瑠狼弐騒動⑩

 通算何度目か分からない程地面に背中が擦れ落ちる。

まだ服が破けていないだけマシか。

“瑠狼弐”初代副総長、獅子男は息を切らしながら身を起こして空悟を睨みつける。


「ハァ……ハァ……この……バケモンがァ!」


 叫ぶ余裕があるのではない。

叫ばないと倒れてしまうからだ。

 だが空悟は特に息も切らさず獅子男を見つめる。


「もうやめとき。君も大分強いみたいやけど俺には勝てへんよ」


 獅子男は喧嘩なら拳心以外には負けた事はない。

確かに強いが何故負けた事がなかったかには一応理由はあった。

そしてその理由も獅子男は理解していた。


「ケンが常に無敵だったからな………テメェレベルとは喧嘩した事もなかったぜ…!」


 大きな理由は拳心の存在。

拳心は名前も有名で且つ喧嘩が強かった。

その為抗争になっても殆ど拳心一人で終わらせてしまう。

故に獅子男は自分がどの程度まで喧嘩が強いのか副総長ながら詳しく分かっていなかったのだ。


(こいつには勝てない程度か……)


 それが初めて理解できた。この藍舘空悟という男のお陰で。


「もうええやろ。言うとくけどな。俺はヒデオくんやムギちゃんみたいに優しくないねん。お前が犯罪者ならきっちり捕えて牢獄行きにする以外考えてないで」


 それは空悟本人が密かに感じている同期二人との一筋の違い。

英雄も麦もその内面、警察組織に属するには少し優し過ぎるところがある。

麦より英雄の方が経験故か切り替えられる印象はあるがそれでも心根が甘い。

何故なら空悟なら頼羽拳心を救おうとはならないからだ。

例え英雄の様に拳心の友人という立場であっても彼は既に暴力団のトップとして認知されている。

つまりは犯罪者だ。

友人だとかは関係ない。罪は償わなければならない。

人生において自分本位に他人を巻き込むなど決してやってはいけない。

それは空悟は誰よりも・・・・知っている。

 冷たい瞳で睨む空悟に獅子男は叫ぶ。


「お前らはアイツの傷を知らないからそうやって余計な事ができるんだろ! 何でアイツばかりが………アイツには……ケンには清子さんしかいなかったんだよ! 俺は誰よりも前からそれを───……」

「じゃかぁしいわ」


 途中で切り上げられる様に言葉を差し込まれ、獅子男の口が止まった。

空悟は表情を変えずに獅子男を面と向かって見つめる。


「俺はお前や頼羽の身の上話なんざこれっぽっちも興味なんてないねん。「実はこんな事があって」とか「アイツは凄い悩んでいて」とかそんなんクソ程にどうでもええわ。俺にとってお前らは犯罪者。それ以上でもそれ以下でもないんや」


 少しだけ苛ついた様に空悟は獅子男に向かって一歩踏み込む。


「最後に自分が死ぬ為なんつー無茶苦茶自分勝手な理由で周りの奴ら巻き込んどんちゃうぞコラ…! 死にたいなら一人で勝手に静かに死ね…! 猫にでもできる事くらいやってみろや自分本位野郎共が!」


