17.忘れられたもの


 白皙の肌が、明るい室内においてより目映く照らし出されている。美しくも温かみに欠けたその姿は、凜々しく咲く百合の花を象った、香りのない造花のようだった。

 サクの顔をした何かは、うずくまるナサニエルからふいと視線を外した。それきり一顧だにしない横顔からは、毒虫だと思って慌てて払ったが、よく見ればただの芋虫だった。そんな白けた気配が漂っている。

 頭を押さえつけるような息苦しさから解放されて、スイハは震える息を吐いた。背中に汗をかいている。母親と対面したときに似た居心地の悪さが、先日の悪夢のせいか、生々しく呼び起こされた。

 目を閉じ、胸いっぱいに息を吸って死者の面影を遠ざける。

 ナサニエルが息も絶え絶えになりながら、何かを探すように震える手をさまよわせている。意図を察して寝台の下を覗くと腕輪が落ちていた。スイハはそれを拾ってさまよえる手に握らせた。

「腕輪だよ。わかる?」

 返事はなかった。冷え切った指先にはまだ、ものを握る力が戻っていないようだ。

 スイハは反応の鈍いナサニエルの手に腕輪を通した。

「休んでて」

 守らなければ。

 寝台を仰ぎ見れば、サクの顔をした何かは手首をねじったり、指を開いたり閉じたりしている。ちゃんと動くか、傷はないか。体の各部位を細かく調べる眼差しは真剣そのものだ。

 膝から足先まで検分して、立ちあがろうとしたところでトウ=テンが肩を押さえた。

「座っていろ」

 二人の視線がぶつかり、睨み合う。

 トウ=テンの険しい表情から、やはり今の状態は普通ではないのだとスイハは確信した。彼は立ち上がり、思い切ってそれに話しかけた。

「きみは……サクナギなの?」

「その識別子は該当しません」

 別人だ。次は、これが何者なのか探らなければ。

 魔術の成否が判断できない以上、ナサニエルが復帰するまでにスイハができるのは、目の前で起きている謎をひとつずつ解き明かすことだ。

 トウ=テンが低い声で言った。

「サクはどうした」

「休養中です。お望みとあらば復帰できますが」

 スイハは慌てた。

「待って下さい。まだ聞きたいことがあります」

 寝台の向かいからギロリと睨まれて肝が冷えた。

 サクの顔をしたそれ――なんとなく、女性ではないと感じた――『彼』は、試すような目つきでトウ=テンを見上げた。

「よろしいですか、管理官」

「管理官?」

「ええ。どうか私を正しく運用して下さい」

 空気がピリピリした。

 どうか、と。本来ならば請い願う意味で使われる一言に込められた皮肉。これは、できるものならやってみろ、という挑発だ。

 トウ=テンの表情がいよいよ硬くなる。これはまずい。サクのことを思う彼の内心は計り知れないが、怒りが爆発する前に、スイハは先んじて頼み込んだ。

「トウ=テン。ナサニエルが起きるまで待って下さい」

「黙れ」

 怒気を帯びた声に、膝が震える。

 怖い。

 恐怖で腰を抜かしそうなところを、スイハは意地だけで立っていた。

 一人前に足りなくても、大人らしく振る舞わなければならないときがある。今がそうだ。異変の原因を突き止めなければならない。西州の終焉が、世界にとって終わりの始まりと呼ばれるような未来はごめんだ。ここで踏みとどまらなければ、もう一生、ロカにも長兄にも顔向けできない。ナサニエルだって報われない。

「お願いします」

 頭を下げる。重圧と緊張で心臓が張り裂けそうだった。

 不意に、つむじを押されてスイハはビクッとした。

 さわさわと、髪を撫でる指が大きな存在感を放っている。

「寛容な対応を推奨します、管理官。未成年者には教育を受ける権利があります。教導官ホーリーもそのように進言するでしょう」

 知らない名前が出てきた。

 吉と出るか凶と出るか。スイハは息を詰めてトウ=テンの返答を待った。

「……わかった」

 おそるおそる顔を上げる。

 鬼のような形相をしているかと思われたトウ=テンは、想像と反して、憂い顔で悄然としていた。

 自制心が利きすぎる。

 サクのことが心配で堪らないだろうに、だからこそ、こいつの正体を探らなければという理性が働いている。片側の寝台に腰掛けて肩を落とす姿があまりにも侘しくて、スイハは図らずも胸が痛んだ。

