒業したばかりの青二才で、蛮族討伐のことは人づてにしか聞いたことがなかったが……トウ=テンユウの名は知っていた。農民の出でありながら、数々の武勲をあげて一兵卒から成り上がった男だ。彼は部下を率いて夷の蛮族と戦い、これを討ち滅ぼした功績によってクザン帝から将軍に任じられた」

 征夷将軍の武勇は、今でも久鳳の民のあいだで語りぐさになっている。

「――『天は、余に勇者を賜った』。重宝を下賜する際、クザン帝が口にした言葉だ。以来、勇者の称号はトウ=テンユウのものになった」

 蛮族討伐を果たし、明けて翌年。トウ=テンユウは二十七歳で将軍に任ぜられた。武家や貴族出身の将軍たちと肩を並べて大軍を率いるようになってからも、その勲が曇ることはなかった。

「トウ=テンユウは民衆から人気があり、クザン帝の覚えもめでたい。俺は……」

 ロカは震える声で言葉を紡いだ。

「俺は、そんな彼を利用しようと思いついた。政敵のエン家を追い落とし、宮中におけるハン家の立場を、より盤石なものとするために」

 それは罪の告白だった。

 若き日のロカは、叩き上げの将軍に、地位にふさわしい身分を与えようとした。

 どれだけ輝かしい武勲を重ねても、トウ=テンユウに対する宮中の評判には、土臭い野卑な農民の生まれであるという陰口がつきまとった。血統主義や選民思想がはびこる久鳳の上流社会に住まう人々は、成り上がりという存在を認めない。彼らはそういう人物を見つけては、卑しい生まれを瑕疵のように指摘することを常としていた。

 そんな閉じた世界の頂上で、クザン帝という人は血統よりも実力や成果を重んじた。

 淀んだ宮廷社会をひっくり返すにはクザン帝の治世しかない。常々ロカはそう考えていた。そんなとき耳に舞い込んだのが、トウ=テンユウの活躍だった。彼にとって農民出身の英雄は、膿んだ体制に一石を投じるのにおあつらえ向きの存在のように思われたのである。

 調べたところ、トウ=テンユウの戦績は常勝不敗。このまま五年十年と武勲をあげ続ければ、大将軍にも手が届くだろう。

 そうなる前に彼に潰れてもらっては困る。ロカはトウ=テンユウに良家の娘との縁談を持ちかけた。貴族の婿養子になれば家名の後ろ盾を得ることができるからだ。

 しかし、トウ=テンユウはそうした話をにべもなく断った。それもそのはずだった。彼にはすでに妻子があったのだ。

「将軍という地位に、相応しい身分を。そう考えた時点で、結局は俺も血統主義に染まった宮廷社会の一員でしかなかった」

 そこで手を引いていれば後の悲劇は起こらなかっただろう。

 しかしロカは食い下がった。

「トウ将軍がより出世するためには、貴族との婚姻が必要不可欠だった。何度断られても、俺は見合い話を持っていった。会食の席を設けたり、貴族の娘をその気にさせてけしかけたこともある」

