ばいばい

 ボクが連れて行かれたのは、階段の前だった。


「まだかよぉ」


 階段の方を向いた川野君が立っていた。

 ボクは氷室先輩の言う通り、両方の手の平を川野君に向けて、後ろに立っている。


「でも、先輩好きっすね。まさか、先輩の方からセックスしたいって誘うなんて、……へへ。あー、早くハメてぇ」


 川野君は気づいていなかった。

 彼に対し、先輩が何を言ったのかは分からない。


 首を回して振り返ると、ボクはゾッとした。


 氷室先輩は薄く微笑んでいたのだ。

 微笑みから、笑みに変わり、白い歯が紅色の唇から覗いていた。


 ナイフのように鋭い目つきは、川野君に注がれている。

 階段の前でこんなことをしていたら、誰かに見られそうなものだ。

 しかし、こういう時に限って、誰も来てくれない。


 最悪の偶然が、今起きていた。


「あの牛女奴隷にして、……先輩と一緒に飼うとか。絶対たまんねぇ」


 体の芯が冷え切っている。

 何をするか、ボクは言葉でない所で理解している。

 手の平が震えていた。

 指先は左右に動き、口の中では奥歯が鳴っている。


 普段は不快な気持ちが込み上げる川野君の言動。

 今の心境では、子守唄に聞こえるくらい心が動じなかった。

 そんな事よりも、ボクはなんで両手を彼に向けているんだ。


 ――逃げた方がいい。

 ――絶対にヤバい。


 冷や汗が粒となって、頬を伝う。

 その直後だった。


「やめなさいよ」


 これが合図だった。


 どんっ。


 尻を踏まれ、ボクは前に転んだ。


「へ?」


 体全体で川野君を押す形になった。

 ボクみたいなひ弱でも、全体重を前に傾けて、不安定な足場の人を押せばどうなるか。それくらいは分かる。


「あ、ぐっ!」


 階段の下に身を投げた川野君と目が合った。

 大きく目を見開いて、嫌な音が辺りに響く。


 ご、ちんっ。


 硬い頭を階段の角に打ち付ける音。

 同時に、歯と歯がかち合う音だった。


 ゴロゴロと転がり、階段を落ちた川野君は踊り場の壁に背中を強打。


「あ……あ……」


 口を開いて、ボクは叫ぼうとした。

 なのに、声が出てこない。


「先生に報告するわ」


 恐る恐る振り返ると、何てことない様子で先輩がどこかに行こうとする。途中で止まると、スマホを操作して、また戻ってきた。


 一体、何をしたかったのか。

 全く理解が追い付かないけど、氷室先輩は階段の上を気にしていた。

 少しだけ眉間に皺を寄せ、「誰か呼んだ方がいいわよ」とだけ言うと、さっさと階段を上がっていく。


 ボクは、立てなかった。


「……ヤバい。ヤバい。……ヤバい!」


 廊下を四つん這いで移動し、深呼吸をして、無理やり気持ちを落ち着ける。すると、痺れた足がようやく立ち上がる力を取り戻した。


「――ヤバい」


 反対側の階段に移動した頃、廊下には女子生徒の悲鳴が響いた。

 思えば、悲鳴はタワシを取りに行ったユイさんだった気がする。


 ボクはこの日。

 クラスの男子を手に掛けてしまったのだ。

 証拠は、氷室先輩が握っている。


 何の脈略もなく、いきなり日常が狂いだし、ボクはどん底に落ちた。

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