 それを見た『彼』は、皮肉っぽく目をすがめて笑った。

「許可は下りました。質問をどうぞ、少年」

 スイハは気を引き締めた。

 こいつは厄介なやつだと本能が訴えている。質問を受けつけてくれるようだが、答えをそのまま鵜呑みにしないほうがいい。

「僕はスイハ=ヤースンです。あなたは誰ですか?」

「過去に三十七回、同じことを聞かれました。人類は真実よりも常に自分たちの解釈を優先します。答える意味はありませんね」

「じゃあ質問を変えます。普段は何をしてるんですか」

「教導官ホーリーが定めた倫理規定に従い、人類の生存を支援するのが私の役目です」

 さっき聞いた名前がまた出てきた。しかしスイハが記憶している限り、西州の歴史に『教導官』という役職が存在した記録はない。

 頭の隅で思考を続けながら尋ねる。

「えーと……倫理規定って、具体的には?」

「全人類の共存共栄」

 とんだ大言壮語が飛び出した。スイハは唖然とした。西州だけならまだしも、全人類は規模が大きすぎる。いたって真面目な顔をしているが、こちらを煙に巻こうとしているのだろうか。

 『彼』は口の端に冷笑を浮かべた。

「質問は以上でよろしいですか?」

「……あなたの言うことが、どこまで本当かわからないけど」スイハは気を取り直した。「人類の生存を支援するっていうのなら教えて下さい。腐傷を治す方法を」

「ふしょう、とは何です?」

 問われて、改めてその意味を振り返る。

 腐傷とは、黒い獣の血に接触することで起こる炎症のことだ。炎症は血肉を腐らせながら全身に広がっていく。六年ですっかり定着した名称だと思ったが、なぜか『彼』には通じていない。

 ――最近の出来事に疎い?

 スイハは答えを先送りにして、試しにこう言ってみた。

「知らないんですか。常識なのに」

 『彼』はいささか不愉快そうに眉を顰めた。

「前回に引き続き、今回もまたイレギュラーな覚醒でした。通常時であれば教導官ホーリーの主記憶を参照して、とっくに情報共有を行っています」

 声と表情の変化を注意深く観察する。

 こいつは気位が高く、皮肉屋で、人を見下している。

 だが決して邪悪なものではない。理屈ではなく、スイハはそう感じた。

「腐る傷、と書いて腐傷です」

「具体的には?」

「黒い獣の血液から感染します。血に触れた部分がまず火傷みたいな炎症を起こして、そこから少しずつ体が腐っていく。僕たちはその治療法か、あるいは予防法を……」

 相手の反応を見ながら話していたスイハは、思わず言葉を止めた。

 不意に『彼』の顔から、ストンと表情が抜け落ちたのだ。見開かれた灰色の瞳はどこも見ていない。瞬きがないと、顔色の白さも相まってまるで蝋人形のようだ。

 下がっていた口角がゆっくり上がる。

「――ああ、そういうことですか」

 背筋を虫が這い上がるような違和感を覚えた。

「汚染された人類の救済は私の役目です。教導官の承認さえ得られれば、叡智の光が地上をあまねく照らすでしょう」

 さっきまでと違う。

 仮面を被ってしまったかのように表情が読めない。

「……それをやると、どうなるんですか?」

「問題が解決します」

 具体的には、と、そう聞きかけたとき。

「嘘だ」

 それは一切の虚構を許さない、という宣言に聞こえた。

 ナサニエルがふらりと立ち上がり、蒼白い顔で『彼』を睨みつける。倒れないよう急いで肩を貸しながら、スイハは睨み合う二人を交互に見やった。

「おまえは嘘をついている」

「なにを根拠に?」

「生まれつきの体質でね。おれは嘘がつけない代わりに、他人の嘘がわかるんだ。しらばっくれても無駄だぞ、このホラ吹き野郎」

 『彼』の目元が一瞬、ピクリと引きつった。

 目は口ほどにものを言う。どちらを信じるか考えるまでもない。ナサニエルに肩を貸したまま、スイハは後ずさって距離を取った。

「ナサニエル。調子は?」

「最悪だ」

「どこまでが嘘?」

 視線を『彼』から外さないまま、彼は答えた。

「人類の生存を支援するが嘘。主記憶を参照するも嘘。救済も嘘。問題が解決するも嘘。ついでに、私を正しく運用して下さい。これもまるっきり嘘だ。誰も騙されてはいないだろうが」

