第34話 気持ち次第




 玲の分を届けてくるです――そう言って如月さんは、スリッパを脱いで部屋に入っていく。栞さんの家に向かうのだろう。


 っていうか――普通にベランダに洗濯物を干しているんだが……これ見ちゃまずいやつじゃないよな?


 意識的に洗濯物に視線が向かないよう、体の向きを調整していると、立花さんがケラケラと笑う。


「もしかして下着とか気にしてた? 大丈夫大丈夫っ! ちゃんと部屋の見えないところで干してるから! 市之瀬くんになら別に見られてもいいんだけどね~、ここって他のアパートの窓から見えちゃうし、下着泥棒とかも危ないからさ」


「あ、いや、なんというか、すみません。別に見ようとしてたとかじゃないんですけど」


「うんうん! 視線を必死にそらそうとしてたもんね~」


 立花さんはニコニコとした表情で何度か頷く。どうやら俺は変人から変態にランクアップせずに済んだらしい。


“そうですよ薫さん! 私たちは洗濯物を見に来たわけじゃないんですからね?”


 そりゃそうだよ。好きな女の子と一緒に異性の洗濯物鑑賞に出かけるわけがないだろうに。誰と一緒でもそんな理由で外に出る気はないが、なおさらだ。


「ちなみに、いまレースカーテンも開けてるから、ちょっと身を乗り出せば私と香織のブラとか見えちゃうと思うよ?」


“にゃぁああああああ! ダメっ! 薫さんダメですっ!”


「見ない見ない、見ないから」


 目を塞がれた。半透明だから目を開いていれば見えるのだけど、開けたら開けたで眼球を指でプッシュされてしまいそうなので、大人しくしておく。ほんのちょっとだけ気になってしまったのはここだけの話。


 暗闇のなか、相変わらず仲良しみたいだね~という立花さんの声を聞いていると、スリッパのすれる音が聞こえてくる。


「何をやってるですか……ほら、これは市之瀬くんの分です。玲もお供えしてきたですから、取ってきたらいいですよ」


“プリンっ! 如月屋のプリンだ!”


 目元を覆っていた手が消えて、ぼやけた視界を瞬きで正常に戻すと、如月さんが呆れた表情でプリンとスプーンを持っていた。玲は仏壇にプリンを取りに行ったらしい。


「ごみは回収するですから、ここで食べていくといいです」


「何から何まですみません。ありがとうございます」


「気にしなくていいですよ。お姉さんたちに任せるです」


 やや自慢気に、胸を張って如月さんが言う。なんだか如月さんって、幼く見られそうだもんなぁ。年上っぽいことをしたかったのかもしれない。


“んーっ! やっぱりプリンは如月屋のプリンですよ! 美味しい!”


 頬に手をあてて蕩けた表情を浮かべる玲。その顔を見られただけでも俺は十分すぎるぐらい満足なのだけど、俺もせっかくなのでよく冷えたプリンをいただくことに。


 以前灯さんがうちにやってきたときに持ってきてくれたけど、俺もこの如月屋のプリンが好きになっていた。ちょっとお高いから、なにかのご褒美の時に買うってぐらいでちょうどいい感じ。


 立花さん、如月さんの二人と話しながらプリンを食べて、俺は空いた容器とスプーンを如月さんに渡す。「ごちそうさまでした、うまかったです」と言うと、彼女は満足そうに頷いていた。


「まだデートは続けるですか?」


「そうですね、もうちょっとブラブラしてから部屋に戻ろうかと――玲もそれでいいか?」


“はいっ! まぁ敷地内だけですし、やれることも限界がありますからねぇ”


「だよなぁ」


 もう主要なところは見て回ってしまった気がする。というか、主要な部分がそもそもないんだけどな……あとは雑草を見て回るとか、それぐらいしかないんじゃなかろうか。


 大学生二名と手を振って別れ、俺は玲の手を引いてアパートの表に回る。これで、アパートの敷地は全制覇してしまったな。


 道路側を見て一息ついていると、当初の目的の一つを思い出した。


「――あ、そういえば玲が敷地から出られるか試すんだったな」


“あぁ、そういえばすっかり忘れてました。っていっても、忘れるぐらいなんだからたぶん無理なんでしょうねぇ”


 忘れるぐらい、つまり興味がないということ。


 幽霊になっても性格が大きく変化するということはないが、未練に思考が偏ることは必然である。だからこれは彼女のうっかり――というわけではなく、幽霊として当然のことなのだ。


“とりあえずやってみましょうか! 何事もチャレンジですよ!”