 まるで何か別の怒りの矛先を当てるかの様に空悟は獅子男の胸ぐらを掴み上げた。

 初対面の獅子男に空悟の胸の内など分からない。

だがその瞳に確かに大きな理不尽への怒りがある事は分かった。

 しかし獅子男もその怒りに屈する訳にはいかない理由がある。

例え無茶苦茶だと罵られようとも。

例え関係のない人間達を巻き込んでしまおうとも。

獅子男は唯一無二の親友の為に全てを賭すと決めているのだ。

そしてその為なら自らの命すら惜しくない。

一緒に地獄に墜ちる準備はできているのだ。


「………ケンとカオルは最後まで買うのを拒んだが……」


 獅子男は懐から出した注射器を自らの右腕に突き刺す。


「お前らを潰してケンに時間を与える為なら俺は悪魔とだって契約してやるよ!」


 怒りによって生まれた一瞬のスキ。

そのスキに獅子男は腕に何かの薬剤を注入した。

油断してしまったのだ。

怒りに任せてしまったのだ。

 空悟は変質し始める獅子男の腕をすんでの所で躱して大きく後ろに跳躍する。


「それは何や」


 聞こえてるのか分からないが状況把握の為に言葉を投げかける。

するとギリギリの意識を残して注射の刺された右腕から変質し始めている獅子男はまるで腹でも貫かれたかの様な表情で笑った。


「冥土の土産ってやつか……? まぁいい……これは……“亜人解放軍”の“コウセイ”って奴から買った……“強制亜人薬”の試作品だよ…!」

「何やと…?」

「試作品だからな………完全な“亜人”には成れないらしいが……それでも良い! 俺はケンの時間を作れれば死んだっていいんだ!」


 獅子男は力の限り叫ぶ。

人ならざるモノへと化す中でも思い出すのは拳心の事。

幼い頃から知っている唯一無二の親友。

背中を預けあえる唯一人の男。

 獅子男はその親友の為に命を懸けて化け物へと化してしまう────筈だった。


 一瞬の瞬き。それは生物的な反射反応でありただの身体機能としての動き。

だがその瞼を閉じて開けたコンマにも満たない間に獅子男の膨れ上がった右腕は地面に転がり落ちていた。


「え? は?」


 突然の変化に空悟は脳の理解が追いつかず思考停止する。

すると次の瞬きの時には倒れ込む獅子男の傍らに一人の少年が立っていた。


「だ…れや…? いつの間に……?」


 黒く長い髪はまるで少女の如き艶やかさを持ち、その顔つきも性別を混乱させてしまう程に美麗に整った中性的な様相。

しかし空悟のプレイボーイセンサーという人生に不必要そうなセンサーが少女ではなく少年だと判断している。

 中性的な少年は三回目の瞬きの合間に空悟の目前に立っていた。


「………誰? 新人?」


 少年の背中にはまるで天使の様に美しく悪魔の如き漆黒の翼が生えている。

“亜人”か?その疑問が頭をよぎる。

 だが少年がモゾモゾと懐から出したカードが疑問を掻き消した。


「僕孔雀 翼クジャク ツバサ。全部の場所回ってたけど大体終わらしちゃったからここまで来た」


 “翼”と名乗る少年の持つカードは特亜課の隊員が全員持つ隊員証。

そして何よりその名前には聞き覚えがあった。


「確か同年代くらいで唯一の“上位”とかいう奴……」


 呟く様で自分自身に確認する様に言葉を洩らす空悟に翼は子供の様に頷く。

 空悟は視線を倒れ込む獅子男に向けた。

 まさかこの気怠そうな少年がほんの瞬きの間に倒したというのか。

それも変質している右腕だけを切り落として“亜人化”を防ぐという恐らく最も正解に近い対応までして。

鳴海が高い評価をするだけの少年という事か。

 空悟は息を呑む。

しかし翼の雰囲気は予想とは違う怠そうな様相だった。


「今日はもう疲れたから僕ここで休んでるね。ラスボス戦は任せたよみんなに」

「あ………す」


 思わず訳の分からない反応をしてしまった。

何せ目の前にいるのは同年代ながら特亜課で“上位”に位置する存在。

即ち特亜課に戦闘力を含むあらゆる面で貢献しているスーパーエリートだ。

だがどういう訳かこの翼という少年は「もう疲れたから休む」と言い放った。

何とも適当な少年だろうか。

無気力というよりは気怠げ。

無感情というよりは合理的無表情。

そんな印象だった。

 気怠げに座り込む翼を見て空悟も力がストンと抜け落ちる様に集中が切れる。


「………俺も疲れた。アイス食べたいわ」

「僕ソードの方が好き」

「いつからカービィの話になってん」


 取り敢えず仲良くなれそうだなと思った。















 これは殺し合いじゃない。

当然戦争でも戦闘でもない。

だがボクシングでもない。

ただの喧嘩だ。


「オオラァ!」

「クソがぁ!」


 お互いに殆どノーガードの状態で拳を交差し合う。

最早殴り殴られ過ぎて痛みの感覚がない程だ。

 拳心の右ストレートが英雄の腹に炸裂し、よろけて後ろに後退する。

“亜人”になってしまっているとはいえ流石のパンチ力だ。

 そんな中英雄は拳を握り直しながら考える。

 自分はここに何しに来たのか。

ただライバルの拳心と殴り合いに来たのか。違う。

死に際の友人に今際の際に挨拶に来たのか。違う。

特亜課の隊員として“亜人”となった人間を処理しに来たのか。それも違う。

ここに来た理由は一つ。伝えに来たのだ。

例え一方的となろうとも自分の思いを。


 「ケェンシン!」


 力強く叫ぶ英雄に拳心は息を整えながら視線を上げる。

英雄は拳に力を入れて振り抜いた。


「テメェは一体何がしてぇんだよ!」


 今までの中でも特に重い一撃が拳心の頬を捉える。

その威力には少しよろけて動きを静止させた。

英雄はよろめく拳心に声をぶつける。


「テメェが“亜人”になったのも……清子さんが死んじまったのも! 他の“瑠狼弐”の奴等は関係ねぇだろ! なんでテメェは全部巻き込んでやろうとすんだよ! 今テメェは警察すら巻き込んでんだぞ!」