 握り合わせた手の、爪が食い込んだところから血が滲んだ。

「そうして、ある日……とうとう」ロカは寸時、唇を噛みしめた。「トウ将軍の自宅で、妻子が惨殺された」

「なんで」

 スイハが呆然と呟くと、セン=タイラが苦々しい顔で呻いた。

「報復です」

「……報復? なんの?」

「貴族との縁談を断った」

「それだけ? ……それだけのことで?」

 面子を潰されたから、殺したというのか。そんな下らない理由で。

 セン=タイラはロカに厳しい目を向けた。

「あなたの目論見通りというわけだ」

 トウ=テンの妻子が亡くなったと聞いたとき、ロカは。

 スイハは吐き気がしてきた。寝不足とは関係なく目眩がした。

「……トウ=テンは、それから?」

「その年の暮れにサナン側の国境で紛争が起きて、トウ殿は喪が明ける前に戦場へ戻されました。そして、そのまま消息を絶った」

 十年の月日が流れ、死んだはずの男が生きていると聞いたとき、ロカは何を思ったろう。

 己の罪に自覚的でなければ、あの反応はあり得ない。彼は後悔している。スイハは必死で自分に言い聞かせた。

「先生は、そんな……たまたま、偶然だよ。そうでしょ?」

 自分の手は汚さず、他人をそそのかし、けしかけてまで。

 ロカは顔を歪めて自嘲した。

「いいや。タイラの言うとおりだ」

 聞きたくない。

「俺は、そういう人間だ」

 スイハは膝の上で両手をぐっと握りしめた。

「だけど、だけど先生は……僕の先生になってくれたじゃないか」

 優秀な兄たちと違い、スイハは親から何かを期待されたことなど一度としてない。自分に特別秀でた才能がないことは自分でもよくわかっている。

 昔から、勉強よりも外で遊ぶのが好きだった。父と同じ仕事に就きたいなんて微塵も思わないし、国を動かす官僚よりも秘境を旅する冒険家に憧れる。トウ=テンが言っていたような、思想を植えつけて操るなんてことは絶対に起こりえない。

 縋るような思いで見つめたロカの目に、うっすらと光るものが滲んだ。

「おまえを利用していた」

 胸に冷たい痛みが走った。

 それが芯まで染みこむ前に、ロカが言った。

「おまえといると、救われた気持ちになった」

 スイハは息を詰めて聞いていた。

「俺は多くの間違いを犯した。浅はかな計略で他人の人生を壊し、自分の失態を国家への失望にすり替えた。ようやく気づいたときには、また……取り返しのつかないことが増えている始末だ」

 ロカは唇を真一文字に結んで、震える息を繰り返した。

 充血した目から滲む涙を指で押さえて、彼は絞り出すように言った。

「……おまえを一人前に育てることで、償いようがない過ちを埋め合わせようとした。結局は自分のためにしか生きられない。俺は、そういう人間なんだ」

 義塾跡の半地下で過ごした時間は、彼にとって贖罪の日々だった。

 スイハは奥歯を噛みしめた。

 ――六年前。

 ロカが屋敷を出て行ったあと。部屋に残った彼の私物を届けにいく姉にくっついて、スイハは初めて義塾跡を訪れた。

 裏手の階段を下ったところにある半地下はがらんとして薄暗く、家具のひとつもなかったが、スイハはかえって興奮した。そのまっさらな状態は秘密基地を作るのにうってつけに見えた。

 姉がロカと話をしている隙に、地上の義塾跡からきれいな椅子を見つくろって地下に運び込んだ。捜しに来たメイサにあっという間に見つかって、ささやかな企みはあっという間にご破算となった。

 だが帰り際に、ロカがこう言ってくれたのだ。

「また来い。今度は机を用意しておく」

 嬉しかった。

 そこから二人で過ごした時間は本当に楽しかった。

 贖罪だろうがなんだろうが、スイハにとってはそれがすべてだ。

「……考える時間をもらっていいですか」

 ロカは黙って俯いた。まるで沙汰を待つ罪人のように。

 そんな姿は見るのも辛かった。かといって、顔を上げてだとか大丈夫だとか、そういった言葉は口に出した途端に嘘臭くなる気がした。

 スイハは椅子から立ちあがった。

「夜にまた」

 部屋を出る間際、セン=タイラが囁いた。

「ハン=ロカを見張りますか」

「そんなことしなくていいよ。休んで下さい。僕も少し寝てきます」

 昨夜は一睡もしていない。精神的にも肉体的にも、疲労で限界だった。

 部屋に戻るなりスイハは寝台に突っ伏し、そのまま意識を手放した。



 人生初の挫折まで、何不自由なく生きてきた。

 由緒正しい名家の嫡子に生まれ、学院を優秀な成績で卒業し、宮廷内務次官の職に就いた。思い通りにならないことはない。人を動かすのは容易く、欲しいものは何でも手に入る。

 父祖が築いた宮中におけるハン家の影響力を、かつてのロカは自身が生まれ持った当然の権利と信じて疑わなかった。

 寒空の下で彼は星を見上げた。

 あの頃の自分は、根本的に他人を軽んじていた。貴族あるいは武家出身の落伍者を見ては努力が足りないと軽蔑し、野卑な生まれの成り上がりを見てはいつまでその幸運が続くかと内心で見下していた。

