第三話


 昨日は嵐のような男子生徒と出会い、勇気を粉々にされ、アリーチェは反省した。

 ――滑舌だ。滑舌が悪かったんだ、きっと。

 そうでなければ、妹の笑顔を再現した微笑みで断られるはずがない。

 リーシャの笑顔は本当に花が綻んだようで、見ているこちらまで温かい気持ちになるような、思わずなんでも頷いてしまいたくなるような、不思議な力を持っているのだ。あれに抗える人なんてまずいないはずである。

(それとも、やっぱりリーシャみたいに、わたしの心が綺麗じゃないから……!?)

 妹とは一つ年が離れていただけだからか、トーマスおじさん曰く、妹とアリーチェはよく似ているらしい。

 顔の造形が似ているのに失敗したということは、やはり心の汚さか滑舌の悪さが原因で断られたのだろう。

(原因究明は大事だって、あの本にも書いてあった!)

 そうして今日も裏庭で昼食をとりながら、アリーチェは滑舌の矯正を始めた。

「すもももももももものうち! ――え、言えた!」

 滑舌の練習には早口言葉がいいらしいと別の本に書いてあったので、練習用に載っていたものをとりあえず読み上げてみたのだが。

「豚が豚をぶったらぶたれた豚がぶった豚をぶったのでぶった豚とぶたれた豚がぶっ倒れた! ――言える!」

 すごいすごいとはしゃいでいたら、色気のある低い声が鼓膜を揺すった。

「今日はなんだ? 豚を虐めたい気分なのか?」

「ひっ。ち、ちち違いますっ」

 返事をしてすぐに項垂れる。また嚙んでしまった。なぜだ。早口言葉はあんなに淀みなく言えたのに。

 泣きそうになりながら、そういえば誰だろうと思って声の主を見上げた。

 しかし思った以上に相手との距離が近かったらしく、喉をひゅっと鳴らす。近いどころか目前に相手の顔がある。どうやら芝生の上に座っているアリーチェと視線を合わせるように向こうもしゃがんでいたようだ。

 目の前の白い肌が滑らかすぎて慄く。

 鼻、目、口、輪郭。何もかもが完璧だ。完璧な形と毛穴レス。

 そこでやっと、相手が昨日会った男子生徒だとわかる。

「こんにちは。アリーチェ・フラン」

 少しして顔を離した彼が、にこりと微笑んで言う。

 アリーチェはびっくりした。昨日は挨拶も無視されたのに、今日は彼のほうから挨拶をしてくれた。

(これはもしや、友だちになってくれるのでは……!?)

「こっ、こんにちは! えっと、えっと、……っ、えっとぉ!」

 この続きをなんて繋げればいいのかわからなくて、アリーチェは脳内で自分の頬を平手打ちする。

(せっかく友だちができると思ったのに……)

 コミュ障に他愛ない会話は難しい。魔術のことならいくらでも話せるけれど、ここに通うアリーチェ・フランはただの下級貴族という設定になっている。喜々として魔術の話はしないほうがいいだろう。

 そもそも世の少年少女は、こういうときどんなことを話題にしているのか。

「うん、顔も覚えた。アリーチェ・フラン。シャイエ家一族の末端に連なるフラン子爵家の娘。高等部からの編入組で普通科所属。昨日はぼんやりとだが見ない顔だと思ったから、つい魔術科に編入してきた平民かと思ったが……勘が外れたな。貴族令嬢が高等部から編入してくるなんて、珍しいこともあるもんだな」

「え、あ、はい」

 突然自分の〝設定〟を諳んじられて、アリーチェは内心で困惑した。

 なんでそんなことを知っているのだろうと思って、まさか調べたのかと思い至る。

「けどおまえ、フラン子爵の養子らしいな? 何か訳ありか?」

「ひぇっ」

 なぜそんなことまで調べているのか。普通に怖い。昨日の今日でそこまで調べられるなんて、この人は何者なのだろう。ところであなたは誰ですかと、今訊ねても許されるだろうか。そういえばこちらは名前も知らないことに今さら気づいた。

「昨日のこと、誰かに喋ったか?」

「へ?」

「俺がここにいたこと」

「え、や、喋って、ないです」

 というより、悲しいことに喋る相手がいない。

 そう思っていたら。

「まあそうか。おまえ、喋る相手がいなさそうだもんな」

「ひぐぅっ」

 右ストレートのパンチを食らう。

「昨日俺に友だちになってと言ってきたくらいだし、今も一人だし?」

「ふぐぅ」

 左ストレートまで繰り出すなんて、なんて容赦のない人だ。

「本当はもう一度釘を刺しに来たのと、顔を覚えに来たんだが、その必要はなかったみたいだな」

「うぐぅっ」

 まさかのアッパーまで決められて、もう精神的にはズタボロだ。学校って実は悪魔の住処なんじゃないかと本気で思えてきた。

 というか、わざわざ顔を覚えに来たとはどういうことか。アリーチェは全く気にも留めていなかったけれど、よほど昨日のあれは見てはいけないものだったのだろうか。

(そういえば、あの塀から飛び降りてきたっていうことは、外にいたんだよね? まだ昼休みだったのに、外?)

