第18章「地底湖の怪物」

 さらに奥へと、狭い道を進んで行った。

 奥の方からは、冷たい湿気が漂ってきていた。

 白っぽい岩肌も湿ってつるつるとしており、洞窟は再び、魔物の牙が突き出したような、鍾乳石の作り出す妖しい空間となっていた。洞窟を埋め尽くすようにひしめき合っている鍾乳石群が、道を指し示すように壁に沿って連なっている。

 湿り気がいよいよ強くなってきて、水の気配がしていた。

 狭い道がいきなりぱっと開けて、広くなった場所に出た。

 そこには、緑色をした、大きな地底湖が、闇の中に浮かび上がるようにして広がっていた。湖は闇の先のずっと奥へと続いていて、どこまで続いているのか分からなかった。

「おおっ!湖だぜ!でっかい湖があったぜ!」

 エンマは嬉しそうに叫んだ。

「やっと着いたか。」

 柘榴は、湖に走って近付いて行くエンマの後ろ姿を見ていた。

 エンマは膝をつき、湖の淵に手をかけて、水面を眺めていた。

「でも、変な色の水だな…。マジでこんな所に魚なんていんのかよ…。」

 水は緑色で濁っていて、水の中がどうなっているのか全く見えず、底も見えなかった。

「アタイは魚がいるなんて言ってねーぜ。いるかも、って話。」

「んじゃ、ちょっくら探してみるか。」

 そう言うと、エンマは帯を解いて着物を脱ぎ始めた。

「ち、ちょっと。いきなり何脱いでんだよ。」

 柘榴は、恥ずかしそうに言って、両手で顔を覆った。

「何って、水に潜るんだよ。」

「こんなトコに潜るってのか?なんかいそうじゃね?魚じゃなくてさ…。」

「何でもいいから、食えそうなもんを探すんだ!」

 着物を脱ぎ捨てて裸になり、黒い褌だけ身に付けたエンマは、そのまま水に飛び込もうとして、ふとやめてから、思い直したように着物の中に置いてあった刀を鞘から取り出し、柄の部分を口にくわえて、ざぶんと頭から水の中に飛び込んでいった。

「全く怖いもの知らずな奴だな。変な茸をいきなり食うわ、こんな深そうな水ん中に潜るわ…。ヘヘッ、アタイはすっかりお前が気に入っちまったぜ。」

 水の中をどんどんと奥底へ向かって、エンマは潜っていった。

(底が全然見えねえな…。どんだけ深いんだ。)