 トウ=テンユウも例外ではない。

 亥の蛮族の頭目を討ち取り、逸脱者を退治することでその実力を国内外に知らしめた勇者。若き日のハン=ロカは、そんな彼のことすら対等な人間だと思ったことはなかった。久鳳を改革する重要な駒という認識だ。妻子が殺されたと聞いたときも、ようやく計略の障害が取り除かれたという感想しか抱かなかった。

 その傲慢が失言に繋がった。

「トウ将軍にとっては不幸な事故だったが、まあ些末なことさ。後妻の座を狙う女なんて掃いて捨てるほどいる。これで久鳳の未来は安泰だよ」

 廊下で同期と笑い合っていたロカを、横から殴り飛ばした者があった。

 宮廷内で暴力など懲戒処分ものだ。同じく殴られて亀の子のように縮こまる同期を尻目に、ロカは告発するつもりで加害者を見上げた。

 そして、絶句した。

 鍛え上げられた丸太のような手足。山のような巨躯。軽蔑の眼差しで彼らを見下ろしていたのは、久鳳最強の武人と名高い第一位将軍カハク=ゼイオンその人だった。

 ハン家は歴史ある文官の家系だが、格で言えばカハク家に劣る。しかも相手は現職の将軍で、当主だ。すぐさま分が悪いと悟って、ロカは口を噤んだ。

 カハク=ゼイオンは厳つい顔を真っ赤にしながら、蒸気のような息を吐いた。

「トウ。貴様は手を出すなよ」

 ロカはギョッとした。

 カハク=ゼイオンの巨体に隠れていて気づかなかった。

 彼らの話題にあがっていた張本人が、トウ=テンユウが、そこにいた。

 あれほど表情のない顔をした人間を、ロカは後にも先にも見たことがない。

 知らせを聞いて飛んできた父は、将軍たちの前に平伏して許しを請うた。ハン家の当主が床に額をつけて謝罪するなど前代未聞だ。殴られたのはこちらなのに、それほどまでにカハク家の権威は大きいのかとロカは衝撃を受けた。

 宮廷内務長官に頭を下げられて、カハク=ゼイオンは拳を下ろした。しかしその血走った眼差しは、床に転がる小僧どもを忌々しく睨みつけていた。

「久鳳の恥さらしめ。ただではすまさん」

 その言葉を聞いて、ロカは初めて震えた。とんでもないことになったと、愚かにもようやく気づいたのだ。

 父に謹慎を言い渡されて、彼はしばらく別宅に引きこもった。言われなくとも一歩も外へ出るつもりはなかった。報復されるのではないかと思うと、恐ろしくて夜も満足に眠れなかった。

 父は顔を合わせるたびに憔悴していった。

 年末のある日、息子の部屋にやって来た父は出し抜けに言った。

「……トウ将軍が戦死した」

 その報せはロカにとって何よりの吉報だった。

 これで報復される心配はない。安心して眠れる夜が戻ってくる。

 親子のあいだにしばらく沈黙が落ちた。

「なぜクザン帝が、トウ=テンユウを天からの賜り物とまで称したか、わかるか」

「亥の蛮族を討伐したからでしょう」

「……軽く言うものだ。先帝の代から三十年に渡り、久鳳は亥の蛮族に脅かされてきたというのに」

 父の態度には息子に対する失望が滲み出ていた。

 馬鹿にされたような気がしてロカは苛立った。

「お言葉ですが、亥の蛮族が勢力を拡大したのは先帝の失策です。セイカイ山脈に大軍を送ってさっさと殲滅すれば良かったものを、慎重姿勢から尻込みして増長を許した。後始末を押しつけられたクザン帝からすれば、そりゃトウ=テンユウを勇者と呼びたくもなるでしょう。ですが、それが何だというんです。実際には彼がいなくても討伐は可能だったはずだ。久鳳には優れた武人が何人もいるのですから」

 父は疲れた溜息をついた。

「第三位将軍が殺された事件を覚えているか」

「もちろんです」

 ほんの一年前の事件だ。

 帝都の守りの要、第三位エン=タイシャクが逸脱者に殺害された。

 クザン帝は将軍たちを緊急招集し、第二位シキ=セイラン、第四位トウ=テンユウ、第六位レン=リーレン、以上三名に合同で犯人を討伐するよう命じた。

 作戦は異例の速度で決行された。レン=リーレンが市民を避難させたのち、シキ=セイランが逸脱者を旧市街に追い込み、トウ=テンユウが真っ向からこれを叩きのめした。第三位が殺害された同日中に、犯人は釈明の余地なく裁かれた。

