第13章「地獄里へ」

 日没の迫る時刻であった。

 夕闇の中を、花霞の里へ向かい、足を引きずりながら歩いてくる者がいた。

 彼は、黒装束を着ていたが、全身ずたずたに切り裂かれていて、血だらけの体に黒い襤褸布ぼろぬのを纏っているかのようだった。

 里の入り口をくぐると、彼は力尽きたように、ばたりとその場に倒れた。それを、門番が見つけて、すぐさまその男は医院へ運び込まれた。

 報告を受け、芭蕉が男のもとへやって来た。

「…長老様。只今…戻りました…。」

 男は意識を取り戻すと、布団に横になったまま、芭蕉に挨拶をした。

「そのままでよい。よく戻って来たな、黒葉こくよう。連絡がないので、もしやと思っていたが、戻って来て何よりだ。本当に、ご苦労だった。」

 動かない体を無理に起こそうとする男を押し止めて、芭蕉は言った。

「して、一体何があったのだ。お前が、そんなにぼろぼろになってくるとは…。」

「…じ…地獄里は…、魔物に乗っ取られておりました…。奴らは…人の体を乗っ取り、人のふりをして…、里へやって来る人々を襲っております。」

 男は苦しそうに咳をしながら言った。

「化身の術だな。それで、人里に溶け込んでいるというわけか…。」

 芭蕉は顔をしかめた。

「私は…隠れて伝視で…、奴らの動きを探っていました…。そして、そこで聞いたのは…、奴らは地獄里を…第二の根の国にすると…。」

「なんだと。」

 これには驚いたように芭蕉は目を見開いた。

「奴らの中に…、指導者がいたのです…。他の者とは…比べ物にならないほどの妖気を持った…その者の名は…うっ!」

 男がその名を口にしようとした途端、男は突然苦しげに呻いて絶命した。

「むむっ。奴らの術か!仕掛けていたな。名を言おうとすれば死ぬとな。」

 長老と、たった今死んだ黒葉という男のやりとりを、部屋の外で聞いていた者がいた。

 楓であった。

 ここは、楓の家に併設している医院だったのだ。

 長老が部屋から出てきたときには、楓の姿は消えていた。


 その翌日、蓮花の稽古場に、楓がやって来た。

「あら。楓じゃない。」

「蓮花。エンマは…いないのか。」

 辺りを見回して、楓が言った。

「どうしたの?」

「いや…エンマは確か、地獄里から来たと言っていたことを思い出してさ。」

「地獄里が、どうかしたの?」

「ああ。昨日、長老の使いが里に戻って来て、あたしの所へ運び込まれて来たんだよ。ぼろぼろになっててね。命に別状はなかったんだが、魔物に術をかけられていたみたいで、そいつは死んでしまったよ。」

「まあ…。」

「それで、あたしは陰で長老とそいつのやりとりを聞いていたんだよ。何でも、地獄里が、魔物の巣になっているらしいんだ。このことを、エンマに知らせた方がいいかと思ってな。いずれは皆に知れ渡ることだろうし。」

「そう…。地獄里は、エンマがおじいさんと暮らしていた故郷だもの。その里が、魔物に踏みにじられてるなんて聞いたら…。だけど、エンマにそれを言ったらどうなるのか、心配だわ。」

 心を痛めたような面持ちで、蓮花が言った。

「だからこそ、あたしたちからエンマに言った方がいいだろう。噂みたいになってそこからエンマの耳に入ったら、それこそあいつのことだ、一人で暴走して、やけになるだろう。あたしが言うよりも、蓮花、お前の口から伝えてくれないか。もしエンマに何かあれば、あたしも手を貸そう。あたしたちは、仲間だからな。」