 驚くべきことに、ナサニエルは会話の細部まで嘘を判別できるのだ。

 ことごとく嘘を指摘されて初めて、『彼』はまじまじとナサニエルを凝視した。しょせんは芋虫と捨て置いたそれは、やはり最初に見たとおりの毒虫であった。相手を侮った自身に対する憤りが、忌々しく眇められた目つきに表れていた。

「おまえが言う『教導官』ってのは、西州公のことだな」

 『彼』は口を閉ざしている。

 この沈黙は肯定だろうか。

「四十年前、おれの師匠は当時の西州公と対面した」

 ナサニエルは構わず続けた。

「〈竜殺し〉は四十年前から知っていた。世界の均衡が崩れる兆しを見た。竜の言っていたことは本当だった。……やっとわかったよ。師匠は西州公の中におまえがいることを見抜いて、力を封じられる前に逃げ出したんだ」

 ここまで事態を静観していたトウ=テンが、重い口を開いた。

「こいつは何者だ」

「まだ、わからない。ただ……」

 起き上がれるようになったとはいえ、ナサニエルはまだ本調子ではなかった。スイハが引っ張り寄せた椅子に腰を下ろして、彼は苦しそうに胸を押さえた。

「……すまない。息継ぎさせてくれ」

 ひどい顔色、すごい汗だ。

 ナサニエルの背中を撫でながら、スイハは新しく出てきた情報を脳内で反芻した。

 教導官とは、西州公のこと。四十年前、〈竜殺し〉は西州公ヨイナギの中にいた『彼』の存在を見抜いた。世界の均衡が崩れる兆しとして。

 でも、なにか妙だ。

 過去にそんなことがあったと暴露されたら、それに対して何かしら反論なり説明なり――それが真実かどうかはともかく――反応がありそうなものなのに、『彼』はまるで覚えがないかのように素知らぬ風なのだ。

 そして、ナサニエルが指摘した嘘。それ以外の部分を真だと仮定するならば。

「あなたの言うホーリーというのは、誰のことなんですか」

 全人類の共存共栄を掲げる人物の存在は、虚構ではない。

 黙殺されるかと思いきや、この質問に対して『彼』は顕著に反応を示した。目を剥き、信じられないと言うようにまじまじとスイハを凝視する。

「教えて下さい。未成年者には教育を受ける権利があるんでしょう?」

「……教育以前の問題だ。人類の記録管理の杜撰さにはうんざりさせられる」

 静かな憤りを溜息と共に吐き捨てて、『彼』は胸に手を置いた。

「ホーリーはここにいる」

「ふざけるな」

 トウ=テンが即座に強く否定する。

「そいつはサクナギだ」

「器こそ霊素の産生炉だが、精神の鋳型は完全に一致。接続状態は良好。記憶に基づく意識明晰値も無事に回復した。形成に欠落はない。どれだけ姿が変わろうと、これはホーリー。おまえたち人類を再生した母たる教導官だ」

 言っていることの半分もわからない。だが、なんだろう。違和感と、既視感がない交ぜになったような感覚だ。わからないまま、スイハはそっくり言葉を記憶する。覚えてさえいれば、後からいくらでも思考できる。

 トウ=テンが腕を伸ばしてサクの手首を掴んだ。渡すまいとするかのように。

 特に振り払う仕草もせず、『彼』は掴まれた腕を見つめた。

「ホーリーの生命活動が停止したのが、およそ一六〇時間前。異変に気づいてから当艦に接続するまで、実に迅速な初動でした。ですが、徒労でしたね。人類はこの星から速やかに退場願います。教導官を手にかけた当然の報いだ」

 ――ああ。

 腐傷のことだけでなく、異変が始まった時期すらも。

 それは決定的な認識の齟齬だった。

 スイハの中で、バラバラに散らばっていた断片がひとつの形を成しつつあった。

 ナサニエルの肩をグッと掴む。

 意図を察したように、ナサニエルがその手に触れる。

「あなたは、世の中のことを本当に何も知らないんですね」

 こんな安い挑発にも、『彼』は必ず乗ってくる。

 相手には先がないという思い込みは、必ず慢心を招く。

「自分たちの無知を棚上げして、随分な言い草だ。間もなく終わりを迎える世界に興味はない。そんなことより、次の業務が待っている」

「次?」

「おまえたちが死に絶えたあと、ホーリーは人類社会の再建を望むだろう。私には教導官の活動を支援する義務がある」

 歴代の西州公にも、こいつは取り憑いていた。

(――西州公は善き王だった。だが、それだけだ)