 逸脱者の見えざる手がいかに危険なものだったかは、破壊された旧市街が物語っている。瓦礫が撤去された区画は更地になり、いまだ復興の目処が立っていない。

「あの事件がなんだというんですか」

「第三位将軍を殺害した犯人と同じ力を、亥の蛮族は有していた」

 ――なんだ、それは。

 知らないことを言われて、完全に虚を突かれた。

 淡々とした父の声がロカの耳を打った。

「亥の蛮族は、一族から生まれた逸脱者を頭目に据えていたのだ。カハク=ゼイオンの父、前第一位ガエンもその力で殺された。世間には病死だと発表するしかなかった」

 その事実ひとつで、認識がまるっと変わってしまう。

 慎重姿勢を取らざるを得なかった先帝の判断。

 クザン帝をして天からの賜り物とまで言わしめたトウ=テンユウ。

 彼の妻子が死ぬように仕向けたロカの罪の重さ。

 父が平伏した相手。

 カハク=ゼイオンの「ただではすまさん」という言葉の意味までもが。

 落ち窪んだ父の双眸が、仄暗い穴のように見える。

「……悪夢のような三十年だった。学院で肩を並べて学んだ友人も、世話になった知人も、目をかけていた相手も、気に食わなかったやつも、みんな食われて死んだ。こんなことがいつまで続くのだろうと思った。それを、彼が終わらせてくれたのだ。トウ=テンユウ。彼のおかげで、私たちはようやく前へ進むことができるのだ。だのに、おまえは……おまえというやつは……」

 失望は嫌悪へ、悲しみは怒りへ。

 その眼差しはおよそ血を分けた息子に向けるものではない。感情を押し殺した声には、抑えきれぬ憎しみが滲んでいた。

「トウ将軍が死んだと聞いて笑うのだな」

 ロカは自分の頬に指を這わせた。どんな顔をしているかわからなかった。

 父は息子に背中を向けた。

「近く、おまえは将軍一家謀殺の嫌疑で告発されるだろう。今のうちに国を出る準備をしておけ」

 それが親子の最後の会話になった。


 十字路で雪に足を取られ、ロカは塀に肩をぶつけた。立ちあがる気力もなく、ずるずると膝をつく。視界が判然としないのは白い吐息のせいか、それとも寒さのせいか。いっそこのまま意識を手放してしまえたら。


 亡命先に西州を選んだのは、再起を図るためだ。

 象徴として君臨する西州公と、それを支えるヤースン家。他に際立って注目するべき権力者はいない。つまりヤースン家さえ押さえれば、この国を御すことは容易い。

 どこまでも傲慢で、愚かだった。

 こんな人間だから、目の前の大事なものを取りこぼす。

 ホノエが焚書に踏み切った理由を、彼はいまだ知らない。

 ヤースン家に居候して、一つ屋根の下で暮らしながら家庭教師として誰よりもそばで見てきたというのに、ホノエの苦悩に気づきもしなかった。もっともらしく教鞭を執り、西州の未来図を語りながら、己の野心以外に関心を持たなかった。

 自分は、生まれながらにして何かが欠けているのだろう。自覚なく他人を傷つけ、誰が何を失おうと頓着せず、あくまで自分を中心に世界が回っている。

 生きているだけで罪が増えていく気分だ。

「先生!」

 始めは幻聴かと思った。

 肩に触れた手の感触で、これは現実なのだと認識できた。

「こんな時間にどこ行くんですか」

 首を横に振る。

 どこにも行けはしない。教え子の足を引っ張ってしまった惨めな自分にけりをつけたくて、あてもなく外に出ただけだ。

 もう、終わりにしたい。

 だというのに。

「すっかり寝過ごしちゃったよ。晩ご飯、今から間に合うかな」冗談めかして笑ってから、スイハはフッと、白い息を吐いた。「……こんなところにいたら駄目だよ、先生。一緒に戻ろう」