 楓は涼やかに笑って、蓮花の肩を軽く叩いた。

「うん。ありがとう、楓。」

 蓮花も微笑み返した。


 その頃、訓練所では、エンマと椿が木刀を打ち合って修行していた。

 蘭丸も、他の訓練生に教えながら汗を流している。

「おらおらっ、椿!もうばててんじゃねーか。」

「ちっ。君は体力だけは人一倍だね。なんて丈夫な奴なんだ。だからその分、頭はカラッポなんだ。僕とは違ってね。」

「ああん?なんか言ったか?」

「それに、鈍感だしね。」

 椿の皮肉にも、エンマは全く動じずに、木刀を思い切り振るっていた。

「おや?」

 こちらへ駆けてくる蓮花の姿を見つけて、椿はエンマから離れた。

「てめえ!また休むってのか。」

「君に用があるみたいだよ。」

「ああ?」

 椿の指差す方向をエンマは見た。

「エンマ!話があるの。」

「おう蓮花。なんだ?」

 片手に持った木刀を肩に置きながら、エンマが言った。

「ここではちょっと…。」

「僕はお邪魔なようだねえ。フフッ。」

 椿はからかうような目つきで蓮花とエンマを見ると、その場から立ち去って行った。

「また勘違いして!」

 蓮花は忌々しげに椿の後ろ姿を睨み付けた。

「ちょっと、エンマ。こっちに来て。」

 そう言って蓮花は外へエンマを引っ張って行った。

 そんな二人の姿を蘭丸は見ていた。

「蘭丸。ついに、来るべきときが来たようだよ。」

 蘭丸の所へ、わざわざ椿がやって来て言った。

「なんだよ、椿。来るべきときって…!」

 苛々したように、蘭丸が椿を睨んだ。

 椿は、懐から豆を取り出して口に放り込み、にやにやと蘭丸を見た。


 外に出て、誰もいない場所まで来ると、蓮花は辺りを見回した。

「話って何だ。」

 蓮花のただならぬ様子に、エンマも気付いていた。

「…落ち着いて聞いてね。エンマの暮らしていた里…、地獄里のことよ。」

 静かに、蓮花はエンマの目を見て言った。

「地獄里が、どうかしたのか?」

「今は、魔物の棲みかになっているらしいの。」

「なにっ!?」

 エンマは目を見開いた。

「私がエンマをこの里へ連れて来た後、長老様は地獄里へ使いを出していたの。それが今までずっと帰って来なくて、やっと昨日、帰って来たと思ったら、そのことを告げて死んでしまったの。おそらく近々、人が集められて、魔物退治に地獄里へ行くことになると思うけど。」

「俺も行って、この目で確かめてえ!」

「…そう言うと思ったわ。でも、今のエンマでは、危険すぎるわ。」

「けど、地獄里は俺の故郷だ!嫌な思い出もあるが、じじいと暮らしてたいい思い出だってある。そんな場所を、魔物なんかに渡してたまるか!」

 拳を握り締めて、悔しそうにしているエンマを見て、しばらくの間、蓮花は腕を組んで考えていた。

「…エンマ。私にも、その気持ちが分かるわ。どうせ止めたって、エンマは一人ででも地獄里へ行くんでしょうね。それなら私も、エンマに協力するわ。私はエンマと違って強いから。それに私だけじゃない。楓も協力してくれるし、蘭丸もいるわ。あと…多分椿も。皆エンマに協力してくれると思う。皆で、魔物を倒しに行きましょう。」

 蓮花の言葉を聞くと、エンマは顔を上げて笑って見せた。

「ああ。ありがとうな、蓮花。」

 話が終わり、エンマは訓練所に戻ってまた椿と一緒に修行を始めた。それを見て、いてもたってもいられなくなったように、蘭丸は、中に入って来た蓮花に向かって走っていった。

「蓮花。今、何をしてたんだ。」

「蘭丸、いい所に来たわね。蘭丸にも話そうと思ってたのよ。」

 事の次第を聞くと、蘭丸はほっとしたような顔になった。

「なんだ、そんな話だったのか。紛らわしいな…。」

「何がそんな話なのよ。エンマにとっては、大変なことでしょ。私たちにだって。」

「水臭いじゃないか。もう俺だって、エンマは仲間だと思ってるさ。エンマが地獄里へ行くなら、勿論俺だって行くよ。」

「椿はどうかしら…。」

「あいつだって、なんだかんだ言って来ると思うよ。最近、椿もエンマに触発されて、修行を頑張っているからね。エンマのことだって、放ってはおけないはずさ。」

「それじゃ、私は長老様に頼んでみるわ。私たちで、地獄里へ行かせて下さいって。」


 蓮花は訓練所を出るとすぐに、芭蕉の家へ飛んで行った。

「だめだ。」

 芭蕉は、蓮花の頼みを聞くと、首を振った。

「どうしてですか。」

「危険すぎる。エンマが捕まったらどうする。魔物の狙いはエンマなのだぞ。せっかく、ここへ連れて来たというのに、また地獄里に戻しては、魔物の思う壺だ。」

「でも…、地獄里は、エンマにとっては故郷なんです。故郷を滅茶苦茶にされて黙ってるなんて、誰にだって出来ないでしょう。エンマの気持ちも考えて下さい。今は、私たちがエンマを守ります。でもいずれエンマだって、魔物と戦わなければならないでしょう。危険なことは十分分かっています。私たちだって、覚悟はしています!」

「何もエンマを連れて行くことはないだろう。絶対に、エンマを行かせてはならん。蓮花の頼みでも、聞き入れることは出来ん。わしは、エンマを守らなければならないのだからな。」