 病床の兄の言葉が脳裏をよぎる。

(――西州の民を愛しながら、決して人の心に寄り添うことはない。誰も不幸にしないが、幸せにもしない。清廉で、慈悲深く……それ以外は、なにもない人だった。心さえも)

 背筋に悪寒が走った。血の気が引く勢いで鳥肌が立つ。

 相反する性質。清廉で知られた西州公の影に潜む、姿なきもの。

 その正体が、これなのか。

「おかしいな。世間に興味がないのに、再建の支援なんて出来るの?」

「運営方針は教導官と協議して決定されます。その際、ホーリーの主観に依りすぎないよう、人類が作成した記録媒体から情報を収集する予定です」

「記録媒体?」

「書籍です。昔から、人類は紙の記録を好むでしょう?」

 頭の中にかかっていた靄が、音もなく晴れていく。

(――もう二度と、この国に西州公が立つことはない)

 そう口にしたカルグの思い、宮中の書庫に火を放ったホノエの真意に、スイハはようやく手が届いたような気がした。

 兄たちが、どこまで事実を把握していたかはわからない。ただ、聡明な彼らは、自分たちの推測が限りなく真実に近いという確信を持っていたはずだ。

 焚書事件が何よりの証左だろう。

(――神代の風習に囚われる時代は終わりました。西州公亡きあと、これからの西州は……人間の、人間による、人間のための国であらねばなりません)

 人ならざる者の支配から脱却しようと、もがいた。

 約束された将来を投げ打って、周囲の信頼も裏切って。当時十八歳でそれを決断した次兄の覚悟を思うと、スイハは胸が潰れる思いだった。

「その教導官が、獣から人類を守るために体張ってんだぞ……」ナサニエルの顎から汗の滴が落ちる。「なにが報いだ。おまえの私怨じゃねえか。報連相しろよ」

 『彼』は眉を顰めた。真偽を問うようにトウ=テンを見やる。

 トウ=テンは冷たい目で淡々と尋ねた。

「獣たちがおかしくなったのはおまえの仕込みか?」

「そんなことより、管理官。ホーリーは本当に……」

「聞いているのはこちらだ。知りたい情報は与える。先に説明しろ」

「おまえの仕込みか、という質問に対する答えは、肯定です」焦れったそうな早口で『彼』は異変の種を明かした。「教導官ホーリーが生み出した眷属たち。あれらに備わった人類を庇護する性質は、『反転』すれば人類だけを殺戮する機構となる。その効果は、教導官が外的要因によって死亡したときに発動します」

「それも協議して決めたのか」

「いいえ」

「だろうな。サクは何も知らなかった。それでも、責任はなくても無関係じゃないと、こいつはそう言って、危険も顧みず獣を介錯して回ったんだ」

 抑揚のない声にはしかし、深い怒りが籠もっている。

 トウ=テンが一言発するたびに生じる緊張感に、スイハは身を固くした。

「協議を無視した独断専行。事実確認の杜撰さ。連絡の不手際。現状だけでもおまえの非は明白だ。確認しろ」

 この瞬間、完全に形勢が傾いた。

 気位の高さ故に、あるものをないとは言えず、人類の犯した罪を憎めばこそ、自分の落ち度に目を瞑ることもできない。

 『彼』は唇を歪めて歯噛みした。

「……確認しました」

「状況の是正を求める。獣たちを元に戻せ」

 それは絶対的な命令だった。

 スイハはナサニエルと共に、固唾を呑んで見守った。

 無言の抵抗のあと、『彼』はとうとう答えた。

「管理官の指摘は理に適っていると判断した。……申請を、通す」

 ――たった、これだけ?