 教え子の肩を借りて、ロカは凍えて力の入らない足でトボトボ歩いた。

 夕食の時間はとうに過ぎていたが、宿の主人に頼み込んで食堂で軽食を食べさせてもらえることになった。

 今さら寒さに震えているロカのところへ、スイハが二人分のどんぶりを盆に載せて戻ってきた。

「いただきます」

 ダシの香りが湯気と共に立ちのぼる。透き通ったつゆを一口啜ると、強ばっていた顔の筋肉がふわっと緩んだ。ロカは習慣的に薬味をどんぶりに山盛り振りかけた。

 二人はしばらく黙って麺を啜った。

「騙されたなあ。あのときは」

 スイハが唐突に言った。何のことか、ロカはすぐ察しがついた。

 何年か前、二人で定食屋に入ったときのことだ。薬味でどんぶりを真っ赤にしたロカを真似たスイハが、数秒後、とんでもない目に遭ったという笑い話である。

 当時のことを思い出して、ロカは微かに笑った。

「騙したとは心外だ」

「すごく美味しそうに見えたんですよ。おかげで二度とやらなくなった」

 空になった自分のどんぶりを見つめながら、スイハは椅子の背もたれに寄りかかった。

「そう、同じ間違いは二度としない。失敗から学ぶって、そういうことなんだ」

 ロカは箸を置いた。

「先生」

 スイハが言った。らしくない、静かな口調だった。

「前に姉さんが言ってたこと、覚えてますか。先生のところで勉強を教わるようになってから、僕は見違えたって」

 覚えている。

 メイサはそれをロカの功績のように言ったが、彼自身に言わせればそれは見当違いの評価だった。

 確かにスイハは、大人にとって扱いやすい子どもではない。返事が良いので一見すると素直に思えるが、実は面従腹背の気がある。親から教わる常識や価値観、それがたとえ国の文化に根づいたものであっても、納得しない限りその色に染まろうとしないのだ。

 保守的な思想を持つラザロは、末の息子のそういった性質を忌み嫌った。家庭教師もつけずに放っておいたほどだ。

 ロカは当時、スイハと接点がなかった。何年か居候をしていたといっても、食事は個室で取っていたし、日中はラザロと談義を交わしたり、ホノエの勉強を見ることに時間を費やしていた。

 それなのに。

(――また来い。今度は机を用意しておく)

 なぜあんなことを言ったのだろう。

 当時を振り返り、すぐさま、痛みを伴う苦い記憶に行き当たった。

 焚書事件のあと、ロカは自宅で謹慎していたホノエを問い詰めた。

 信じられなかったのだ。彼の教え子は常に勤勉だった。ひたむきで、師を敬い、家族を愛し、他人の幸福を願う、善良を絵に描いたような青年だ。こんな愚かなことをしでかすはずがない。