 玲は俺の手をほどき、ふよふよと敷地と歩道の境目に向かっていく。ぎりぎりのところで立ち止まって、彼女は右手をパーにして伸ばした。グッと力を入れたようだけど、見えない壁に阻まれてしまっている。左手も同じようにしてみるが、結果は同じだった。


 やがて彼女は力を緩め、うつむき、小刻みに震える。出られなかったことがショックだったのだろうか――そう思っていると、彼女は勢いよくこちらを振りむく。


“み、見てください薫さん! 私、めちゃくちゃパントマイムが上手い人に見えませんか!? プロ級ですよ!?”


「……玲のそういうところ、好きだわ」


 彼女はぺたぺたと見えない壁を触って、俺に全力の笑顔を向けていた。可愛すぎだろ。


“え、えぇ!? やっぱり私、ハイスペックすぎますかね!?”


 玲は突然の褒め言葉を受けて、照れ臭そうに頬を掻き始める。反応がアホだなぁ。


「そうだな」


 簡単な相槌をうった俺は、玲の隣に立ち、彼女がやったことと同じように手を伸ばしてみる。だが、当然なにも遮るものはなく、普通に通過できてしまった。


 もしかしたら、何かの間違いで玲が外に出られるようになっていれば、彼女といろいろなところに出かけられたんだろうな――正直、ちょっとだけ期待していた。


 まぁ彼女は幽霊だ。これは仕方のないことである。


 気落ちしていることが悟られないよう、明るい雰囲気を心がけて玲の顔を見る。すると彼女は、腕を組みながら何かを考えているようだった。


“私がこの土地に縛られている理由が香織ちゃんの言う通り――お、お、お嫁さんだったとしますよ? 私は新婚生活を家でのものと決めつけてたと思いますから、納得できます”


「? ん、まぁそうだろうな。少なくとも俺はそうだと思ってるよ」


“そ、それでですね? か、薫さんが、私の旦那さん予定だったとします”


「最高だな」


“もうっ! は、恥ずかしいのでやめてください!”


 玲はぺちっと俺の背中を叩いて抗議する。可愛い。


“何が言いたいかというとですね、『薫さんとお出掛けできたらなぁ』って思ったりするようになったんですよ、私。これ、有識者の薫さん的にはどう思います?”


「どう思いますって、えぇ……」


 お出掛けしたいって思ってくれてめちゃくちゃ嬉しい――まぁ、こういう回答を求められているんじゃないか。


 しかしどうなんだろう。


 そんな話は聞いたことがないんだけど……聞いたことはないが、これと同じ事例を俺は知らないからなぁ。


 彼女の言い分は――つまり『お嫁さん志望の幽霊が旦那さん候補を見つけたとき、気持ち次第で土地への縛りは解けるかもしれない』ということ。


 まぁ、やってみるか。減るもんじゃないし。


「じゃあ俺と一緒に出かけたいところとかある?」


 そう聞いてみると、彼女は満面の笑みになって口を開いた。


“一緒にスーパーのお買い物に行ってみたかったんですよ! 仲良し夫婦って感じしませんか!? あ、これは、その、あぅ……可能性のひとつとして、ですね”


「ははっ、可能性があるだけ嬉しいよ――じゃ、買い物に行くつもりで外に出て見るか」


“はいっ! やってみましょう! なんだか今の私なら、行ける気がしますよ!”


 玲は張り切った様子でそう言うと、俺の目の前に来て、両手をぎゅっと胸の前で握りしめる。やる気満々だなぁ。


 やる気満々なのは良いんだけど……玲さぁ、その立ち位置、すでに敷地から出てませんかね?


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