第2話 落ち葉は舞い上がる
秋も深まった林は、湿っぽい土と落葉の匂いにあふれていた。ときおり枝に止まった小鳥が呑気に鳴き声をあげた。普通なら可愛らしいと思うさえずりも、今ラティラスには妙に耳障りに思えた。
もう街は背後に消え、視界には木々と、その間に広がる畑だけが広がっている。
手綱を取りながら、ラティラスはリティシアの乗る馬車の後を見つめる。今、彼女がどんな顔をしているかなど、思い悩むまでもなく見当がついた。きっと、出発前のように不満丸出しで、それでも前をみつめているに違いない。
国境はまだ遠い。でも、いつかは必ず着く。ラティラスが一歩、また一歩と足を進めるにつれ、姫との別れは着実に近付いている。かといって、ラティラスにこの列を止めるだけの力はない。
気付いたら、ラティラスは胸にかけたペンダントに触れていた。それは父親が割れた陶器のかけらで作ってくれた物で、円い板に『幸あれ』と書いてあるだけの物だ。父が亡くなったあとも、ラティラスはそれをお守り代わりに身に着けていた。
「それにしても特例だな、道化が見送りなんて」
隣に馬を並べていた近衛兵のセダルが明るく言った。どうやらラティラスを慰めようとしてくれているらしい。
「お前は仲が良すぎるくらいリティシア様と仲がよかったからな。王様が気を利かせてくれたんだろう。よかったな」
『仲がよかった』か。もう過去形なのがさみしい。
「トルバドか。どんな所なんだろうな」
友人の言葉は、未知の土地に憧れるというよりは、怯えているような感じだった。
「最近、物騒な噂しか聞かないから、リティシア様が心配だよ」
セダルがいう物騒な噂、というのはトルバドで起きているという事件のことだろう。
トルバドでは、最近行方不明者が出るという。それ自体は珍しいことではない。その行方不明者の中には、後に死体となって発見される人もいるという。それも珍しいことではない。
けれど、その見つかった死体の中に、全身の血が抜き取られているものがあるとなると話は別だ。
そしていつからかこんな噂が流れ始めた。トルバドには吸血鬼が出ると。
もっとも長い距離を経て伝わって来た話だ。当然尾ヒレはついているだろうし、そもそも実際にそれらしい事件があったのかどうかさえ、この国では確かめようがない。
「小さいとはいえ一国のお姫様ですよ! 護衛だって当然つくし、王子だって危険な場所にリティシアを連れ出したりしないでしょう。巻き込まれるより、姫が『殺人犯をとっ捕まえる』とか無茶しないかどうか心配ですよ」
「血狂い姫だからな」
浮かびかけたセダルの笑顔が不自然に引っ込んだ。
その理由が、ラティラスにもすぐに分かった。姿は見えない物の、確かに異様な気配がする。誰かがこちらをうかがっている。一人? 二人? いや、たくさん。
ラティラスは、手を剣の柄に伸ばした。
列の前方で、悲鳴があがった。誰かに聞くまでもなく、ラティラスは足元の地面に突き刺さった矢で何が起きたのかを知る。浴びせ掛けられる銀の光に、兵達の何人かが倒れていった。
異様な雰囲気に怯えた馬が嘶(いなな)き、暴れだした。
「うわ!」
「どうどう!」
後ろ足で立ち上がった馬にしがみつく者。振り落とされ、地面に転がる者。掘り起こされた土の匂いに、かすかに血の匂いが混じり始める。
乱れ始めた婚礼の列の両脇で、落葉が噴水のように舞い上がる。
地中から飛び出してきたのは、顔に黒い布を巻きつけた男達だった。号令すらなく、男達は一斉に近衛兵団に襲いかかった。
「貴様ら、何者だ!」
隊長の誰何(すいか)が聞こえたが、応えはなかった。
いきなり始まった戦いに、なんだかラティラスは急に大声で笑い出したくなった。国境につきたくないという自分の願いを叶えるように、こんな修羅場が起こったことが、ひどく悪趣味な冗談に思えた。
こんなトラブルがあったのだ。姫の嫁入りは少し遅れるだろう。ひょっとしたら、数か月、あるいは数年延期になるかも知れない。そうしたら、またしばらく姫と一緒にいられる……
足首を引っ張られ、馬から引きずり降ろされたところで、我に返る。こんなバカな事を考えている場合じゃない!