 何かの間違いか、冤罪だと思いたかった。

「――いいえ。私がやりました」

 一縷の希望まで打ち砕かれて、ロカは怒りを覚えた。裏切られた気さえした。

 衝動的に頬を張った。人を打つと手のほうも痛むのだということを、このとき初めて知った。ジンジンと痺れる手をさすりながら、ロカは吐き捨てた。

「おまえには失望した」

 そのとき、コンコン、と扉がノックされた。

「兄さん! 今の音なに?」

「なんでもない。少し、片付けをしてたんだ」

「終わったら僕の部屋に来て! 読んで欲しい本がいっぱいあるよ!」

「わかったよ。あとで行くから待ってろ」

「うん! おやつもらってくる!」

 パタパタと、部屋の前から足音が遠ざかっていく。

 顔を伏せたまま、ホノエは乱れた髪を直した。静かな動作の合間に、ポタリと一粒、床に透明な滴が落ちた。

 やがて彼は小さく呟いた。

「……あなたから多くを学んだのに、こんなやり方しか選べなかった」

 感情と震えを、精一杯抑えているとわかる声だった。

「整然と並んだ背表紙の列を、美しい装丁を……先人が残した文字を、スイハにも見せてやりたかった。父に初めて連れて行かれたときから、一番好きな場所でした」

 憂うつな横顔。目の下のくすんだ隈。赤く腫れた頬。

 打つのではなかった。不意に、声を出せなくなるほどの後悔が押し寄せた。

 こんな愚かなことを、ホノエがしでかすはずがない。

 よほどの理由がなければ。

 だが、気づいたときにはもう遅い。

「お世話になりました。さようなら、先生」

 ホノエの背中を見送ったあと、ロカはかつてない無力感を味わった。自分が生徒にとって信頼に値する教師ではなかったという事実を、目の前に突きつけられた気がした。

 だが、それがどうした。

 たかが、それだけのことではないか。

 ホノエは勤勉だが惜しむほどの才能の持ち主ではなかった。善良だけが取り柄の凡人だ。思い通りにならないのなら捨て置いていい。障害にもならない。西州公が死に、ラザロが憔悴している今こそ、ヤースン家を傀儡にして国を牛耳る絶好の機会だ。

 借り物の寝台に仰向けになって、何時間も天井を見つめるうちに夜になった。

 どうしても起き上がれない。立ち上がれない。

 後悔が、鉛のように体を重くする。

 胸に大きな穴が空いたようだ。

 もう次の授業の準備をする必要はない。明日も、明後日も、その次の日も。もう二度と、ホノエの部屋を訪ねることはない。ホノエのほうからロカを訪ねて来ることもないだろう。

 親にも見放され、祖国を追われた自分を、初めて必要としてくれた。

 教師というだけで、無条件に慕ってくれた。

 素直で、教え甲斐のある、可愛い生徒だった。

 授業の初日、十五歳だったホノエは真面目な顔でこう言った。

(――ロカ先生。他の国のこと、世界のこと、たくさん教えて下さい。西州の未来に可能性の種を残したいんです。この国が少しずつでも変わっていけるように)

 何もしてやれなかった。

 悔し涙が溢れた。ホノエを打った手を、寝台に何度も叩きつけた。

 すべては、師である自分の不明だ。自分の思想ばかり押しつけてきた。悩みに寄り添えなかった。焚書以外の、他の選択肢を与えられなかった。

 なんの役に立たなかった。

 もう、何もしてやれなくなった。

 自分からその資格を手放した。

 焚書事件を契機に、ロカは失う痛みを知った。それは過去に犯した罪と向き合うことでもあった。抱いていた野心は燃え尽きて灰になり、もう二度と、政治の表舞台に立つことはしまいと彼は自らを戒めた。

 スイハを誘ったのは、無意識に、贖罪の機会を欲していたからだろう。

 何年もかけて西州中を巡り、がむしゃらに書物を集めた。半地下の床を埋め尽くす紙の束を、修繕して、編纂して、出来上がったものから棚に並べて。自己満足だとわかっていても、ロカにはそうするほかなかった。自分が一番好きだったものをスイハにも見せてやりたかったと、それだけが、ホノエが打ち明けてくれた唯一の願いだったから。

 すべては罪滅ぼしだった。

 飛ぶように過ぎていった日々を思う。

 新しい教え子は興味を持ったものに対して貪欲で、好奇心があり、遊びも勉強も本気で楽しむことができるという希有な才能を持っていた。

「おまえはもともと出来が良い」

「本当?」

「ああ」

「僕が見違えたって言われたとき、嬉しかった?」

「……ああ」

 スイハは自分の頭で考え、決断できるまでに成長した。宿場で見せた堂々とした振る舞い。危なっかしいまでの行動力。才能と努力が結びついた成果を間近で見ることができる自分は果報者だと、心から思った。

「おまえは俺の自慢の生徒だよ」

「……よかった」

 スイハは安堵したように目を細めた。

「子どもの頃、大人の話はいつも納得できないことばかりで、だけどそれをどう言葉にすればいいのかもわからなかった。そんな僕にあなたは、考えること、伝えること、そのために必要な知識と言葉を、辛抱強く何年もかけて教えてくれた。おかげで僕は今こうして、自分の心を信じることができる」