 芭蕉は腕を組み、厳しい顔で言った。

「長老様!エンマはもう、ずっと強くなっています!ただ守られるだけの弱い者ではありません!」

「地獄里へは、他の者を派遣する。決して、エンマを里の外へ出してはならんぞ。」

 芭蕉はそう言って目を閉じてしまった。

「長老様!」

 それっきり、芭蕉には何を言っても通じなかった。


 訓練所から家へ帰って来たエンマは、縁側に座って、地獄里のことを思い出していた。

 赤鬼と呼んでいた奴らは、魔物に殺されたのか。

 それがいい気味だとは思えなかった。

 草吉と暮らした家は燃やされ、今はない。

 地獄里はどうなったのか…。

「エンマ!」

 はっとして顔を上げると、蓮花が目の前に立っていた。

「さっきね、長老様の所へ行って、エンマと一緒に皆で地獄里へ行きたいって、お願いしてみたんだけど…だめだったわ…。」

「ちっ!あのくそじじい…。」

 頭を抱えながら、エンマは憎々しげに呟いた。

「長老様の言うことも分かるわ。魔物の狙いはエンマだから。わざと、地獄里をそんなふうにして、罠を張って待ち構えているのかもしれないし。だからエンマの代わりに、私たちが行って、魔物を退治してくるから…。」

「ハナからあんなじじいの命令なんか聞く気はねえ。俺は地獄里が気になるんだ。罠があろうが何があろうが、俺は行く。」

 エンマの緑の目が鋭い輝きを帯びていた。

「やっぱりね…。だけど、エンマ一人じゃどうにもならないことだけは確かよ。前に、雷鬼に会ったって言ってたでしょ。あのとき、手も足も出なかったんでしょう?今だってそれは変わらないわ。多少、霊力が出せるようになったからって、それだけで魔物を倒せるほど甘くはないわ。だから、私たちがサポートするって言ってるの。」