 まるで実感がない。これで本当に、黒い獣の脅威が取り除かれるというのか。

 いや、だとしても。

 腐傷のことが何も解決していない。

「あのっ! 腐傷を治すにはどうしたら……」

「教導官から申請があれば受理する」

 取りつく島もない。完全に機嫌を損ねてしまったようだ。

 それきりスイハを無視して、『彼』は皮肉めいた笑みをトウ=テンに向けた。

「まるで尋問官だ。ホーリーがなぜあなたを管理官に選んだのか理解に苦しむ」

「トウ=テンだ。あと、こいつはホーリーじゃない。サクナギだ」

「それはどうかな。本人に聞いてみるといい」

「おまえは何者だ」

「答える意味はない。人類は何度でも私を忘れる」

 『彼』はゆっくりと、寝台に仰向けで身を横たえた。枕にしっかり頭を置いて、足を伸ばし、息を吐いて全身から力を抜きながら天井を睨む。

「管理官の要請を実行後、内部精査に入ります。教導官の安全に細心の注意を払って下さい。さもなくば、次こそ人類を絶滅させてやる」

 室内の明かりが輪になって収束し、弾けて消えた。

 世界が輪郭を失う。急に暗くなったせいでまるで夜目が利かない。

「サク!」

 暗闇の中で、トウ=テンがサクを呼んでいる。

 スイハは手探りで卓上のランプをつけて、急いで寝台を照らした。ぐったりと目を閉じているサクからはもう、『彼』の気配は感じられなかった。

「サク、サク!」

 必死に呼ぶ声が届いたのか、サクはゆっくり目を開いた。まだ覚醒しきっていないのか、周囲の状況に反応していない。無理もないことだ。今夜のことを抜きにしても、丸三日間眠りっぱなしだったのだから。

「サク、大丈夫か!」

 定まらなかった焦点がトウ=テンの姿を捉えた、次の瞬間。

「あーっ!」

 と、大きな声を上げながらサクがバッと起き上がった。

「ヒゲがない!」興奮気味に頬を上気させながら、トウ=テンの顔を両手で包む。「いつ剃ったの? あ、目は? 目は大丈夫?」

 鼻先が触れるほど近くに顔を寄せて、トウ=テンの右目が無事であることを確かめると、サクはホッと安堵の息をついて微笑んだ。

「きれいに治ってる」

 柔らかな表情は、血の通った年相応の女の子だ。こんなに可愛らしく笑う子だったのかと、直前まで顕現していた『彼』との落差も相まって、スイハは妙な感動を覚えた。

 ナサニエルが安堵の息を吐いた。

「無事に戻ったな」

「えっ?」

 室内に自分とトウ=テン以外の誰かがいるとは夢にも思わなかったのだろう。ナサニエルとスイハを順に見やり、サクは顔を真っ赤にしてトウ=テンの腕を掴んだ。

「いつ……今、今はいつ? 夜?」

「おまえは丸々三日、寝てたんだ」

 トウ=テンはサクの隣に腰を下ろした。

「三日?」

「夜中に起きてきて話をせがんだろう。あれから三日だ」

「……ああ、そうだ。途中で寝ちゃったんだ。セイランの槍の穂先に鳥が止まったところまで聞いてたんだけど」

 トウ=テンは無言でサクの髪を撫でた。

「テン?」

 隣からナサニエルに腕を突かれて、スイハは頷いた。足音を立てないよう静かに部屋の扉へ向かう。

 廊下に出る間際、無作法に気が咎めながらもスイハは一度だけ振り返った。

 そこには、まるで我が子にするようにサクを抱きしめるトウ=テンの姿があった。



 一階の食堂で、四人は二対二で向かい合うかたちで席についた。夕食の時間が終わるギリギリに滑り込んだため、他の卓に客の姿はない。注文した料理を待つあいだ、スイハは向かいに座るサクに甲斐甲斐しく話しかけていた。それに対してトウ=テンは特に目くじらを立てることもなく、静かに茶を啜っている。

 一緒に食事をしよう、と言い出したのはスイハだ。そして真っ先にその誘いに答えたのは、サクの腹の音だった。腹を空かせた子どもが二人、しかも片方は三日ぶりの食事だ。食わせないわけにはいくまい。

 かくして四人で卓を囲むことになったわけだが、ナサニエルは落ち着かなかった。この三人に、自分が知るすべてを伝えておかなければ、という焦りを覚えていた。

 秘密の共有など魔術師としてあるまじきことだ。だが、自分の命の軽さを自覚した今となってはそうも言っていられない。

 たとえ手足をもがれても精霊との契約だけは死守しろ、と。

 幼い頃から、耳にたこができるくらい言い聞かされてきた。だから魔道士とは皆そういうものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 心肺機能の欠陥。