 伝えるのは英雄の思い。英雄のまだ微かながら芽生えている正義。

だが拳心は引かずに殴り返した。


「うるっせぇ!」


 拳心の拳にも強い意志が乗っかり、英雄はよろけて息を切らす。


「テメェみてぇな才能ある奴には分からねぇ! テメェみてぇな頭のいい奴には分からねぇんだよ!」


 拳心は英雄の胸ぐらを掴んで引き寄せる。


「俺には母さんが全てだったんだ! ボクシングで金稼いで恩返しできると思ってた! それなのに……母親殺されてそのまま自分までムカつくバケモンになって普通でいられる訳ねぇだろうが!」


 拳心の瞳に英雄も物怖じしない。


「じゃあそれが正しいとテメェは本気で───……」

「テメェラ世間様の“正しい”を押し付けるんじゃあねぇ!」


 英雄の口が止まる。

しかし拳心は止まらない。


「テメェラはいつもそうだ! 正しいと思えば人に押し付けやがる! それに共感できなきゃまるで頭がおかしいみてぇに扱いやがって! テメェラは押し付けるだけで共感してもらう為の努力を放棄してるだけだろうが!」

「…………じゃあ拳心。お前の“正しい”って何だ」


 英雄の言葉に真っ直ぐと拳心は答える。


「正しいとか間違いとかそんな大層な理由なんざねぇ。ムカつくんだよ。テメェラ警察も、“亜人”も、自分自身も」


 何故拳心をボクシングに誘ったのか。何故拳心の事を気にするのか。

答えは簡単だ。

似ているのだ。英雄の行動する為の原動力と。

 だがそれを許す為の道理にする気はない。

 英雄は力強い拳を拳心に浴びせる。


「ぐっ…!」

「テメェの言い分はただの言い訳にしか聞こえねぇ。色んな奴らを巻き込んでいい理由にはならねぇだろうが」

「う…るせぇ!」


 拳心の右ストレートが英雄の腹を押し込む。

だが英雄の拳もワン・ツーとテンポよく拳心に響き渡る。

英雄の拳が。

拳心の拳が。

英雄の、拳心の、英雄の、拳心の───…………。

 気づけばお互いにもう前を見る事すらままならない程にボロボロになっていた。


「ハァ……ハァ……」

「ハァ……ハァ……」


 フラフラと拳を持ち上げる力しか入らない。

だが英雄は拳心に殴りかかる。

どうにかパンチを繰り出すが英雄は勢いで拳心ごと自分も倒れてしまった。

 息を切らして英雄は倒れて空を仰ぐ拳心の身体に肘を置いて息を整える。


「ハァ……ハァ……シシオも……ユキもいいのかよ……」


 英雄が頭に思い浮かべるのは拳心のかけがえのない友の顔。

拳心と最も付き合いの長い幼馴染みであり“瑠狼弐”の初代副総長を務めた真琴獅子男。

拳心を心から慕う拳心自身も最も可愛がっていた後輩であり拳心の後の“瑠狼弐”を引き継いだ二代目“瑠狼弐”総長の縁田雪。

 二人はこの戦いでも拳心の為にとその身を投げて戦っていた。

 英雄本人は二人が“強制亜人薬”を使ったのは知らない。

だがそれでもあの二人なら拳心の為にどこまででもできる事は知っている。

 拳心は空を仰いだままギリギリで声を出した。


「ハァ………あの…二人が……自ら選んだ事だ……だから───………」

「カオルもか?」


 話の途中で出てきた名前に拳心の言葉が止まる。

 八上薫。拳心が幼い頃に自殺を救った少女であり拳心の最愛の恋人。

 その名前には強い意志を示し続けてきた拳心ですら声が出せなかった。


「カオルも戦ってんだろ? いいのかよ。放っておいて」

「カオルは……」


 拳心の言葉が出ない。

 幼い頃拳心は薫の心と命を救った。

だがそれは薫側からだけではなく、拳心にとってもかけがえのない出逢いだったのだ。

薫と出逢い拳心は人に優しくする事を学んだ。

人に感謝する事を学んだ。

気恥ずかしくて口にした事はないが拳心にとっても薫は代え難い唯一無二なのだ。

 故に拳心の本音は隠そうとしても出てしまう。


「カオルは駄目だ。アイツは幸せにならなきゃいけねぇ」


 他の奴らがどうでもいい訳ではない。

ただ獅子男や縁田は強い。

一人で戦い、敗れるも勝つも好きにする奴らだ。

そこに拳心が口を出す様な無粋な事はしない。

 だが薫だけは拳心がこの世界に引き入れた。