 この学園は、基本的に生徒の外出は許可制だ。先んじて外出許可申請書を提出し、許可が下りたら学園の外へ出られる。無断外出は、最悪の場合、謹慎処分を言い渡されると聞いたことがある。

「あ、それで……?」

「ん?」

「確かに、謹慎処分は嫌だよね」

 考えていたことをそのままぽろりと口から零してしまい、言ったあとに気づいて慌てて口を閉じた。

「……まあ、そんなところだな」

 それより、と相手が立ち上がる。

「滑舌の練習をしても、友人はできないと思うぞ。寂しいお嬢さん」

 それだけ言い残して、彼はなんの未練もなさそうに立ち去っていく。その後ろ姿さえも計算され尽くしたような美しさがあり、アリーチェは思わず見惚れた。

(まるで、白の魔導書の魔術式みたい)

 トーマスおじさんに一度だけ見せてもらった、白の魔導書の中にあるたまびの魔術式。

 文字どおり死者の魂をこの世に呼ぶ魔術だ。

 そしてその魂は、白い蝶の姿をしている。

 夜空に溶けるように舞う魂たちは、星空に負けずとも劣らない凜とした美しさがあった。

 アリーチェはまだ、その魔術式を解読できていない。

(解読できたら、リーシャに会えるかな)

 いつのまにか彼の姿は見えなくなっている。

 俯いた視線の先で、友だちづくりのための本が開いた状態でそよ風に揺れていた。

 そこには『友だちは互いに助け合う存在です』と、もう友だちができた前提の極意が書かれている。

(……滑舌の練習をしても、友だちはできない)

「うん、滑舌の練習じゃ、友だちは、できない……!」

 声に出して気合を入れ直した。

 頬を両手でパチンと叩いて、アリーチェは急いで残りのパンを咀嚼する。

 結局あの男子生徒の正体はわからずじまいだけれど、彼が一つ上の学年であることはわかった。昨日はネクタイの色を見る余裕なんてなかったので気づかなかったが、彼の色は青色だった。この学園は赤が一年次、青が二年次、緑が三年次と決まっている。

(大事なことに気づかせてくれてありがとうございます、魂呼びの先輩!)

 これが変なあだ名だとは、アリーチェには気づく由もない。


 それからのアリーチェは頑張った。まずはクラスメイトから、ひたすら挨拶で突撃した。

 吃っても、嚙んでも、リーシャを思えば恥ずかしくはなくなった。

 なんだこいつという目で見られても、リーシャの笑顔を思い出せば心折れずに踏ん張れた。

 けれど、アリーチェは忘れていたのだ。彼らが貴族であることを。貴族には挨拶のマナーがあることを。

 したがって。

「なんて礼儀のなっていない子かしら」

「まるで平民だわ」

「フラン子爵のご令嬢よね? 子爵家ではあれが挨拶だと教えているのかしらね」

 嘲笑に続く嘲笑。

 今は朝のホームルームが始まるのを待っているところだが、めげずに今日も挨拶をした結果がそれである。

 彼女たちはひそひそ話をしているつもりなのかもしれないが、まあまあ声量があるので普通に聞こえてくる。

 アリーチェは自分の机に顔を伏せた。

(どうしよう……友だちつくるどころか、悪化してる……!?)

 本には笑顔で挨拶をすれば大丈夫だと書いてあったのに、と内心で嘆く。

(礼儀……礼儀って、礼儀ってなに……。もしかして、挨拶はしちゃいけないとか……?)

 わからなすぎて困惑した。一番目の魔女には、公式の場で使う『カーテシー』の仕方は教えてもらっているけれど、ここでそれを使って挨拶をしている人は見かけなかった。だからアリーチェも使わずに突撃していたのだが、クラスメイトの様子から失敗したのだと悟る。

 おかげで前は『ちょっとクラスで浮いている』状態だったのが、今では『今にも天に召されそうなほどクラスで浮いている』存在となってしまっていた。

 このままではまずいとわかっているので、朝のホームルーム中、アリーチェは脳内で反省会を行う。魔術式が解けないときも、どこで計算式を間違えたか、あるいは解釈を間違えたか原因を探し出し、もう一度挑戦することはよくあることだ。