 さきほど力を封じられた数秒のあいだに味わった、破裂しそうな胸の苦しみ、息ができない恐怖は、鮮烈に脳に焼きついている。

 卓に料理の皿が置かれる音で、我に返った。

 ナサニエルは髪を後ろできつく結った。気が急くのも膝が震えるのも、疲れて腹が減っているせいだ。自分にそう言い聞かせて、彼は湯気の立つ料理を口に運んだ。

 白米、魚の煮付け、菜っ葉のすまし汁。

 うまい。素朴な料理ではあるが、西州の豊かな土壌で育まれた食材は味わいもひとしおだ。空っぽだった腹が温まってくると、少し気持ちが落ち着いた。

 食事をしながらさりげなくサクの様子を観察する。食べているのは特別に作ってもらった回復食、汁気の多い雑炊である。匙で掬った分をふうふうと吹き冷ましてから、ゆっくり口に運ぶ。ときおり手を止めて、隣にいるトウ=テンに話しかけている。その笑顔は無垢で、無邪気で、この上なく幸せそうに見えた。

 記憶はどうなったのだろう。あれの存在を認識しているのだろうか。

 サクがこっそりトウ=テンに何か耳打ちした。ナサニエルは意識を集中した。〈聞き耳〉を使わずとも、この距離なら聴力強化で十分だ。

「みんなに話したいことがあるの」トウ=テンが頭を傾けて聞く姿勢を取った。「思い出したことがあって。でも長くなりそうだから……明日のほうがいいかな」

 トウ=テンの目線が不意にこちらを向いた。

「明日だ」

 盗み聞きに気づいた上で、しっかり釘を刺してきた。

 ナサニエルは素知らぬ顔で食事を再開した。

 空になった皿を従業員が下げていったあと、宿の主人とおぼしき白髪頭の老人がやって来た。

「サクちゃん。お腹いっぱいになったかい?」

「うん。ありがとうございます」

 サクがぺこりと頭を下げる。

 宿の主人は嬉しそうに、顔をしわくちゃにして微笑んだ。

「キキさんによう似てきたなあ。お母さんには本当にお世話になったんだ。ゆっくり養生しなさい。お客さんたちも、旅の疲れをしっかり癒やして下さいね」

 目礼したあと、彼は去り際にトウ=テンに声をかけていった。

「テンさん。あんたも、ちゃんと休みなさいね」

 母親似だと聞いて、ナサニエルは何気なく斜向かいの席を見やった。サクは膝に手を置いて、うつむいていた。どういうわけか下唇を噛みしめている。悲しいのか、怒っているのか。どちらとも取れる表情だ。

 サクは椅子を引いて立ちあがった。

「馬に会ってくる」

「僕も行くよ」そう言ってすぐさま、スイハは如才なく保護者にお伺いを立てた。「いいですか?」

 トウ=テンは短く答えた。

「体を冷やす前に戻れよ」

「ありがとうございます!」

 スイハはナサニエルの肩をポンと叩き、サクに続いて食堂出て行く間際、わざわざ立ち止まって幸運を祈るというように親指を立てていった。

 口を挟む間もなく、まんまと二人きりにされた。

「それで?」トウ=テンの声が恫喝めいて聞こえるのは恐らく、錯覚ではないだろう。「満足したか」

「概ねは」

「使えるのが一度限りでよかったな。でなければ、その手首を腕輪ごと切り落とすところだった」

 切り落とすまではいかなくとも、ここで舐めた態度を取ったら手刀で腕をたたき折るくらいはやるだろう。

 ナサニエルは卓に手をついて頭を下げた。

「すまなかった。何もかも想定の斜め上だった」

 返事がない。ナサニエルは深く息を吸って、怖々と顔を上げた。

 悪鬼が如き形相を覚悟していたが、そこにいたのは、不機嫌なしかめっ面の下に不安を押し込めた一人の男だった。

 一人の人間が、ある瞬間を境にまったく別の人格になる。ナサニエルですら面食らったくらいだ。普段のサクを知るトウ=テンからすれば、なおのことだろう。

 切っ掛けを作ったのは自分だ。

 後ろめたいわけではないが、けじめとして、この事実を言葉にする義務がある。

「あんなことがあっても、サクはサクのままだったろう。今はもう大丈夫だ」

 トウ=テンは少し間を置いてから、頷いた。

「……何だったんだ。あれは」

「まだ頭の中で整理がついてないが……師匠はこの事態を見越しておれを寄越したんだ。あの野郎、初手でおれの力を封じておいてすぐに解放した。他の魔道士ならあのまま無力化させられていたはずだ」

