第四話


 アリーチェがそれを知ったのは、これまで勉強してきた全てを発揮する場――中間試験で精根を尽くしたあとのことだった。

 なんと、三年次生の中にカンニングをした生徒が現れたという。

 そのため普通科全学年の試験がやり直されることとなったが、問題はそこではない。

「ねぇ聞いた? カンニングした生徒って、アンヌマリー様らしいわよ」

「うそ、本当に? でもあの方って、カンニングしなくても十分成績いいんじゃないの?」

「それが、ずっとトップ争いをしていた人がいるらしいのよ。その人に勝つためって聞いたわ」

「最悪……。もともと過激な性格で好きじゃなかったけど、なんだかがっかりだわ」

「わたしも。そのせいでもう一回試験を受けなきゃいけないんでしょ? とばっちりもいいところ――」

 ガタンッ!

 話を遮るように椅子を倒したのは、アリーチェである。わざと倒したというよりは、立ち上がった際に倒れたと言ったほうが近いけれど。

 教室がしんと静まり返る。クラスメイトたちの視線が自分に集まっていることを知っているし、通常のアリーチェならその時点でパニックになっていたことだろう。

 でも、今はただただ怒りの感情に支配されている。あまりに許しがたかったのだ。単なる噂で恩人を傷つけられることが。

(……だめ、落ち着いて。落ち着かないと、魔力が溢れ出ちゃう)

 アリーチェの膨大な魔力は、過去に怒りに呼応して暴走したことがある。

 二度とそんなことが起きないよう、一番目の魔女に魔力の制御方法を教えてもらったのだから、今こそそれを活用するときだ。

(そう、今はまだ、何もわからないから……)

 深呼吸をして、アリーチェは席に座り直した。

 やがて一限目の授業の教師が教室に入ってきて、何事もなく日常が進んでいく。

 しかしアリーチェだけは、内心焦りでいっぱいだった。


 昼休みになり、アリーチェは誰より早く教室を出るとレイビスを探した。

 最初はあんなに畏れ多いと思っていた存在なのに、人の慣れというものは恐ろしく、今では最初ほどの遠慮がない。

 でももちろん、立場を弁えていないわけでもなかった。

 だから必要以上に近寄らなかったし、一定の距離を保っていた。この距離を壊すのは立派な淑女になって彼の友だちになれたときだと決めていた。

(でも今は、そんなこと言ってられない)

 アリーチェの恩人が、レイビスの婚約者が濡れ衣を着せられているのだ。そんなことをどうして黙って見過ごせるというのだろう。

「それに、してもっ、ひ、広すぎる……!」

 さすが王立の名門校。無駄に広い。魔術科や騎士科の訓練棟は特に広大な造りになっているので、人を一人探し出すだけで昼休みが終わってしまいそうだ。それどころか足りないくらいかもしれない。

 ちなみに、中間試験が終わったので、昼の勉強会は終了となった。

「殿下、どこ……っ」

 少し立ち止まって息を整えたら、また走り出す。

 普段の彼がどう過ごしているのかなんて知らないので、アリーチェは自分の思い当たるところを探し回った。

 一般棟にある魔術科二年次生の教室、食堂、裏庭、訓練棟。生徒会室にも行ったけれど誰もいなかった。

(あとは……図書館?)

 思い立ってすぐに方向転換したアリーチェは、目的の場所へと駆け出す。

 もしレイビスが図書館にいるとして、図書館自体も広いけれど、探す場所は一つで問題ないだろうと考えている。いつも勉強を教えてもらっていたレイビス専用の個室だ。

 はたして、彼はそこにいた。

(寝、てる……?)

