第2話

「で、どうだったの?」

 国子はそう尋ねて、卵焼きを口へ運んだ。Xデーの翌日、昼休憩が始まるや否や、国子は昼食を誘ってきた。理由は明白だった。

「それが……ね」

 二奈は力なく呟き、サンドイッチを食む。どう伝えていいのか分からず、しばらく考えたのち、結局正直に話した。


「は?……何も覚えてない?」

「気が付いたら、帰りのタクシーに乗ってた……」

 不安気に呟いたまま、二奈が沈黙したままでいると、驚いて固まってた国子の顔がゆっくりと解けていった。

「なるほどねぇ……幸せな時間は一瞬、気が付いたら終わってたか……儚いねぇ……」

「そうじゃなくて、ほんとに気づいたら――」

 サンドイッチが気管に入り、二奈は大きくむせる。

「ほらほら、落ち着いて。食べながら喋るから……」

 国子が差し出した水を飲み干して、二奈は首を振る。

「幸せだったからとかじゃなくて、ほんとに何も覚えないなんだって」

「あーはいはい。つまり真逆ってわけ。記憶から消したいくらい散々な結果だったと……」

 憐れむような表情を見せ、頷く国子に二奈はどうすれば伝わるのか、眉をしかめた。

「だから、今日はこんなに食べてるってわけね」

「へ?」

 二奈はそう言われて自分の周りを見てみる。サンドイッチが4つに菓子パンが3つ。コンビニのレジ袋の中にはまだ、おにぎりが4つほど入っている。

「これはちょっと、おなかすいてて……」

「分かるよ。やけ食いしたくなるよねぇ……でも太ったら中島氏に嫌われちゃうぞ」

「国子、お願い分かってよ……私は――」

「おい、菊池」

 落胆し、肩を落としていた二奈は背後から掛かった声に反射的に振り返った。部長の長谷川はせがわが片手にタバコを持って立っていた。喫煙所から出て来たところらしく、全身にヤニの臭いを纏っている。

 彼に名前を呼ばれるときは、怒られると相場が決まっている。二奈は落としていた肩をすくめ、申し訳なさそうに返事をした。

「菊池、こないだのプレゼン、評判良かったぞ。俺は正直、お前の事だから失敗すると踏んでたんだが……ちゃんとそゆとこ努力してるんだな。感心したよ。もう一個の企画書の方もまたプレゼンよろしくな」

 二奈は肩透かしを食らったように半笑いで頭を下げた。


「あんた、いつからプレゼンなんかするようになったの?」

 それは二奈自身が一番聞きたかった。男と一対一でもまともに話せない自分が、大勢を前にして流暢に喋れるわけがない。採用2年目に大きなプロジェクトをプレゼンの失敗で潰してしまって以降、もう二度と人前で喋るまいと誓ったはずだ。

「国子、私ほんとに何も覚えてない。プレゼンなんてした記憶がない……」

 茫然と呟くと、国子は笑った。

「何それ、中島氏とのデートと言い、あんた二重人格なんじゃないの?」

「ま、まさか……」

 冗談交じりの国子に、二奈も冗談で返したが、その言葉は妙に引っかかった。

 思い返せば、ここ最近思い当たる節がある。隼人との食事やプレゼンだけではない。ふとした時、前後の記憶が繋がっていない瞬間が少なからずあった。

 それは数分や数十分のほんの些細な時もあれば、数時間、気が付くと夜だったことも何度かある。しかし、絶え間なく流れていく煩雑な日常を仔細に記憶できる人がいないように、二奈は途切れ途切れの記憶を無意識のうちに繋げ、納得していた。