そして拳心が手放せなくなってしまった。

薫だけは特別。薫だけは“普通”でいて欲しい。

そんな特別な存在だから薫に「俺を殺せ」と頼んだ。

辛い過去を背負わせる事になるがそれでも死ぬなら薫の手で死にたいのだ。

まさしくエゴそのものだ。

 拳心は大きく息を吐いて両手を広げたまま空の深さを仰いだ。


「クソ………何でテメェみたいな野郎に本心気付かされてんだよ俺ぁ……」


 ストンと全身の力が抜けたのが分かる。

張り詰めていた集中と怒りが一太刀で切られた縄の如く綺麗に途切れてしまった。

 一度途切れてしまえば本心は栓の抜けた風呂と同じだ。

溢れ出てしまう。


「クソ………死なたくねぇよ……!」

「ケンシン………」


 こぼれ落ちた本心。

どうにかしてあげたいと思ってしまうがそれはできないという事実も理解している。

 今はまだ人間としての理性を保てているがいつ“亜人”の、鬼としての本能に意識を持っていかれるか分からない。

そもそもこれ程に理性を保っている事自体が異例の事なのだ。

誰にも予測などつきはしない。

 そしてその現実というのは時に残酷に、時に予想だにしない突然の瞬間に訪れる。


「ぐっ! がああああああ!」


 突然拳心が胸を押さえて苦しみだす。

何事かと英雄が目を見開くと拳心は英雄を力一杯押し飛ばした。


「ぐはっ!」


 しかし突き飛ばす瞬間の手は握られておらず、傷つける気のない力だった。


「発作が来やがった………アイツラに謝る時間もねぇのかよ……」


 発作。それは英雄の知らない話。だが余程の馬鹿でなければ何の発作なのか・・・・・・・くらいは予想できる。

来てしまったのだろう。

人でなくなる瞬間が。


「ぐああああああああ!」


 肌が先程より更に紅く染め上げられていく。

英雄と変わらなかった身長も既に二メートル程まで大きくなった。


「ケン……ちゃん?」


 拳心が聞き馴染み、英雄も聞き覚えのある声が叫び声の合間に小さく響く。


「カオル……」


 天が寄越した最愛の人は最悪のタイミングの再会となってしまった。










 「カオル………! どうした! 早く……俺を殺せ!」


 拳心がギリギリで保たれる意識の中薫に叫ぶ。

何という精神力だ。

普通ならこれ程に変質してしまえば人間としての理性など残ってはいないだろう。

だが拳心は最後の瞬間まで意識を保とうと奮闘する。

例えそこから辿り着く答えが最愛の人の手による死だとしても。


「ケンちゃん……私……最期くらいケンちゃんと話そうと思って───……」

「カオル! 約束しただろ!」


 薫は拳心が死んでしまう前に話をしようと息を切らして走ってきたのだ。

だが辿り着いてみればもう話す時間など既にない。

あるのは二人の間に交わされた最期の約束だけだ。


「ケンちゃん……」

「カ……オル! たの…む…!」


 真横にいた麦と途中で合流した丸香にとっては薫とは今日出会ったばかり。だがそんな麦と丸香にもその瞬間の薫の決意は分かった。

 留めようと麦は右手を薫に差し向ける。

しかし一歩早く薫は麦を突き飛ばした。

半身を捻る様にして丸香も押し退け突き飛ばす。

それは奇しくも先刻最愛の人がした事と同じ拳を握らない優しい力。

 麦と丸香を突き飛ばすだけの力の源は充分ある。

何せもう拳心を殺すしかないのだから。こんな状況に怒りを覚えない筈もない。

 薫は懐から一丁の銃を取り出した。

入ってる弾は一発のみ。

何発も撃てない。それは心が保たない。

薫のバグがあれば銃をブレさせずに真っ直ぐ撃つ事はできる。

 確実に当てる為に薫は残り数歩という所まで近づいた。


「どういう状況だ…!」

「ケンシン!」


戦闘を終えて辿り着いた鳴海と麗蘭が開け放たれている工場の入口に立つ。

終わっていようとそうでなかろうと結末は・・・自分達大人が幕を引こうと思っていた。

だが来てみれば目前にいるのはここにいる筈のない八上薫が頼羽拳心に銃を突きつけているではないか。

英雄と麦、丸香もそれぞれ壁際で身体を起こしている。

恐らく何かしらの理由で壁際まで追いやられたのか。