 こちらを見つめる顔はすっきりしていた。

「先生とトウ=テンのあいだにあったことは――僕が口を出す筋合いじゃない。だから、これはただの気持ちです。先生。僕はね、こう思うんだ」

 たとえ今から決別を告げられたとしても、ロカはこれ以上はないほど満ち足りていた。

 スイハは一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。

「もし今までに、僕のことを一度でも……少しでも誇りに思うことがあったのなら、あなたの罪滅ぼしはもう終わっているんだ」

 胸に満ちていたものが、溢れた。

 それは彼が罪を犯してから初めて与えられた許しだった。

 ロカは目頭を押さえた。熱いものが次々と込みあげて止まらない。

「ここからまた始めよう、先生。この国を善いほうへ変えていくためには、まだまだ、あなたから教わりたいことがたくさんあるんです」

 過去に犯した罪がなくなったわけではない。

 それでもこの瞬間、ロカは紛れもなく救われたのだった。

「俺も……」

 ロカは震える声で言った。

「まだ、おまえに教えたいことが……たくさんある」

 そう返事をするだけで精一杯だった。



 ミアライの山は白く染まっていた。

 雪を載せた枝が大きくしなっている。その下をくぐり、スイハは白い息を吐きながら前を行くナサニエルの背中を見上げた。

「方向はこのまま真っ直ぐ?」

「ああ。とりあえずここを登りきる」

 ミアライの山中にはいくつか集落がある。しかし、それらに通じる旧道の多くは長年整備されないうちに草に覆われ、夏でも獣道と見分けがつかないという。

 地面が一面真っ白に覆われた山の中は、道どころか方角さえ見失いそうだ。寒風に目を打たれてスイハは瞬きした。地図と方位磁石、それにナサニエルの方向感覚があれば、迷うことはないだろう。道半ばで体力が尽きることだけが心配だった。

 背中に括りつけた刀が重い。

 駐屯軍から返してもらった、トウ=テンの刀だ。

 セン=タイラのおかげで取り戻せたようなものだ。社会的身分は信用に等しい。なにせ彼は久鳳の情報将校で、大きな商家の跡継ぎ。加えてヤースン家の娘婿である。そんな男が「その刀、久鳳の国宝ですよ」と真顔で言い出した日には、ヒバリに駐屯しているヒガン大隊長まで巻き込んでの大騒ぎだ。そうしてひとしきり騒いだあと、誰もが気づく。現場に出来ることはない。久鳳に報せるにしても、真贋を鑑定するにしても、ヤースン家の人間に預けるのが一番いい。

 かくして久鳳の国宝はスイハの手に渡った。

 こんなに重たいものをゼイゼイ息を切らしながら自分の足で運んでいるのは、持ち主の手に戻すためだ。

 トウ=テンに用心棒を続けてもらいたい。

 今後数年、西州の治安は悪化していくだろう。西州軍は弱い。将来もし国内で大きな犯罪が起きたとき、あるいは魔物が現れたとき、自国の軍だけでは対処が追いつかない。魔物や危険種を研究している職能団体への協力要請は急務だ。

 そして傭兵も。

 兵士の練度が上がるのを待ってはいられない。傭兵と契約を結ぶ。新しい制度を作る。あらゆる脅威から国を守るには、専門分野に秀でた者たちの助けが必要なのだ。

 この冒険は、これから始まる大仕事の、ほんの始まりにすぎない。

 前へ、前へ。

 雪をかき分け、ひたすら足を進める。

 昨晩のことに思いを馳せた。

 ロカが自分の贖罪のためにスイハを育てていたというのなら、スイハだって自分の楽しみのためにロカのところに通っていた。彼のもとで学び、無知な自分を知った。白紙の地図を埋めるうちに、少しずつ世界のかたちが見えてくるようになった。実際に外の広い世界に触れて、未知への興味は深まるばかりだ。

 スイハはロカに命をもらった。

 だからといって、ロカが犯した罪は一生、許されないだろうし、許されてはならないと思う。

 何も知らずに彼を慕っていた頃にはもう戻れない。

 けれど、また新しく始めることはできる。

 今はただ、そう信じたい。

 息を整えながら辺りを見渡した。人も、獣もいない。風が止むとここは本当に静かな世界だ。足音、呼吸、会話の声。自分たちが発する以外の音が、すべて消え去ってしまったかのように錯覚する。