 彼は椅子に背をもたれさせながら、腕を組み、少しだけ俯いた姿勢で瞼を閉じていた。

 そのあまりにも現実離れした美しさに、一瞬目的を忘れてしまう。

 けれどすぐに我に返って、アリーチェはおろおろと困惑し始める。まさか寝ているとは思っていなかったので、さすがに起こすのは忍びないと思ったからだ。

(ど、どうしよう。諦めて放課後にしようかな。今はやめておいたほうがいいよね? それか――)

「ランベルジュ先輩なら……」

 彼もアンヌ=マリーとは同じ生徒会の仲間なので、何か知っているかもしれない。

「俺の前で他の男の名前か?」

「えっ!?」

 すると、いつのまにか瞼を上げていたレイビスが、銀色の瞳でまっすぐとアリーチェを見上げていた。

「で、殿下! 申し訳ありませんっ。お、起こしちゃいましたか?」

「ああ、あまりいい目覚めではなかったな。おまえのせいで」

「え゛っ」

 よくわからないけれどアランの名前を呟いたせいだというのなら、ちゃんと理由を説明したほうがいいだろう。

 そう思って口を開きかけたが、レイビスのほうが早かった。

「おまえ、なんでここに来なくなった?」

「え?」

「約束をすっぽかすとはいい度胸だな。真面目に受けていると思ってたんだが、俺の見込み違いか?」

「えっ、えっ? どういうことですか? だって、中間試験が終わったら、終わりなんじゃ……」

「誰が終わりだと言った?」

 誰……と訊かれて答えるなら、アンヌ=マリーだ。彼女が最後に「これで一つ肩の荷が下りるわ」と言った。それはつまり、昼の勉強会の終了の合図だと思っていたのだ。

 でも、確かにレイビスの口からは何も言われていない。

「も、申し訳ありません……。わたし、勘違いしてました」

「まあ、だろうと思ったよ」

「うっ」

 最初は怒っているような雰囲気を滲ませていたのに、今はアリーチェの反応を楽しむようにレイビスがフッと吐息をこぼした。

「なんとなくわかってきたな、おまえのこと。頭は悪くないのにどこか抜けてて、おっちょこちょい。それに単純。優しくされるとすぐ落ちる」

「そ、そんな……わたし、そこまで単純じゃない、と、思います」

「はっ、どうだか」

 意地悪な顔だ。でもアリーチェだって、彼と過ごすうちにわかったことがある。みんなの憧れだけれど近寄りがたい雰囲気を出しているレイビスが、本当は意地悪で優しくて全然気安いということ。

『言われなくてもちゃんと復習してきたな。よくやった』と頭を撫でてきたり。

『焦るな。おまえはわからなくなるとすぐ慌てる癖をどうにかしろ。落ち着いて考えれば解ける』と丁寧にアドバイスしてくれたり。

『中間試験、上位十位以内に入ったら褒美をやろう。その代わり、入らなかったら放課後のレッスンにダンス追加な。もちろんパートナー役は俺だ。俺の足を踏んだらどうなるかわかってるよな?』と嬉しいのか恐ろしいのかわからないことを言ってきたり。

 その全てにアリーチェの胸がなんとも言えない気持ちになっていることを、彼は知らない。

 遠目に見るレイビスは相変わらず鋭い目つきで人を寄せつけないのに、そんな彼が自分に見せる色んな表情が、アリーチェの心臓をそわそわさせる。

 この気持ちの正体を、アリーチェはまだ見つけられていない。見つけないほうがいい気もしていて、だから、それもあって必要以上にレイビスに近づくことはなかった。

 けれど――。

「殿下、アヴリーヌ先輩が大変なんです。試験のカンニングをしたって。わたし、居ても立っても居られなくて、それでっ――」

「それで、俺のところに来た?」

「そうです! 殿下は婚約者だから、何かご存じかと思って」

「婚約者、ね。まあその話は今度でいいとして、残念ながら俺は詳しくない。その日は魔術科の実技試験のほうで少しトラブルもあったしな。逆に訊くが、おまえはアンヌマリーがやったと思ってるのか?」