 ホームルームが終わり、一限目の音楽のために教室を移動する途中も、アリーチェは原因を考えていた。

 音楽の授業は特別棟の教室で行われる。特別棟まで行くには途中にある訓練棟の内回廊を通るのだが、そこに魔術科生だけに支給されているローブを着た生徒が大勢集まっていた。魔術科は、普段はアリーチェたちと同じ制服を着ているけれど、魔術の実技授業のときだけは防護魔術が付与されたローブを着るらしい。

(いいなあ。魔術の勉強)

 アリーチェは正体を隠すため、寮の自室に戻ってからでないと魔術書すら開けない。というより、開かないようにしようと自分ルールを決めている。

 でないと、万が一にも魔術書を読んでいるところを見られて声を掛けられたら、誤魔化せる自信がない。

「ねぇ、あれ。第一王子殿下よ。端で柱に背を預けてる方」

「本当だわ! 殿下のお姿をこんなに近くで拝見できるなんて、この学園に入学して良かった~」

「本当にね! はあ~、どんなお姿も美しいのね」

「わかる~っ」

 前を行くクラスメイトの会話が風に乗って聞こえてきたので、アリーチェは思考を中断して彼女たちの視線を辿った。

 そういえば学園に通わせてもらえると決まった際、ここの二年次生に第一王子が在籍していることは聞いていた。

 十三番目の魔女に任命されたとき、アリーチェは国王陛下には面通しをしたけれど、他の王族には会っていない。

 だからか、一番目の魔女には、少し気にするだけでいいですよと言われている。殿下が困っているようなことがあるときにだけ、影ながら助けてあげてくださいと。

「でも殿下って、お美しいけど、美しすぎて近寄りがたいのよねぇ」

「そうなのよ。側近のランベルジュ様くらいじゃない? 仲良さそうに話すのって」

「他の方はよく睨まれるらしいわよ」

 アリーチェの視線が噂の第一王子の許に辿り着く。

 と同時、彼女たちの色めき立つ声が聞こえてしまったのか、王子のほうもギロリとこちらを睨んできた。

「! う、嘘っ。もしかして聞こえたのかしら」

「早く行きましょっ」

 気まずそうに彼女たちは去っていくが、アリーチェの足は逆に止まっていた。

 各パーツが完璧な配置で整っている顔。しゅっとした顎のライン。

 もうそこで彼に見覚えがあることを理解していたが、トドメのように艶やかな黒髪と意思の強い銀の瞳が見えて、徐々に目を丸くする。

(た、た、魂呼びの先輩……!)

 まさかのまさかである。そういえばアリーチェは第一王子の顔を知らなかったことに今さらながら気づいた。

 彼は今なおこちらを――アリーチェを睨んでいる。

 二回会ったきりもう裏庭に彼が来ることはなかったが、最後は笑みも見せてくれたはずの彼が、今は初対面のときのように人を射殺しそうな目で凝視してくる。

(な、なんで……ううん、それより、あの人が第一王子殿下なら、関わるのはまずい)

 アリーチェも急ぎ足でクラスメイトの後を追おうとしたとき、ろくに前を見ていなかったせいで人とぶつかってしまった。

「っと、ごめんね。大丈夫?」

「ひゃ、ひゃい」

 鼻を強打したせいでまともな答えを返せない。運悪く、ぶつかった相手の胸ポケットに付いているボタンに鼻頭が当たったらしい。

 視界に入った青色のネクタイとローブで、相手がどうやら魔術科の二年次生だと判明する。

 おそらく彼も中庭に集まっている生徒と同じく、これから魔術の授業を受けるのだろう。

 見上げた先で、ハッとするほど鮮烈な赤髪と赤い瞳が目に飛び込んできて、あまりの〝陽〟にアリーチェは目を瞑った。

「えっ、どうしたの? どこか痛いところでもあった?」

「い、いいいいいえ! ただちょっと太陽みたいに眩しかったもので特にこれといって怪我はありませんし怪我はしてませんか……!?」

「ふはっ。すっごい早口。こんな新鮮な反応してもらえるの久しぶりだなぁ。初々しくてかわいいね、君」

「…………はぇっ!?」

「ちなみに俺は怪我してないよ、心配してくれてありがとう。君は確か――」

 垂れ目な彼がさらに目を垂れさせて優しく微笑んだとき、横から覚えのある声が飛んできた。

「アラン。何してる」

「あ、レイビス。ねぇねぇ、見て。かわいい女の子見つけちゃった」

「……そのピンク色でまさかとは思ったが、やっぱりおまえか」

「あれ、レイビス、この子と知り合いだったの?」

 もう何がなんだか状況についていけないアリーチェだったが、レイビスがアリーチェの周囲を見回すように瞳を動かしたあと、鼻で笑ったのだけは理解できた。

「まだできてないのか、友だち」

 陰口ならいざ知らず、面と向かってバカにされたアリーチェはガーンとショックを受けて、始業の鐘が鳴るまでその場で硬直してしまったのだった。



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