 トウ=テンはこの雪山を、サクを懐に抱えて越えたのだろうか。

 斜面を登り切った平地で、ナサニエルが地図を開いた。

「日が暮れる前には着けそうだな」

「悪いね。付き合わせて」

 もし一人だったら遭難していただろうし、そもそも出発すらできなかっただろう。ホノエも、セン=タイラも、ナサニエルが同行すると言うから送り出してくれたのだ。

 大見得切って出てきたわけだが、正直、あんな別れ方をしたあとでは不安しかない。サクはともかく、果たしてトウ=テンと和解できるだろうか。なにも良い方法が思いつかない。まさしく行き当たりばったりだ。

 一昨日のことを思い返して、スイハは白い溜息を吐いた。

「どうした。なにか心配か?」

「トウ=テンに会ったときのことを考えると……」つい、弱音を吐く。「怖くて」

 意外そうに目を見開き、ナサニエルは地図を畳んだ。

「あれはロカにキレてんだろ」

「そんなの関係ないよ。……怒ってる人を、初めて怖いって思ったんだ。あんな、空気が一気に重くなって……膝が震えるなんて。話さなきゃいけないことがたくさんあるのに、顔を合わせたら、うまく喋れるかわからない……」

 ナサニエルは不意に、からから笑いながらスイハの肩に親しげに腕を回してきた。

「なんだ。トウ=テンの真ん前であんだけ啖呵切ってたのに、実はびびってたのか」

「び、びびったら悪いかよ!」

「いんや。おまえは大したやつだ。自信を持てよ、スイハ。おれがついてる」

 髪をぐしゃぐしゃにされながら、スイハは不覚にも鼻が少しツンとなった。

 もう護衛ではないのに、隣にいてくれるナサニエルの存在が、とても心強かった。

 スイハは乱れた髪を手ぐしで撫でつけた。

 ふと、木々の連なりの奥で何かが動いたように見えた。

 スイハは目を凝らした。背景に溶け込んでいて最初は何かわからなかったが、その一帯を凝視しているうちに、輪郭が見えてきた。

 白い鹿だ。

 こちらと目が合うと、白い鹿は片耳をぴくりとさせて首を傾げた。警戒心のかけらもない仕草だった。

 ――声をかけないと。

 そんな気持ちが頭をもたげたのは、サクが狐に変化する瞬間を見たからだろう。

 西州公の一族は白い獣。これが比喩でもなんでもなく事実であることをこの目で確かめたからには、白い鹿をこのまま見過ごすという選択肢はなかった。

 あれがもし、行方不明のユウナギ公子だったら。

 スイハは一、二歩、白い鹿のほうに足を向けた。

「避けろ!」

 反応する間もなく、横から突き飛ばされた。スイハは全身雪まみれになりながら体を起こした。何事かと、斜面を見上げて息を呑む。

 巨大な黒い獣が、牙を剥きだしてナサニエルを威嚇していた。

「ナサニエル!」

「隠れてろ!」

 ナサニエルは腕輪を指でなぞった。雪を巻き込んだ竜巻が、風切り音と共に空へ立ちのぼる。黒い獣はまるで攻撃を見越していたかのように、素早く後ろに飛び退いた。

 体に震えが走る。突然の命の危機に、心臓が激しく波打っていた。スイハは噛みしめた歯のあいだから激しい息を繰り返した。

 圧倒的な存在感を放つ巨躯。濁った目は爛々と金色に輝いて、鋭い爪は毛色と見分けがつかないほど根元から黒く染まっている。風で引き裂かれた傷口から流れる赤黒い血は、油のようにねっとりしていた。

 ナサニエルが舌打ちする。

「仕事が遅いぜ。ホラ吹き野郎……」

 彼の指先から放たれた突風をひらりと避けて、黒い獣が木の幹を蹴った。

 枝に積もった雪がいっせいに地面に降り注ぐ。

 スイハはその瞬間がひどくゆっくりに感じられた。

 ぎらぎらとした金色の目が、まっすぐこちらを見ている。

 ――あ。

 そう思ったときにはもう、よだれにまみれた牙と、真っ赤な大口が目の前いっぱいに迫っていた。

 不意に、強い風が足下をさらった。

 声をあげる間もなく、体が空高く放り投げられた。

 黒い獣が、木が、森が、山が遠ざかる。ビュウビュウと唸りをあげる冷たい風を全身に受けながら、スイハはどうにか目を開いた。

 白く煙る視界を抜けた、その先に。

 眼下に、遥かに、世界が広がっていた。

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