「思うわけないじゃないですか! だからわたしで役に立てることがあるなら、何かお力になれないかと思って来たんです。わたしはまだまだ学園や貴族のことに疎いですから、そういう意味でも、殿下なら詳しいかなと思って……」

「へぇ? おまえなりに考えての選択だったんだ? ここに来たのは」

「……あの、もしかしてわたし、ちょっとバカにされてます……?」

「いや? 賢明な判断だと思っただけだ。何も考えずに頼ってきたわけじゃないのがいい。やっぱり面白いな、おまえ」

 面白い? と首を傾げる。

 婚約者がピンチなわりには彼は冷静で、アリーチェのほうが焦っているのがなんだか変に感じた。

「確かに俺は当事者として普通科の事件のことは知らない。だがな、アリーチェ。問題を解決するために考えるべきことは、どこで、どんな事件が起ころうと変わらない。それを踏まえて助言しようか。アンヌマリーの嫌疑を晴らしたいなら、真犯人を見つければいい」

「真犯人、ですか?」

「おまえは今回のこと、どこまで知っている?」

「え? えっと、三年次生でカンニングした人がいるって聞きました。それで、それがアヴリーヌ先輩らしいってこと、です」

「前、俺はここで教えたな? おまえはすぐ慌てるから、落ち着いて考えろと」

「お、教わりました」

「それが何も活かされてないな?」

 顔はにこやかなのに、なぜか喉元に切っ先を当てられているような緊張感に見舞われる。彼は優しい面もあるけれど、容赦がないことを忘れていた。

「いいか、アリーチェ。俺は事実だけを言う。中間試験の最中、監督役の教師がアンヌマリーの机から一切れの紙を発見した。その紙には今回の試験の解答が記載してあった」

「え、あれ、なんで、詳しい……」

 さっきは知らないと言ったのに。

「『当事者として』は知らないが、監督役に聞いた話なら知ってる」

「そ、そうですか」

 なんだか意地悪なことをされたように思うのはアリーチェだけだろうか。

「でも、それでアヴリーヌ先輩が、カンニング扱いに?」

「アンヌマリーの机からそんな紙が出てきた。疑いの余地なく彼女がやったと思うのが普通だろうな。だが、彼女自身は否定している」

「当たり前です! だってアヴリーヌ先輩、そんなことしなくても頭いいですもんっ。それに卑怯なことをするような人じゃないです!」

「それは感情論だ。おまえがアンヌマリーを助けたいなら、感情に流されるな。人を説得するには納得させる根拠が必要なんだよ。情に訴えるのはそれでも相手が納得しないときだ」

「納得させる、根拠……」

「それで、自分が何をすべきか、わかったか?」

 それはまるで、教え導くような声音だった。

 勉強会のときもそうだ。アリーチェが問題を間違えたとき、解答を基になぜ間違えたのか説明するアンヌ=マリーに対して、レイビスはもう一度最初から問題を解かせようとする。そのとき解答のヒントを織り交ぜてくれるので、どう解けばいいのかすぐに身体が覚えるのだ。

