第10話 夜の蝶集いし花園2
ラティラスは、器用に袋をキャッチすると、硬く絞められた口の紐を開ける。そして、中を覗き込むと、見てはいけない物を見てしまったようにすぐ袋の口を閉じた。
「これは……」
「まあ、一生は食べていけるわよね」
袋の中には小指の先ほどのダイアモンドがぎっしりとつまっていた。
「な、中身を知ってたんで? ワタシだったら誰かに盗られないか不安で寝られませんけどね」
「あずかってる金だからね。盗られたとしても私のじゃない」
サーシャはさっぱりとした気持ちのいい笑い声をたてた。
「それに、客の中には羽振りのいい人もいるけど、皆が皆、金を持っているからといって、幸せになれるってわけでもないみたいだし」
「なるほど。とにかく、なるべく節約して、余ったら返すことにしますよ」
正直、この支援は嬉しかった。何をするにも金は必要だけれど、今の状況では自分の部屋に「ちょっと忘れ物」とばかりに貯えを取りにいくことはできないし、できたとしてもそもそも大した額ではない。姫の居場所を探しに長い間あちこち飛び回ることなどできないだろう。
「それでは、いただいていきます」
ラティラスは扉に向かいかけた。
「ちょっと。そのまま行くつもり?」
「え?」
「くわしいことは聞かないけどさ、逃走資金が必要だってことは、追われているんでしょう? 変装くらいしなさいよ」
「へ、変装って何をするんで?」
サーシャは小さな引き出しの中から、陶器の箱を取り出し、テーブルに置いた。楽園で遊ぶ男女の絵が描かれたその箱は、それだけでも高価そうだった。
そしてテーブルの前に置かれたイスに座るよう、ラティラスに仕草ですすめる。
開けられた箱には化粧道具が詰まっていた。
「そんなに不安そうな顔しないで。大丈夫よ。なにも顔の骨削って人相変えるとは言わないから」
魅力的なほほ笑みを浮かべて、サーシャが顔を覗き込んできた。手にはファンデーションを持っている。
「あなたのその泣きぼくろ。セクシーでステキだけど、チャームポイントって目立つのよね。これがないだけでもだいぶイメージが変わるはずよ」
「お……」
顔に柔らかなパフを押しあてられ、ラティラスは目を閉じた。たまに祭りの余興で芝居をするときに化粧をするが、そう頻繁にあるわけではない。普段女の体からする匂いが自分からするのは不思議な感じだった。
「あとはその髪ね。縛ってあげるわ。ぎりぎり縛れるくらいだし。あら、落葉がくっついてる。どこを転がってきたのかしら?」
サーシャはラティラスの背後に回るとラティラスの髪をていねいにブラシでとかし始める。ときどき髪の中に入る指先の暖かさが心地よかった。
ふいに、リティシアのさらさらとした髪の感覚が指先に蘇った。リティシアの髪は侍女が結っていたが、ちょっとした乱れたくらいならラティラスが直してあげていた。
「あら、せっかくほくろを隠してあげたのに。泣かないの」
言われて、ラティラスはふいに流れてきた涙を手の平でぬぐった。
「何があったの、って聞きたいけど、詳しいことは言えないでしょうね」
後頭部に暖かく柔らかい物がふれる。キスをしてくれたようだった。
ラティラスはぽつぽつと口を開く。
「なんというか、迷子になった気分なんですよ。別世界に迷い込んだような。今までは今日のおやつを楽しみにするような、それなりに平和な日々だったんですけどね。それがいきなり斬ったはったに巻き込まれて」
「……」
「大好きな女性がいましてね。で、その女性の事を大好きなんだって気がついた時に、彼女がいなくなってしまったんです」
「よくあることよ」
「本当は、心の奥底では、ずっと知っていたんです。自分が彼女の事を想っていること。彼女がワタシの事を想っていること。でも、通じ合えたとしても、彼女を苦しめるだけだと」
強く握りしめた手が痛んだ。
サーシャは、「救いようがないわね」と言いたそうにため息をついた。
「でも、彼女がいなくなって……もうワタシの気持ちを永遠に伝えられなくなるかも知れなくなって……その時、思ったんです。何も伝えないままなんてやっぱり嫌だって。もしまた会うことができたら、きちんと想いを伝えるつもりです。もちろん伝えたところでどうにもならない現実は変わりゃしませんが」
言えない事情をはぶいたおかげで、随分と漠然とした告白になったが、余計な事を聞かず、彼女はもう一度キスをくれた。
「それでいいのよ。私には詳しいことは分からないけれど、たぶんね。現実がどうにもならなくても、あなたが想ってくれてるってだけで、彼女には救いになるはずだわ」
しんみりした空気を変えようとするように、サーシャが明るく言う。
「でも、さっきはびっくりしたわ。本当にベイナーの身になにがあったのかと思った。最近、彼、様子が変だったから」
「変? どんな風に」
「ううん、具体的に言うのは難しいけれど、なんだかピリピリしていたわ」
「ふうん。あいてて!」
「あらごめんなさい。髪にまた落ち葉がくっついてたのよ。本当に、どこを転げまわってきたのかしら? はい、できた」
差し出された鏡を見る。さすがに顔見知りならばれるだろうが、人づてに聞いた特徴からならまずわからないだろう。
「へえ、だいぶ違いますねえ」
「女がなんで化粧するのか分かったんじゃないかしら」
この階のどこかで時計が時をつげる。
その音がきっかけになったように、窓ガラスが大きな音を立てて割れた。風でまくれあがったカーテンが裂けた。
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