「なぜおまえは解放された?」

「おそらく制約だ」

 ナサニエルは胸に手を置いた。

「おれが嘘をつけないように、あいつは人を殺せない。言ってたろ。この手で人類を死なせるわけにはいかないと」

「破ればどうなる?」

「魔道士の理屈で言えば、力を大きく損なう」

 他に見逃される理由がない。

「ところで、これまでサクが誰かを傷つけたことはあるか?」

「あるわけないだろう」

 おっと、まずい。

 うっかり逆鱗に触れかけた。ナサニエルは急いで釈明した。

「ただの確認だ。制約はどちらに掛かるものなのか……」なんといえば伝わるだろう。言語化するのが難しい。「つまり……人を害した場合、力を失うのはあいつなのか、それともサクのほうなのか」

 トウ=テンは懐疑的に目を細めつつも、卓に腕をついて聞く姿勢をとった。

 奥の厨房から微かに食器を洗う音が響いている。食堂はひどく静かだった。話を漏らさないために、ナサニエルは湯飲みを脇に除けて卓上に身を乗り出した。密会の姿勢だ。

「おれは今、自分の尺度でこの状況を解釈しようとしている。その前提で聞いてくれ。精霊と、精霊憑き。オリジンと、管理官。たぶんこの二つは本質的には同じものだ」

「本質?」

「あんた、夢を見るだろう。サクが経験した記憶を」

 これまで確かにそうと言い切れるものはなかったが、夢、という単語でトウ=テンの表情が動いたのを見て、ナサニエルは確信した。

「精霊憑きは、憑いている精霊の記憶を夢に見る」

 常人が雪崩に巻き込まれて数時間も埋まっていたら死んでいるのが当然だ。ましてや膝上まで積もった雪の上を走れるわけがない。

 驚くべきはオリジンの加護が精霊のそれと違い、契約者の霊素を必要とせず、離れていても常時働いているということだ。さすがは精霊の祖というべきか、オリジンは契約者に一切の負担をかけることなくその力を行使できるのだ。

「あんたの見てきた夢はみんな、過去に本当にあったことなんだ」

 記憶の夢は生々しい実感を伴うものだ。まるで自分が過去、その場にいたかのように錯覚させる。

 トウ=テンは険しい顔で低く唸った。

「……なぜ、そんな夢を見せる」

「それは違う」ナサニエルは即座に訂正した。「サクはあんたに心を開いた。それだけだ。夢を介して開いた窓を覗いているのはトウ=テン、あんた自身なんだよ」

 振り向いたのはおまえのほうなのだと。

 トウ=テンはまだ納得できないようだ。難しい顔で黙り込んでいる。

「なにが引っかかってるんだ。長い付き合いなんだろ?」

「このあいだ、コヌサで知り合ったばかりだ」トウ=テンはしかめっ面のまま答えた。「〈狩り〉のあと、用心棒に雇われた」

 なんということだろう。思わず乾いた笑いが出た。

(――もう捜さなくていい。それよりコネを作れ)

 昔からいつだって、師匠の言うことは概ね正しい。

 同じ町にいながらまるで気配を感じ取れないとは。

 魔道士としての自信が揺らぐ前に、頭を切り替える。

 西州でコネを作る。遠回りに思えたその方法が、実はナサニエルにとって一番の近道だった。おかげで今こうして、使命を果たす機会を得られたのだから。

「サクのやつは、なんだってコヌサにいたんだ?」

「……薬を売りに」

 嘘だ。

 ナサニエルはしかし、追求しなかった。トウ=テンは苦虫を噛み潰したような顔をしている。知りたいのは自分のほうだとでも言いたげな気配だ。

「あんたはじゃあ、本当に何も知らなかったのか。西州公のことも、獣のことも」

「全部初耳だ」

「よくあいつを普通の子どもみたいに扱えたな」ギロリと睨まれて、ナサニエルはすぐさま失言を詫びた。「すまん。本音だが配慮に欠けた発言だった」

 トウ=テンは溜息をついた。

 一拍おいて、静かに口を開く。

「――母親が死ぬまで、サクの過去に特別な何があったということはない」

 この切り替えの速さ、柔軟さにはつくづく感心する。

「隣人には恵まれなかったが、母親から愛情をかけられて育った。兄がいて、仲の良い義姉がいて……普通に暮らしてきたんだ。自分が人と違うことは、早くから理解していたようだが」