 撃鉄を下ろす音が鳴海の耳に届く。


「よせ! 八上薫!」


 子供に殺しをさせる組織。せめて隊員でない子くらいには平和であって欲しい。

そんな大人の小さなエゴも二人の愛の間には聞こえない。


「じゃあね………ケンちゃん」

「…………」


 もう話す事すらできない拳心はどうにか動きを静止するだけの意識を残し、薫は引き金に指を掛けた。


「だめよ薫!」


 無情にも音が反響する工場には一筋の小さな爆撃音が響き渡る──────………事はなかった。

 薫の手からカタンと銃が落ちる。


「駄目だ……駄目だよケンちゃん……私やっぱりケンちゃんの事殺せないよ……」


 泣きじゃくる薫の瞳には怒りなどなくただ深い愛とあまりに濃い哀しみが宿っていた。

 そんな中英雄はすぐに走り出す。

鳴海と麗蘭も殆ど同タイミングで一歩踏み出した。

 薫の海よりも深い愛に感服している暇などない。

薫が撃てなかった・・・・・・・・という事は今その場には意識のなくなった“鬼”がいるだけだ。

それはもう見守るだけの訳にはいかない。

拳心に薫を殺させる事になってしまう。


「グガガアアアアア!」


 人のものとは思えない叫び声で“鬼”は右手を振り上げる。

しかし薫は逃げずに両手を広げて笑った。


「ケンちゃんに殺されるなら別にいいよ」


 それは最も選んで欲しくない歪んだ愛の選択。

しかし遠過ぎた英雄と鳴海と麗蘭の距離は縮まらずに“鬼”の手は振り下ろされる。


「グガガアアアアア!」

「一緒に地獄に落ちよう? 大好きだよケンちゃん」

「ケンシィィィン!」

工場には血飛沫が舞った。













 ふと、この時二人の間に起きた事に想いを馳せる。

世の中には“偶然”というモノがある。

他のモノとの因果関係がはっきりせず予期できない様な仕方で物事が起こる事だ。

 拳心が偶然にも・・・・人間としての理性を失わず長期間“亜人”にならずにいた。

その場には偶然にも・・・・拳心のライバルである英雄、幼馴染みで親友の獅子男、最愛の恋人である薫に加えて昔馴染みとも言える麗蘭と拳心の母を殺した・・・・・・・・“亜人”を処理した・・・・・・・・鳴海が揃っていた。

そして偶然にも・・・・薫は約束より愛を選び引き金を引かなかった。

偶然も重なり続ければそれはもう“奇跡”と呼ぶ事ができるのではないだろうか。

少なくともあの瞬間拳心と薫の間に起きた事は“奇跡”と形容しざるを得ない出来事だった。





 工場には血飛沫が舞った。

だがその血飛沫は拳心ではなく薫の顔にかかる形で吹き出た。


「ぐっ……!」


 自らの胸に突き立てられた己の拳に拳心は歯軋りを立てる。


「自殺は一番ツマラネェっつったろーがよ…!」


 何が起きたのか。理解の追いつく様な状況ではない。

だが一つ分かるのは拳心は今意識を持って薫への攻撃を止めたという事だ。

それも一度完全に“亜人”と化して理性を失ったのに。だ。

まさに“奇跡”としか形容できない。


「まさか………コイツも・・・・なのか!?」


 鳴海は目前で起きた状況に驚きを隠せない。

故にポロリと言葉が溢れた事は麦も空悟も聞き逃さない。

 その中心で拳心は薫を抱き寄せて優しく抱擁する。


「自殺は一番ツマラネェ…………俺もか……」


 まるで言い聞かせる様に話す拳心の意識ははっきりしていて最早つい先刻までの頼羽拳心そのものだ。

見た目は完全な“鬼”であるというのに中々どうして事実は小説より奇なりという事なのか。

 だが英雄は今はそんな事はどうでも良かった。

難しい事を考えるのは自分の役目じゃない。

難しい事を考えるとしても今じゃなく後でやればいい。

今英雄に重要なのはただ最大のライバルであり友人の拳心が生きているという事だけだ。


「ゴメンなカオル。ありがとう」

「ケンちゃん……! 良かった…!」


 鳴海と麗蘭はもう逃げる事はないと判断し、拳心と薫が落ち着くのを待ち、二人は生きている事を噛み締めていた。

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