 濁った水の中は、あまり綺麗とは言えないが、そこまで汚いわけでもない。深く潜っていくにつれ、水の冷たさは増していった。

 底へ、底へと潜っていっても、全く底に着く気配はなく、周りを見渡しても、何かあるようにも見えず、何一つとして見当たらなかった。

「大丈夫かよ…。潜ってったっきり、戻ってこねーけど…。」

 柘榴は心配になって、うろうろしながら湖を見ていた。

「ぶはっ!」

 水面からエンマが顔を出した。

「あっ、エンマ!」

「ちくしょー。何にも見つからねえ。期待してたってのに。もっとあっちの方まで行ってみるかな。」

と、エンマは湖の向こうの方を見た。

「もういいだろ。あんまり奥まで行って、またおかしなことになったら…。アタイにだって、この奥がどうなってるか分からないんだ。」

「おめえは来ねえのか。じゃ、俺はもっとあっちまで行ってみるぜ。」

 そう言って、エンマはどんどん向こうへと泳いでいった。

「あっ!待てよ!アタイを置いてくなって。全く、アタイは嫌だぜ、こんな水ん中は…。水はダメなんだよ…。」

 柘榴はしゃがみ込んだ。

 そんな柘榴の気も知らずに、エンマは好奇心に任せて、洞窟の奥を目指して、どこまでも広がる湖を泳いでいった。

「一体ここは、どこに繋がってんだろうな。」

 泳いでも泳いでも、全く向こう岸のようなものが見えなかった。

 ふと後ろを振り返ると、柘榴の姿が豆粒のように小さくなって見えていた。

「…あんまり行ったってしょうがねえな。これ以上は。俺は妖力の修行に来たんだ。洞窟探検に来たわけじゃねえ。危うくそれを忘れる所だったぜ。」

 エンマは、元の岸に向かって引き返して行った。

 しかし、暗い水の底では、エンマを狙っている巨大な影があった。

 その影は、ゆっくりと動きながら、徐々にエンマに迫りつつあった。

「ん…?」

 エンマは、何か怪しい気配が下から上がって来るのを感じて、素早く刀を持って身構えた。

 水が激しく渦巻いて飛沫が上がり、その中心から、黒いものが顔を出した。

 エンマは、水の勢いに押されて体勢を崩した。

 その黒いものは、目も鼻もないように見え、まるで口だけの生き物のようだった。

 幾つも牙の生えた大きな口をがばと開けて、今にもエンマを飲み込もうとしていた。

「うわああっ!エンマ!」

 柘榴がそれを見て叫んだ。

「うおっ!」

 エンマは飲み込まれそうになった瞬間、水の中に逃れて、刀をその黒い怪物の顎に思い切り突き刺した。刀は怪物の黒光りした厚い肉に刺さって、抜こうとしてもなかなか抜けなかった。

 怪物は不意を突かれて、苦し気に悶えていた。その隙に、エンマは必死に泳いでそこから逃げた。

 黒い怪物は、それでもエンマを追ってきた。怪物はのったりとした緩慢な動きであったが、一度に進む距離は大きく、泳ぎの得意なエンマに、あっという間に追いついて来た。

 その怪物は水面に頭だけ出していて、その体がどうなっているのか、エンマには知る由もなかったが、その体を水の中から見ると、非常に長く巨大な生物であると分かる。

 水の下では、怪物の長い、平らな蛇のような体がくねくねと波打ちながら、水の中を進んでいた。そのために水は大きく揺れて、津波のようになってエンマに押し寄せてきた。

「俺が食われてたまるか!」

 怪物から逃れ、津波から逃れ、必死に泳いでいるエンマは、知らず知らずのうちに、霊力を使って、瞬足術で身体能力を高めて、手足を素早く動かして、水中を泳いでいた。

 みるみるうちに、怪物との距離が広がっていき、エンマは元の岸に辿り着くことが出来た。エンマは急いで岸に上がって、湖を振り返った。

「早く逃げようぜ!」

 柘榴が急かすように言った。

「逃げる?へっ、冗談じゃねえ。俺を餌扱いしたあのヤローを、俺が捕まえて食ってやるんだ。」

 エンマの目に、鋭い光が宿っていた。

 怪物は、エンマを追ってこちらへ向かってきている。

 エンマは、それを迎え撃とうと、身構えていた。刀は手元にない。あの怪物の顎に刺さったままだ。

「ギイイイイイ…。」

 奇怪な音を出しながら、怪物がその鎌首をもたげて、水の上に姿を現した。

 体長は、エンマの五倍近くはあるかと思われた。

 広い洞窟の天井にまで、頭がつきそうなくらいだった。

 目も鼻もなく、口だけ大きく開いた頭ばかりが異様に大きく、海蛇のように長く平らな体をしていて、鱗のようなものはなく、つるりとした黒い体がてかてかと光っていて、背鰭が尾の方まで長く連なっているように見える。

 頭のすぐ下が大きく膨れていて、そこが怪物の腹であり、獲物を飲み込む胃袋であった。

 その腹部には発光体があり、そこがチカチカと光っていて、怪物の体内の太い骨や、内臓が透けて見えていた。

 エンマは怪物を眺めて驚いたように目を見張っていたが、すぐに表情を硬くして、怪物の頭に狙いを定めた。

 これも知らないうちにしていたことだったのだが、エンマは、霊力を使い、飛天術で高く飛び上がった。そして怪物の頭に勢いよく頭突きして怯ませた隙に、怪物の顎に刺さっていた刀を渾身の力で抜き取って、素早く下に飛び降りて着地した。

 怪物は、長い体をぶんと振り上げて、そのままエンマに向かって体を叩きつけてきた。

 エンマはそれを落ち着いて見定めて、刀を振るった。

 怪物の首がスパンと一直線に斬られ、大きな頭がどしんと大きな音を立てて落下し、洞窟内は大きく揺れた。柘榴は、鍾乳石の柱にしがみついて、状況を見守っていた。

 更にエンマは、高く跳躍しながら、怪物の長い胴体を次々と横一文字に斬って、輪切りにしていった。地面に、輪切りにされた怪物の胴体が、幾つも幾つも積み重なっていく。

 怪物の大きな頭だけが、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしており、まだ生きていた。

「こいつが頭で心臓みたいだな。」

 エンマの目は、怪物の何かを捉えているようだった。

 エンマは怪物の頭をごろごろと押していって、湖の中にそのまま落とした。

「なんで止めを刺さないんだよ!」

 柘榴が言った。

「あいつの頭は食ってもうまくなさそうだし、それに、別に殺す意味もねえ。あいつだって、必死だったんじゃねえか?こんな所に滅多に食いもんなんてねえだろうし。頭と心臓があるから、あいつはまた再生出来んじゃねえかな。多分。」

