子供の頃、泣き虫とからかっていた幼馴染が皇太子になって求婚してきました。

鳴瀬憂

01 かつて泣き虫だった幼馴染は私が初恋だと言った。

「ずっと君を探していた」


 冗談を言っているような雰囲気ではなかった。

 夜闇のような黒髪が見事な青年が私の前に跪いた。嘘だろ、と思わずつぶやいてしまう。淑女らしからぬ言葉遣いと叔母からは眉をひそめられるそれを、男は気にした様子もなかった。それどころか「懐かしい」と言ってのけたのだ。


「はぁ……?」

「か、勘違いですわ! ザーリア姉さまが殿下の初恋の相手なわけございませんものっ」

「そうですわ殿下、きっとうちのメイヤこそが初恋のお相手……」

「俺たちの再会に水を差すつもりか、シュタイン伯爵夫人」


 冷え冷えとした眼差しが降り注ぎ、シュタイン伯爵夫人は押し黙ってしまう。

 シュタイン伯爵夫人と呼ばれた叔母の名前はクロイア・シュタイン、先ほど「ザーリア姉さま」と叫んだのは従妹のメイヤ・シュタイン。


 そして、私――ザーリア・シュタイン。


 シュタイン伯爵家の居候、ごく潰しと叔母と従妹から面と向かって呼ばれ続けた娘である。ふたりとも肝が小さいので、目つきの悪い私が睨むときゃんきゃん尻尾を巻いて吠えるしか能がない。

 ほんとにしょうもないやつらなのだが、私よりも立場が上だと常にイキっていた。


 私が本物の伯爵令嬢だった頃、突然父が死んだあの日から。


『おやすみ、私の宝物』


 ひとり娘におやすみのキスをした父は母とふたり、寄り添うようにして私の部屋を出て行った。

 翌朝、母がけたたましい悲鳴を上げたときには既に冷たくなっていた。


 呆気なかった。

 早すぎる主人の死に、シュタイン伯爵家の使用人たちは大いに嘆いた。あまりにも急だったから、シュタイン伯爵は母子や真摯に仕えてくれた使用人たちに何ひとつ言い残すことは出来なかった。

 こういうときに頼るべき相手も、信頼してはいけない人間のことも。


 弟である叔父夫婦が私達に声を掛けてきたのは葬式の直後だった。

 ひどい雨降りで、父を埋葬するためにスコップでかけた泥がぐちゃぐちゃだ。手順通りに淡々と行っているだけなのに、棺桶の上に置かれた白百合をひたすら汚しているように思えた。


『シュタイン家のすべての財産は、男子である私が承継する』


 まだ喪服を脱いでもいない母にむかって、亡きシュタイン伯爵の弟は断言した。叔父は手際よく法手続を執行する役人を引き連れてきていた。

 帝国法によればシュタイン伯爵の称号、領地及びすべての私財は男子である父の親族――つまり弟である叔父が相続することになると役人はそっけなく告げた。母と私は1リュクス銅貨さえもらう権利がないのだ、と。


 母のアクセサリーは叔母のクロイアのものに、私の着ていたドレスは従妹のメイヤのものとなった。

 自分の部屋にさえ立ち入れなくなった母と私は、物置として使っていた地下室に追いやられた。


『大丈夫、きっと大丈夫だから……』


 私の頭を撫でて慰めの言葉を口にしていた母は時々、叔父の部屋に呼ばれるようになった。帰って来ると母はいつも疲弊した表情で、私に「おやすみ、私の宝物」と父と同じ言葉を囁き、寝かしつけてからひとりで泣いていた。


 そして、ある日――母が、庭の一番背の高い木の枝にぶら下がっていた。


 早く助けなければ。雨に濡れた母の身体にすがりつく私を執事が「お嬢様、もうおやめください」と泣きながら引きはがした。

 細い首にはみっしりと蛇のように縄が巻き付いていて、木の枝からぶらんこのようにぎいぎい揺れていた。


 あとで聞いた話だが、母は身ごもっていたらしい。

 それを知った叔母からは「娼婦」と毎日のように罵られ、影で折檻をされていた。

 私は何も知らなかった。

 子供だったのだ、頼りにすることもかなわない、ちっぽけで無力な役立たず――それが私だった。


 私は憎んだ――私に残されたたったひとりの大切なひとを奪い、家を乗っ取り、衣服を剥ぎ取り、自分を愛し飾り立てる勇気まで奪った。

 伯爵令嬢だったザーリア・シュタインは蹂躙され、いまここにいるのはただのザーリア。


 シュタイン領で一番の荒くれもの、銀狼ザーリアだった。

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