 帰宅した二奈は服も脱がずにベッドへ横になった。部屋に置いた姿見をじっと見つめる。

 そこには確かに自分が映っている。おもむろに身を起こし、まじまじとその姿を見つめても、特に変わったところはない。

 この中に、自分とは違うもう一人の誰かがいるのだろうか。二奈は口元に付いた髪の毛を手で取り、考えた。

「そうだ……」

 そう呟き、二奈は本棚から一冊のノートを持ってきた。ページを一枚ちぎると、そこにマジックペンで文字を書き殴った。

『あなたは誰? 私の中にいるなら、答えて』

 書き終えた文章を二奈は目につくよう、姿見にテープで張り付けた。

 ベッドに横になったまま見えるその文章。あまりの馬鹿馬鹿しさに二奈は思わず剥がしたくなったが、その気持ちをじっとこらえるように寝返りを打って見ないようにした。

何もなければそれでいい。朝起きて、何も変わっていない貼り紙を見て、馬鹿だったと笑えばいい。


 翌朝、姿見の前に立った二奈は持っていたスマホを取り落とした。

『こんにちは。私はアナタの中の存在。気づいてくれて、嬉しいな』

紙に綺麗な字でそう書き記されてあった。

 二奈はそれを力任せにむしり取ると、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に突っ込んだ。

 一日、二奈は無心で仕事をした。国子との昼食も断り、休憩もほとんどとらなかった。

 定時を知らせるチャイムでハッとして、一息つく。石のように固くなった肩を大きく伸ばした二奈は――

 自宅の風呂場にいた。

 妙な声を上げ、全身を包むお湯の感覚にたじろぐ。帰宅した記憶はない。また、意識が飛んでいた。

 熱い湯船の中で身震いした二奈は、何も考えないようにして風呂から上がった。

 姿見には、また新たな貼り紙がしてあった。

『怖がらなくていい。私はアナタの人生をよりよくできる。全部、私に任せて』

「何、味方って……」

 二奈は持っていたドライヤーを固く握りしめ、勢いよく紙を剥ぎ取った。

「私の人生は私の物! もう2度と出てこないでッ!」

 怒鳴ると、途端に部屋がしんと静まり返る。鏡の中に映った自分の顔は青ざめていた。

「あんたに助けてなんか貰わなくても、私の人生は充実してる」

 翌朝、姿見には新たな貼り紙がしてあった。

『なら、試してみる?』

 二奈はそれをわざとらしく破り捨て、フッと鼻で笑った。脅しているつもりだろうが、それぐらい自分にもできる。二奈は思った。

 そもそも、二重人格であっても結局それは自分なのだ。二重人格に出来て、自分に出来ないわけがない。逆に考えれば、自分には潜在的にそういう力があるということだ。

 屁理屈のつもりだったが、妙に理にかなっている気がした。仕事も恋愛も、自分の中には今まで眠っていたすごい力がある。そう考えると、次第に自信が沸いてくる。

 しかし、そんな自信も、数時間後には瓦解寸前まで追い込まれていた。

「んー、菊池……つまりお前は何が言いたいんだ?」

 部長の長谷川が資料から顔を上げ、怪訝な顔を向けてきた。二奈は視線から逃げるように自分の資料に目を落とす。

「えぇっとですね……つまりその、グラフから見えてくる事実として……」

 耳の後ろに脂汗が浮き上がってくるのが自分でも分かる。

「どうした、菊池。こないだはすごいいプレゼンしてたじゃないか……」

 会議終わりに、部長が失望したように言葉をかけてきた。


 達成感のない徒労に、自販機前で項垂れていると、ぽんっと肩を叩かれた。

「よっ。お疲れって感じ?」

 国子だと思って振り返ってみると、紙コップを手に持った隼人だった。

「え、あっ……ああ……」

「ブラックだけど、だいじょぶか?」

 慌てる二奈に隼人は平然と紙コップに入ったコーヒーを手渡してくる。

「あ、ありがとう」

 砂糖がないと絶対無理、そんなこと言えるはずもなく二奈はコーヒーを口に運ぶ。

「こないだはありがとな」

「えっ?……ああ、食事の」

「色々聞いてもらって。俺、普段は聞き役なんだけどなぁ。なんか、菊池と話してたらつい喋っちゃって」

「そ、そうなんだ……でも、私も話聞くの好きだし」

 二奈はどうにか会話を合わせ、苦みをこらえて笑った。

「…………今日の夜空いてる?」

「……え?」

「菊池、なんか元気なさそうだし。今日は俺が聞く番だな。じゃ、6時半にエントランス集合で」

 自分のコーヒーを飲み干した隼人は紙コップを潰し、ゴミ箱に入れて去って行く。

「えっ、ちょ、まっ……」

 待って、と言いかけてグッと二奈は堪えた。会議は散々だったが、デートぐらいなら出来る。願望だった。せめてそうありたいと思う気持ちが、二奈を奮い立たせた。

 しかし、やっぱり駄目だった――

 結局、その夜も隼人とは満足な会話は何一つ出来ず、二奈は帰路に就いた。いつの間にか意識が途切れればいいと思っている自分がいることに、余計憂鬱になった。

 そんな思いを汲み取ったように、翌朝起きると、姿見にメッセージが書かれてあった。

『分かったでしょ? アナタは無能すぎる。私に任せて。アナタの人生を上手く回してあげるから』



つづく




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