 そしてエンマは、輪切りにした怪物の肉を抱えて、そのままがぶりと噛み付いて食べ始めた。

「たいしてうまくねえけど、あのどろどろしたのよりゃ何倍もマシだな。いっぱいあるから、こいつを持ち帰れば当分食いもんには困らねえな。」

「よくそんな得体の知れないもんを食えるな。」

「おめえもどうだ?」

 エンマは柘榴にも勧めたが、柘榴は顔を背けて後ろを向いた。

「い…いらねえよ。…なあ、それよりお前、そんなカッコで寒くねーのか。さっさと服を着ろよ。」

「ん?ああ。そういやちっとばかし寒いな、ここは。まあいい準備運動にはなったな、修行の。」

「お前の頭ん中には修行しかねーんだな。」

「ああ。じじいの仇をぶっ倒してえからな。」

「お前にも、色々あったみてーだな…。」

 どこか憂いを帯びた声で柘榴は言った。

「アタイはお前が羨ましいぜ。お前には、帰る里もあって、帰りを待ってる仲間もいるんだからな。」

「…おめえも、ここが嫌なら出ればいいじゃねえか。」

「別にアタイは、ここにいるのが嫌なんじゃねー。もうここで一人きりで過ごしてんのは慣れちまったし。けど、やっぱり、お前と一緒に過ごしてるうちに、今までどんなに寂しい毎日だったんだろーなって思ってな。なんか、生きてたときのことを思い出したんだ。毎日いろんなことがあって、楽しかったなあ…。」

 柘榴は、どこか遠くを見るような目つきをして言った。

「そうだな。生きるのは楽しいから、俺は死にたくねえ。死んじまったら何もかも面白くねえだろう。」

「ハハハ。お前は単純だなあ。そういう所が気に入ったよ。」

 柘榴はエンマを見て微笑んだ。

「さーて、ハラもいっぱいになったし、戻るか。」

 エンマは着物を着て、腰に刀を差し、来た道を振り返った。

「げ。またあんななげー道を引き返すのか。…でもま、いいか。」

 柘榴はエンマに引っ付いて、両腕をエンマの腕に絡めた。

「だから、いちいちくっついてくんじゃねえ!」

「いいじゃねーか。アタイはさみしいんだ。もう少しで、お前がいなくなっちまうって思うとさ。」

「けっ、もうめんどくせえ。勝手にしろ。」

 エンマは幾つか怪物の肉を背負ったり手に抱えたりすると、来た道を歩き出した。


 地底湖から戻って来たエンマは、修行を再開した。

 怪物と闘ったときに、無意識のうちに霊術を使っていたことにも気付いていないエンマは、妖力も、ぐんと上手く抑えられるようになっていた。

 どんなに激しい妖力を放出しても、自分の意志でそれを抑え込め、炎を消すことが出来た。

 怪物の肉を全て平らげた頃には、エンマの修行はほぼ完成したと言っても良かった。

「完璧じゃねーか。アタイが食う隙のねーくらい、妖気に無駄がねーぜ。」

「へへっ、やったぜ。」

「どうやら、妖力をきちんと抑えられるようになったようだね。」

 そこへ突然音もなく夜鬼がエンマの前に現れた。

「夜鬼!てめえ、なんで俺をここに閉じ込めやがったっ!てめえのせいで俺は、さんざん汚ねえもんを食うはめになったんだ!」

 エンマは夜鬼に毒づいた。

「だけど、そのおかげでお前は妖力を抑えられるようになったじゃないか。お前の気を食っていた柘榴にも礼を言うんだよ。柘榴がいなかったら、お前の修行はもっと大変だっただろうからねえ。」

