器魂刻路〜存在抹消された勇者、酒の神として世界を放浪する

黒鵜 樫洲

第1話

目を覚ます。古い部屋だ。もはや主の面影はなく、流れる時のまま朽ちた部屋だ。壁は歪み、戸は既に倒れ、冷たい風が無遠慮にステップを踏んでいた。吸い込んだ空気は鼻の奥を凍てつかせ、僅かな頭痛をもたらし、それに眉をひそめながら吐いた息からは凍る音がかすかに響いたが、それもまた風に紛れていく。


「……あと、次の街までどれ位かね?」


白髪の少し混じった、暗い茶髪を撫で付けた男は呟きながら、床に置いた背嚢から杯を取り出し、その上に握りこぶしを掲げた。その拳の内は淡く暖かな光を放ちながら、深い琥珀色の液体が指の間から溢れ出す。額に立てた薬指と中指を指した後、真紅の瞳を閉じた瞼に小指と親指をそれぞれ置く仕草をすると、杯に注がれた琥珀色の液体をあおった。泥炭ピートと蜂蜜のような香りとともに、喉が熱くなるような酒精が胃の中へ流れ落ちる。


男は一息つくと立ち上がり、小屋の残骸とも言うべき廃墟から外へ向かう。踊り疲れたかのように弱まった風で舞う雪に顔をしかめながら、懐から組み鐘時計カリヨン を取り出そうとし、


チリ、と首の後ろに感じた違和感に従って大きく前に跳んだ。


新雪を荒らしながら男が受身をとったのと同時、先程までいた場所は矢が突き立ったかと思うと周りの雪を巻き上げ、切り刻み、吹き飛ばす。


冬の森の静寂を雪諸共に破壊したその矢は、雪を蹂躙したただ中に突き立ち、その半ばまでをあらわになった土肌に屹立きつりつしていた。


「死んだ?首と何かしらは欲しいのだけど」


再び静寂を取り戻そうとした森に、澄んだ怜悧な声が響く。


踏み締められた雪の申し立てる苦情のような鳴き声を文字通り踏みにじりながら、白髪銀瞳はくはつぎんどうの若い女が現れた。 女は左手に異形の銀弓を握り、空いた右手はその細い指をくい、と上にはね上げると、深々と突き刺さっていた矢は主を思い出したかのように飛び上がり、直線的で不規則な軌道を描いて女の手に収まった。


女は白く染めた襤褸ぼろのようなものを纏い、艶消しが施された白い笠を頭に乗せている。なにかの獣の革と白い布、鱗と甲殻で襤褸から除く脛と篭手は覆われ、一切の隙なく白く、顔と指先を覗いて全てが何かしらの装備に覆われているが、急所と末端に配された装甲は鈍重な印象を持たせなかった。狩人の出で立ちをした女はその双眸を細め、未だ舞う雪煙を吹き飛ばすため、ついと人差し指を振りあげようとし、


ギン!!


鋼のぶつかるような音とともに、咄嗟に顔の前に掲げた手甲が悲鳴をあげ、さらに腹に襲いかかった衝撃によって肺の腑から息が叩き出されると、その体は鞠のように吹き飛ばされた。


吹き飛ばされた女は背後の木の幹に強かに体を打ち据えるかと思われたが、空中で体制を整えて木の幹を踏みつけると、女は弾かれるように再度男に急襲をかけた。


「随分なご挨拶だな、灰の乙女ヴァンシィ?」


「……その名であなたに呼ばれる筋合いは無いわ」


刀身から柄頭まで深い琥珀色に透き通る細身の剣を手にした男は、文字通り矢継ぎ早に、音もなく襲いかかる矢を弾きながら女に語り掛けるが、女は眉をひそめて答えるのみで矢を放つ手を緩めることは無かった。


女は雪山を滑るように移動しながら矢を放ち続けるが、男の剣によってことごとくが弾かれていく。しかし弾かれた矢は主の元へと次々と戻っていく為に、千日手であった。


しかし、その応酬は唐突に終わりを告げる。瞬間、矢の雨は止まり、女は滑るような移動も止めて2つ・・の左目を見開きながら、矢の番えていない銀弓を引き絞る。


男は自らの寝起きした廃墟を背にすると、剣を構えて女の元へと吶喊とっかんした。


互いに聞こえないほど小さな声で何事か呟きながら、得物を引き絞り彼我の距離は瞬く間に埋まり、遂に銀弓のつるから女の手から離れた。矢が番えられているはずの場所に生じた、燐光で形作られた細い光の矢を宿し、淡い緑色の燐光を纏う銀弓は蓄えられた力を解放した。


しかしその一瞬早く、淡い金色の光を宿した琥珀の剣は銀の弓をとらえた。剣に打ち据えられた弓は大きく上に弾かれ、今にも炸裂せんとした魔弾はそれを遮る雪の積もった枝葉を切り刻みながら空高く舞い上がり、そして消えた。


「……力量を見誤った私のミスね。殺しなさい、643代目酒神ソーマ、ロゥグン」


自らの首に突きつけられた琥珀の剣を見つめる女の顔は、右目を隠す眼帯によって隻眼であるはずだが、本来の左目の、さらに左にも瞳が覗いていた。その特異な双眸には恐れはなく、ただあるがままを受け入れるように男に告げる。


「殺す気ならさっき斬ってたさ。賞金首狩りバウンティハンター序列7位のお前さんが、善良な放浪者の俺をなぜ襲ったんだ?」


男は突きつけた剣を下ろすと、廃墟に歩を進める。その手に握った琥珀の剣は形をぐずと崩し、拳の中へと消えていった。自分の背嚢を置いた廃墟の無事を確認すると、小さなため息を吐いて廃墟の元へと歩をすすめた。


「善良だなんて、よく言うわね。あなたには裏で途方もない額の懸賞金がかかってるわ。私は金が欲しいの。偶然・・索敵範囲にかかった妙な反応に気になって来たら黄金が転がっていたようなものよ。誰でも拾うでしょ?まあその黄金は酒を司るとは思えないほどの強さだったのだけど。」


獲物に突き立てられた牙が離れた狩人の女は、肩を竦めながらそう言った。


「弓を使う狩人がこの距離で戦闘する時点で、ほとんどお前さんに勝機はなかったろ。俺は歴代酒神ソーマ最強だ。……まあ、酒神に戦闘に関する権能は基本的に存在しないんだが。」


「随分と大きく出るのね。……でもまあ、酒神ソーマがここまで強いなんて誰も知らないもの。」


「そうだな、そしてそれを知ったお前さんを、俺はただで返すことは出来なくなった訳だが……。ちょうどいい、次の街まで付き合え。報酬なら出すぞ?」


タダで返す訳にはいかないという文句に一瞬身構えた女は、その続きを聞いて毒気の抜けた顔をした。

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