 サクは人間の母親に人として育てられた。生まれ持った力で――生まれつきの精霊憑きがそうであるように――さんざん周囲の人間を翻弄してきただろうが、これまで誰よりも翻弄されてきたのは、他ならぬサク自身だったはずだ。

 ナサニエルも身に覚えがある。

 胎児の状態で精霊に憑かれた者には、そもそも精霊憑きとしての自覚がない。自分が持つ力を自覚なく振りかざし、周囲の人々から『魔物憑き』と罵られ殺されることは決して珍しいことではないのだ。

「とりあえず、精霊と精霊憑きの関係に当てはめてみると、あいつの存在がいかに浮いてるかわかるだろ。サクが持っている記憶の状態によっては、今後あんたが見る夢の中で正体を掴めるかもしれないぜ」

 一番確実なのはサクを問い詰めて直接聞き出すことなのだが、今それを言うのはやめておこう。焦らなくても、明日には本人から話を聞くことができるのだ。

 とにもかくにも、オリジンの契約者がまっとうな人物で助かった。師匠の懸念も外れることがあるということだ。

 トウ=テンは眉間に皺を寄せて考え込んだあと、ナサニエルに目を向けた。

「ヤースン家は知っているのか。このことを」

「スイハの親兄弟だろ。あんなもんを容認するとは思えんがね」

「だが、ラザロ=ヤースンは遺児を捜している。……今までのスイハの言葉に嘘はないと誓えるか」

 これは、さっきの意趣返しだろうか。嫌な気分になるものだ。ナサニエルは自嘲まじりの苦笑を浮かべた。サクが誰かを傷つけるわけがないように、スイハが他人を陥れる嘘をつくはずがない。

「もちろんだ。知っていて黙っていることはあっても、嘘はつかない。あんたも見てりゃわかるだろ。約束を破るようなやつじゃないさ」

「二人でなく、三人で来たことについては?」

「おいおい。タイラはあんたの元部下だろ」

「他にやましいことがないと言い切れるか」

 嫌らしい質問だ。

 やましいことは、ある。ハン=ロカの存在だ。どういう巡り合わせか、あの男はトウ=テンの妻子を殺した疑惑があるのだ。名前を出すなとセン=タイラからもさんざん念押しされている。

 ――足を引っ張りやがって。

 ナサニエルは内心で歯噛みした。

「なくはない。が、スイハを責めるのは筋違いだと言っておく」

「……まあいい」

 疑り深い眼差しから解放されて、ホッと息をついた。

「続きは明日だ」

「わかってる」

 念入りに釘を刺してくる。信用を得るにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 トウ=テンが目線を外したことで、話は自然とお開きになった。

 ナサニエルは椅子の背もたれに寄りかかって息をついた。真っ暗な窓の外に、ちらほらと雪が降っているのが見える。四角く切り取られた景色をぼんやり眺めるだけの、一分にも満たない無意味な時間が、ひどくゆっくりに感じられた。

 忙しくなるのはこれからだ。

 それにしても意外だったのは、なんと言ってもトウ=テンがサクと出会ってからまだ一ヶ月半だということだ。何日も観察したわけではないが、食事中の短いやりとりでも二人のあいだに信頼関係があるのはわかる。良い意味で遠慮がない、家族の距離感に近い。

 別に、打ち解けるのが早いからといっておかしなことはない。年齢差があろうと、共通点がなかろうと、相性が良ければそういうこともあるだろう。

 ナサニエルはただ、素朴に疑問を覚えた。

 サクはなぜ、数いる傭兵の中からトウ=テンを用心棒に選んだのだろう。

 不意に聞こえた椅子を引く音に、ナサニエルはビクッとした。

 何事かと見てみると、トウ=テンが立ちあがっていた。

「遅い」

 言われてみれば、出かけていった子どもたちが一向に戻ってこない。

 話が盛り上がっているのだろうか。

「しゃーない。ちょっと見に行くか」

 トウ=テンに続いて、ナサニエルも席を立った。

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