 これはつまり、レイビスからのヒントなのだろう。

「……まず、わたしは、アヴリーヌ先輩の無実を前提として、考えます」

「ああ」

「とすると、紙の存在はおかしいことになります」

「理由は?」

「アヴリーヌ先輩がやっていないなら、先輩の机からカンニングペーパーが出てくることが矛盾しているから、です」

「つまり?」

「つまり、えっと、誰かが先輩の机に、カンニングペーパーを入れた……ってことですね!?」

「そこでおまえのやることは?」

「カンニングペーパーを入れた犯人を、探し出すことです!」

 レイビスがにんまりと唇で弧を描いた。

「そういうことだ。行ってこい」

「はい!」

 図書館を飛び出したとき、ちょうど昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。

 出鼻を挫かれた気分になったが、アリーチェは放課後にしようと気持ちを切り替えた。


 そして、アリーチェが個室を出て行ったあとのレイビスはというと。

「もういいぞ、アラン」

 アリーチェは気づかなかったが、個室の外で待機していたアランを呼び戻す。

 というより、今日はアランも一緒に来ていたが、彼は参考書を探す旅に出ていた。その隙間にアリーチェがやって来て、アランは中に入る機会を窺っていたというわけである。

「いや~、驚いたよ。まさかあのアヴリーヌ嬢にあそこまで懐く子がいるなんて」

「相性はいいと思ってたが、俺もあれほどとは思わなかったな」

「相性いいの?」

「アンヌマリーは苛烈な性格だが、根が悪いわけじゃない。意外と面倒見はいい。ただ、アレのきつい言葉に普通の令嬢がついていけないんだ」

「なるほどね。つまりフラン嬢は『普通の』令嬢ではないってことね」

 レイビスがくすくすと笑う。

「おまえも聞いただろ? 彼女は人を疑うことを知らない。良く言えば純粋、悪く言えば単純。心配になるほど裏表がない。俺がただ助言をするだけで、なぜ動かないのか疑うこともしない」

「レイビス……やっぱり君、いい性格してるよね」

 レイビスがふと窓の外を見ると、ここを出て教室に戻ろうと走っているアリーチェがいた。

「……いい機会だと思ったんだ」

 その姿をなぞるように、窓に指を這わす。

「あいつがどうやって真犯人を見つけるのか。アリーチェ・フランの能力を試す、いい機会だとな」

 実は最近、彼女がくれた魔術道具を、その腕だけは信用している魔術の教師に見せた。元の持ち主が亡くなっていたとしても、制作者へのヒントとなりそうなことがないかと思ってのことだった。

 教師は言った。「さすが宮廷魔術師様のお作りになるものですね。側の見た目は不格好ですか、魔術道具としての性能は一級品。特に怪しいところのない殿下に相応しいものです」

 確かに王子レイビスが持つものなら、基本的には宮廷魔術師が作ったものになる。魔術道具の第一人者と呼ばれる四番目の魔女が作成した魔術道具には、これまで何度か世話になっている。

 だとしても、その先入観を壊さないほどの性能を備えたものを、子爵家の――それも単なる養子の知人が持っているなんて不可解すぎた。

 ――彼女は何かを隠している。

 では、何を隠しているのだろう。

「アラン、おまえはどう思う?」

「何が?」

「視力補正の魔術道具のことは話しただろ。あのときは単なる魔術道具への興味だったが、蓋を開けてみればおかしな結果が出てきた。隠し事をするということは、それなりの理由があるものだろ? さて、アリーチェ・フランは第二王子おとうと派の寄越した刺客なのか、それとも王妃派の刺客か、もしくは後継争いとは全く関係のない奴らが放った刺客か。どれだと思う?」

「はは、相変わらず狙われすぎだよねぇ。でもさ、もう一つの選択肢を足すべきじゃない? 全く無関係の良い子って選択肢を」

「……なんかおまえ、やけに気に入ってないか?」

「う~ん、そうかも? だってかわいくない? あんなに健気に頑張っててさ。クラスメイトに虐められてたのに、気づいてなかったみたいだし」

「…………」

「俺、そういう子を甘やかすのが好きなんだよね」

「へぇ」

 なんとなく面白くないように感じたのは、ここに来たときの彼女の第一声がアランの名前だったからだろうか。

 自分を頼ってきたにもかかわらず、レイビスの名前ではなく、なぜかアランの名前を呟いた。

(……面倒だな)

 こんなふうに、誰かの存在に振り回されるのは。

 そもそも、らしくない。

「ふん。だったら、あいつがシロであることを祈るんだな」

 敵であれば、たとえアランの想い人だろうが殺すことになる。

 そういう意味で発した言葉だったのに、それが自分に言い聞かせるようでもあったことをこのときのレイビスは気づいていなかった。



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