 夜鬼は微笑んで言った。

「そりゃあ、そうだな。柘榴、ありがとうな。」

 エンマは柘榴を見て笑った。

「そんな礼なんか。アタイはただ、気を食ってただけだし。」

 柘榴の顔は、どこか寂しそうだった。

「じゃあ今度は、妖術を少し教えてやるかね。せっかくだから。」

「妖術か!おーし、なんかそっちは面白そうだぜ。」

 エンマは拳を握り締めて、瞳を煌めかせた。

「上に戻るよ、エンマ。」

「ああ。んじゃな、柘榴。」

「ん…。」

 柘榴は力なく笑ってみせた。

「おいおい、何だってそんなしけたツラしてんだよ。」

「だって…。」

「寂しいんだったら、おめえもここを出りゃあいいじゃねえか。」

「柘榴。どうだ?一緒に。」

 夜鬼も言った。

「そうはいかないよ。いいんだ、アタイは…。アタイはここが気に入ってるし、今更上でなんて暮らせないしな。修行、頑張れよな、エンマ。」

 柘榴はいつになく優しい口調で言った。

「ああ。」

 エンマは明るく笑って答えた。

「ケケケッ。」

 柘榴の笑い声が闇の中に響いている中、夜鬼は重い鉄の扉を閉めて鍵をかけた。


「お前は罪な男だな、エンマ。」

 上へと続く階段を登りながら、夜鬼が言った。

「えっ?」

「いや…柘榴がねえ、まさかお前に惚れるなんて、考えもしていなかったからさ。」

「あいつは一人で寂しかったんだろう。」

「それもあるとは思うが…。お前のその、人を惹き付ける力ってのは、やっぱりアヤメの…いや、あの二人の力の成せる技なのかねえ。」

「なんかまたわけの分からねえことを言い出しやがって。柘榴といい、てめえといい、女の言うことはさっぱり意味が分からねえぜ。」

「妖力を抑えられるようになったお前なら、少しは餓鬼臭い心も治ったと思ったんだけどねえ。その様子じゃ、あの長老の望みは無理なことだろうね。」

「長老?それって花霞の里のくそじじいのことか。そいつが何を望んでるっつーんだ。」

「餓鬼のお前に言ったって無駄さ。」

「なにい!また餓鬼って、バカにしやがって。」

「気になるなら、蓮花に聞いてみな。」

「なんで蓮花が知ってんだよ。」

「さあねえ…。」

 夜鬼はくくっと笑った。


 その頃蓮花は、エンマを探して、楓と共にあちらこちらと飛び回っていた。

 山、海、川、里の周辺から、里から遠く離れた所へまで、足を延ばしたこともあった。

 伝視術を駆使しても、エンマの姿はどこにもない。

 もうひと月以上も、そうして探し回っていた。

 しかし、エンマを探してばかりもいられない。

 魔物退治は変わらず蓮花たちのやるべきことであったし、また蓮花や蘭丸は、稽古場や訓練所で教えている立場であり、長くそこを空けているわけにもいかなかった。

 一番の頼みの綱である、蘭丸の電光丸や、椿の黒天からの良い知らせもなく、どこにも見当たらないという連絡しか返って来ないのだった。

「蓮花。もうエンマを探すのは諦めよう。きっと、いつか戻ってくるさ。」

 ある朝、いつも通りに蘭丸の家に来た蓮花に、蘭丸は言った。

「何言ってるの?もう諦めろって言うの?」

「だってさ…。俺は蓮花を見ているのが辛いんだよ。無理しているのが分かるから。」

「無理してるって、何を?別に私は普通よ。」

「エンマがいなくなって、一番悲しんでいるのは蓮花じゃないか!そんな蓮花を、俺は見ていたくないんだよ!蓮花がそんなにもあいつを…。」

 蘭丸はそう叫ぶと、奥へと引っ込んでいった。

「蘭丸…。」

 蓮花は蘭丸にそう言われて、急に込み上げてくるものがあったが、それを押し殺して、無理に笑顔を作って笑った。そして気持ちを振り払うようにして、元気よくみぞれや氷助に挨拶して、手伝いを始めた。

「なあっ、蓮花。おいらも頑張って修行するよ!」

 朝餉が済み、庭で蓮花が洗濯物を干していると、フータが蓮花に駆け寄って来て言った。

「フータは、飛天術がすごく上手いじゃない。」

「それだけじゃ、だめなんだ。おいらも強くなりたい。兄貴を守れるようになりたいんだ。おいら、ずっと考えてたんだ。おいらが強くなれば、兄貴も戻って来るって。おいらは兄貴を守るために生まれて来たんだ。」

 フータはしっかりと蓮花を見つめて、決心したように言った。

「大げさね、フータったら。でも、そうね。エンマが帰って来たときに、フータが強くなっていたら、きっと、エンマはびっくりするわね。」

 蓮花は微笑んだ。

「おいらの命は、兄貴と会ってから、始まったんだ。」

 フータは、桜の木の枝に止まっている、小さなスズメを見てそう言った。

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