身を転がして、喉に突き立てられようとした刃をかわす。落葉をガサつかせながら立ち上がる。襲撃者の数は多く、留まっていたらあっという間に囲まれそうだ。腰の剣を抜きながら走る。
あちこちで剣の噛み合う音が響く。あふれる悲鳴と血の匂いに、変に高揚していた気分がじわじわと恐怖に変わっていく。柄を握る手がじっとりと汗ばんできた。
足音と、視界の隅を横切った影で、敵が背後にまわりこんだのを知る。
振り向きざまに剣を振れば、相手は飛びのいて距離を取った。
ラティラスの鼓動は荒れ狂っていた。師匠に剣を習ってはいても、練習場の中だけの事で、実際に「命を懸ける」なんて事はしたことがない。もし負けたら相手に酒をおごるだけではすまされない。本当に死ぬ。柄を握った手が震える。
男が切りかかってきた。恐怖で頭が漂白されたように真っ白になった。
短剣を払いのけ、相手の胸に剣を突き立てる。反射的に反応できるようになるまで師匠に教え込まれた動きだった。柄を握る手に血が降り掛かり、初めて自分が何をしたかに気付く。――うまれて初めて、人を殺した――
「何ボーッとしてるんだバカ!」
セダルに強く引っ張られて我に返る。
「そうだ、姫様!」
リティシアを馬車には、すでに五、六人の男が群がっていた。男達は護衛に手こずりながらも馬車の戸を開けようとしている。
ラティラスが馬車にむかって駆ける。馬車の戸が開いた。
内側から。
水に流れる花のように、あざやかなドレスを風にひるがえし、馬車からリティシアが飛び降りた。手には白く輝く短刀が握られていた。
「血狂い姫だ!」
賊の一人が声をあげた。
「生け捕れ!」
「姫(ひい)様!」
ラティラスが叫ぶ。
リティシアは白刃をひらめかせながら敵の攻撃を受け流している。
ラティラスは、なんだか誇らしい気持ちになった。そう、リティシアはこういった時、ただうろたえて泣くことしかできないその辺(あた)りの女ではない。血狂い姫なのだから。
視界の端に、近付いてくる人影を捕え、向き直る。いつのまにか、両手に短剣を持った賊の一人がすぐそばにいた。
(くそ! 姫様の所に行きたいのに、なんで邪魔をするんだ!)
「うわああ!」
いら立ちを込めて短剣を弾き返す。
落葉が鳴り、男が踏み込む。ラティラスが剣を構え直そうとした時には、もう懐に飛び込まれていた。
相手は右の刃でラティラスの剣を押さえ込み、左の刃をラティラスの喉に短剣を突き立てようとする。
「う……」
その時、近衛兵の一人が真横から男に斬りかかった。敵は、身をかわそうとする。しかし避けきれず、男の右腕跳ね飛び、血が噴き出した。
助けてくれた仲間に礼を言うのすら忘れ、ラティラスは姫の元に走りだした。
客観的に見て、賊の方が遥かに優勢だった。立っている者のうち近衛兵の制服を着ている者は、三分の一ほどになっていた。
「姫様!」
敵の囲いの中からリティシアを引きずり出そうと、ラティラスは片手を差し出した。
ラティラスの存在に気づいたリティシアが、ほんの少し表情を緩めた。
リティシアが腕を伸ばしてくる。その指先が触れようとした時、真横から急に斬り掛かられ、とっさにラティラスは横へ跳んだ。こめかみを貫かれるのは逃れた物の、額を薄く切られたらしい。氷で撫でられたような冷たさが走る。生暖かい血が片目に流れこみ、視界の半分を赤黒く染める。
自分自身の急な動きに耐えられずに体がよろめく。
「ラティラス!」
焦ったリティシアの声。
右側で武器を持ち直す硬い音。空を斬る音をさせ、横なぎに迫って来るのはラティラスでは持ち上げられるかも怪しい大剣。
ラティラスは剣を構え、大剣を受け止めようとする。金属同士がぶつかる耳障りな音。勢いに負け、ラティラスの剣もろとも大剣が体に叩きつけられた。胴を真っ二つにされるのは防いだ物の、ラティラスは弾き飛ばされた。
落葉がクッションになったが、それでも衝撃はすさまじい。まるで見えない手で脳をゆさぶられたようにめまいがした。咳と胃液がこみ上げる。
「姫だ! 逃がすな!」
賊の叫びがにじんで聞こえた。
「姫(ひい)様……」
ひどく吐き気がして、まわりの空気が鉛の砂にでもなったように体が重い。それでもなんとか起き上がる。視界が滲んで、まわりの景色はもうぼんやりとした色の固まりにしか見えなかった。
二、三歩歩くとなぜか急に体がふっと軽くなった。目の前が真っ暗になる。そして、ロウソクを消すようにあっけなく、ラティラスの意識は途絶えた。
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