「雷鬼か…。」

 エンマは唇を噛んだ。確かに、あのときのことを思い出すと、いくら修行したとはいえ、まだまだ敵うような相手とは思えなかった。

 冷静になって考えてみると、今のエンマに足りないものはたくさんあった。その一つが、刀だ。刀も持たずに、魔物を斬ることは出来ない。

「それでも、今の俺に出来ることをやるしかねえ。」


 次の日、エンマは朝早くから刀鍛冶の躑躅の家を訪ねて行った。

「エンマだ。皐月はいるか。」

 小屋の中で、躑躅は鉄を打っていた。

「おお、またお前か。皐月なら、訓練所にいるぞ。皐月に刀のことを頼まれたけどなあ、あいつに勝てなければ作ってはやれん。まあ、せいぜい頑張りな。」

 躑躅がエンマの方を振り返ると、既にそこにはエンマの姿はなかった。

「やれやれ…。せっかちな餓鬼だな。」

 皐月の訓練所へ急いで向かったエンマは、皐月の姿を見つけると、大声で叫んだ。

「おい、皐月!また来たぞ。勝負しろ!」

「あら、こないだの。エンマ君と言ったわね。あれから上達したのかしら?」

 皐月は外の水場で顔を洗っていた。

「うるせえ。さっさと勝負だ。」

「はいはい。ちょっと待ってね。」

 ゆっくりとした動作で、皐月は手拭いで顔を拭いていた。

 それを、苛々した様子でエンマは見ていた。

「じゃ、始めましょうか。」

 訓練所の中へ入ると、皐月はにっこりと笑って、木刀を構えた。

「うりゃあ!」

 待ちかねたように、エンマが木刀を振り下ろしてきた。それをひょいとかわし、皐月は軽い一撃をエンマの胴にぽんと当てた。

「ちっ…!またこんな…。本気でやれ!」

「別に手を抜いているわけでもないけど、私が本気の力を出したら、大変なのよ。こう見えても、私、力持ちだから…。」

 ふふふ、と皐月は笑った。

「へっ、女の力なんかどーってことねえぜ。」

「そう?じゃ、受けてみる?」

 皐月は勢いよく木刀を振りかざして、エンマの面を狙ってきた。それをエンマは木刀で受け流そうとして、胴ががら空きになった所を、素早く力強い一撃を打ち込まれた。

「ぐあ!」

 とても女の力とは思えないほどの、重い一撃だった。思わずエンマは腹を押さえてよろけた。

「ほら、ね。だから言ったでしょ。私は力持ちだって。痛がる姿なんて、かわいそうで見ていられないわ。ごめんなさいね。」

 にこにこと微笑みながら、皐月は言った。

「謝ることはねえっ!今のを避ければよかっただけのことだ!本気のてめえを倒さなけりゃ、意味がねえんだ!」

 エンマは皐月をぎろりと睨んだ。

「相変わらずねえ…。」

 その後も皐月に挑んだが、悉く攻撃をかわされ、疲労と痛みが増していくだけだった。

「もう止めましょう。また後で戦ってあげるから。」

「くそ…。俺はどうしても、お前に勝って、刀を手に入れなきゃなんねえってのに…!」

「随分必死なのね。一体、何があったの?どうしてそんなに…。」

 エンマが死に物狂いの形相で立っている姿を見て、皐月は心配そうに聞いた。

「どうしても、刀が必要なんだ!魔物を斬り殺せる刀が!俺だって、故郷を奪った奴らを倒してえ!他の奴らに頼りたくねえんだ!」

 息を切らしながら、エンマは木刀を握り締めて、皐月に向かってきた。

「気持ちだけでは、どうにもならないわ。」

 皐月はエンマの木刀を受け止め、弾き飛ばした。エンマから離れた所に木刀が飛んでいって、がらがらと木刀の転がる音がした。

 悔しさに打ちのめされて、地面に手をついているエンマに、皐月は、一本の刀を渡した。

「まだあなたを認めることは出来ないけど、これを持っていきなさい。この刀は、私が昔使っていたの。大丈夫。錆び付いたりしてないわ。エンマが、あんまり一生懸命だから…。」

 ふふ、と皐月は微笑んだ。

「けど…。」

「意地を張らないの!今、絶対に必要なんでしょ。私に勝つことはいつだって出来るんだから。」

「…いいのか?ほんとに。」

 エンマは刀をしげしげと見て、戸惑ったように皐月を見た。

 白い鞘に納められたその刀は、柄の部分を青い柄巻きで巻かれていて、美しく立派な刀だったのだ。

「ええ。エンマにあげるわ。でもまたもっと強くなったら、また勝負しましょう。そして私に勝ったら、エンマにぴったりの立派な刀をお父さんに作ってもらいましょう。」

「恩に着るぜ、皐月。」

 エンマは刀を持って、笑って礼を言った。


 家に帰ると、フータが庭で鈴蘭と竜胆に何事かを話しかけていた。

「フータ。」

「あっ、兄貴。お帰り!今さ、こいつらと話してたんだ。」

「何を?」

「色々。蘭丸のこととか。蘭丸は蓮花とけっこんしたいんだって。けっこんって何だ?」

「うーん…。それはみぞれに聞いた方がいいんじゃねえか。」

「ふうん。兄貴も知らねえのか。」

「それよりフータ。俺はしばらく遠くに行くからな。また泣くんじゃねえぞ。」

「ええっ!?なんで?どこに行くんだよ!」

「俺の育った里が、魔物に奪われたんだ。だから、俺が取り返しに行く。」

「おいらも兄貴と一緒に、魔物をやっつけるよ!」

「だめだ。おめえはここにいろ。じゃねえと、俺が安心出来ねえ。フータが安全な所にいれば、俺は安心していられるんだ。」

「兄貴…。」

 フータの目から、涙がうるうると溢れ出してきた。

「泣くなっつったろ。なあに、すぐに戻って来るさ。」

 からっとしてそう言うと、エンマは旅支度を始めた。

 そして夜になり、皆が寝静まった頃に、エンマは蘭丸と共にこっそりと家を抜け出した。

 家の外では、蓮花が待っていた。

「来ると思ってたわ。…あら?エンマ、その刀は…。」

「ああ、もらったんだ。皐月に。」

「えっ、じゃあ、皐月さんに勝ったの?」

「勝ったわけじゃねえけど、あんまり俺がごねるから、面倒になったんだろう。」

 エンマは苦笑した。

「エンマ。皐月さんはそんな人じゃないぞ。必死なお前を見かねて、刀をくれたんだ。優しい人じゃないか。」

 蘭丸が言った。

「そうね。良かったじゃない。とにかく急ぎましょう。人に見つかる前に。」

 蓮花は伝視で辺りを窺いながら、慎重に歩を進めて行った。

 三人が門の所まで来ると、そこに二人の人影が見えた。

「赤鬼君。どこへ行くんだい。」

 闇の中から姿を現したのは、椿だった。

「椿!てめえ…なんで。楓まで。」

 そこには楓もいた。

「楓が言ったのさ。赤鬼君が地獄里へ向かおうとしてるってね。それは誰にも止められないってさ。だから僕も行くんだよ。赤鬼君が魔物にやられたら、からかう奴がいなくなってしまうからね。」

「あたしには、すこしだけ先の未来が分かる。エンマ、あんたは大丈夫だよ。あたしたちがついていればね。」

「お前ら…。」

 エンマは胸が熱くなってくるのを感じて、腰に下げた刀を強く握り締めた。

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