鳥籠《カフェス》に響くは囚人の歌

悠井すみれ

楽師は語る

 帝王宮殿サライ・ヒュマーユーンの壮麗を、私ほどに知る者はおりますまい。


 ええ、皇帝スルタン大宰相サドラザムも、後宮ハレムにお住まいの母后ヴァリデ・スルタンお妃カドゥンがたも、皆、同じです。どなたも、ご自身が浴する贅と豪奢の神髄をご存知でないのです。


 なぜなら、皆様は目で見たものだけがすべてだと思っておいでなのですから。


 仰る通り、この両目は確かに開いております。

 この私、卑しい楽師が申すのは、嘘偽りかでまかせか、と──疑い怪しむ貴方様のかんばせが、はっきりと映っております。


 ですが、ご存知でしょうか、至福の門バーブサーデを通って後宮ハレムに入る男は、誰もが目隠しをしなければならぬのです。


 なぜならお妃カドゥンから愛妾イクバル女奴隷ジャーリエに至るまで、後宮ハレムの女人はすべて皇帝スルタンの財産、所有物なのですから。盗み見などすれば、密通にも相当する大罪になりましょう。


 何度となく私の目を封じた天鵞絨ベルベットの感触を、今もありありと覚えております。目蓋に触れる、夜のとばりさながらの漆黒と柔らかさ。金糸銀糸の刺繍は、少しちくちくとし肌を刺して。

 目隠しをして、黒人宦官に腕を取られて歩む私は、傍目には満天の星空を仮面にしたように見えたでしょう。天鵞絨ベルベットには、金銀の刺繍に加えて細かな宝石や真珠まで散りばめられていたのです。

 もとより、ただの楽師に、宝石の輝きが相応しいはずもないのですが。ただ、後宮ハレムに出入りする者がみすぼらしいなりでは具合が悪いということなのでしょう。


 ただの楽師ではない、と──光栄なお言葉でございます。そうですね、過剰な謙遜は皇帝スルタンへの不敬にもなりましょう。

 確かに私は一定の価値を認められた存在ではありました。見目良く機知に富んだ宦官のように。クリームカイマクのような白く滑らかな肌に蜂蜜色の髪の女奴隷ジャーリエのように。


 あるいは、海や砂漠を越えて献上された奴隷たちの価値をいっそう高めるためにこそ、私は宮殿サライ後宮ハレムに足を踏み入れることを許されたのです。

 歌舞音曲に優れた奴隷は珍重されるもの。私の声が紡ぐ歌、この指が奏でる調べを学びたい、学ばせたいと考える方がいらっしゃったということです。


 優れた音を生み出すためには、むろん、優れた耳を持っていなければなりませぬ。そして、武人でいらっしゃる貴方様には計り知れぬことかもしれませんが、音は耳だけで聞くものではございません。肌や呼吸を通して感じ取るものでもあるのです。

 宮殿サライの壮麗を、私は誰よりもよく、そしてのだと、先ほど申し上げたのはそういうことでございます。


 薄絹だけが奏でる衣擦れの音はどこまでも滑らかで春風の囁きさながらでした。それでいて、異国の鳥が鳴き交わす声が耳に入れば、南国の密林に紛れ込んだ心地でした。


 皇帝スルタン御成おなりに惜しげもなくばら撒かれる混ざりもののない金貨、敷き詰められたタイルに跳ねて奏でる音色の、なんと澄んで柔らかなこと!

 

 お妃カドゥンがたや宦官たち、女奴隷ジャーリエたちやが囁く言葉の訛りも色々で、彼ら彼女らの出自の多様さを語ります。それはすなわち皇帝スルタンの威光があまねく照らす領土の広さの表れとも言えましょう。


 目に鮮やかな幾何学模様アラベスクのタイルやモザイク、金泥きんでいで描かれた聖句の額、色とりどりのガラスから虹が降り注ぐ円蓋ドーム──そのようなものを見ずとも、あるいは見ないからこそ、耳と肌で感じる宮殿サライはいっそう輝かしかったのです。


 そして、何より私の胸を騒がせたのは、弦楽器ウードを教えた女人たちのたおやかさと香り高さでした。

 手探りで弦を抑える位置を伝え、手を重ねて楽器の丸い胴の支え方を示すのです。触れ合う指先の滑らかさには心震えましたし、鼻先に漂う麝香じゃこうの香りほどに私を酔わせた美酒はありません。

 弾き語りを教えた時に頬をくすぐった吐息も甘くて熱くて、調子を狂わせないようにするのにたいへん苦労したものです。けれど、あの甘美を知ったからこそ私の声にもいっそうの艶が増したようにも思います。教えることによって教わるということもあるのでしょうね。


 そうだ、せっかくですから一曲歌ってみましょうか。

 この弦楽器ウード、これはまさに後宮ハレムに持ち込んだものです。皇帝スルタンに侍ったかもしれない女人の手が触れた楽器なのですよ。聞いてみたいとは思われませんか?


 話をはぐらかそうとなどしておりません。昔の話を聞かせろと命じたのは、ほかならぬ貴方様ではありませんか?

 私は楽師。歌を生業なりわいにするものです。語れと言われて語れるのは、己の芸と技のことだけです。ほかに何を求められているのでしょうか。

 隠しごとなどございません。目が塞がれていたのですから、語れることも限られるのは当然のこと。あえて伏せたり捻じ曲げたりといったことはございません。


 やましいこともございません。決して、何も。昔のこととはいえ、宮殿サライからいらっしゃった御方に言えないことなどございません。いったい何をお疑いなのでしょうか。


 もしや、後宮ハレムにて疑いを持たれたお妃カドゥンや御子がいらっしゃるとか? ですが、誓って、私には何のかかわりもないことです。


 私は、彼女たちの顔も名前も、肌の色さえ知らぬままなのですから。知っているのは、声と香りと手指の滑らかさだけ。身体の柔らかさは──そう、まったく知らぬ振りをするというわけにも参りませんが。それでも教えるのにやむを得ず触れ合ったというだけのことです。


 いいえ、後宮ハレムで私が教えたのは女人だけでした。宦官や、あるいは畏れ多くも皇帝スルタンも、密かに私の楽の音を聞いてくださったのかもしれませんが。

 何しろ目を塞がれておりましたので、息を潜めて声を殺していたのすべてを把握することなどはできません。紙に記しての秘密のやり取りも、それでは難しいとお分かりでしょうに。


 鳥籠カフェス──ええ、存じております。


 帝位争いを避けるため男の皇族がたを幽閉する──言ってしまえば牢獄のことでしょう? ごくわずかな宦官のほかには会う者もなく、常に監視されて。高貴な血を引く方々だというのに、酷く痛ましいことです。

 皇帝スルタンの即位にあたって幼い弟君を処刑する、かつての倣いよりはいくらか慈悲深いとは存じますが、それもどれだけ信じて良いのやら。


 果ての見えない幽閉生活の中、心身に異常を来たして、鳥籠カフェスを出て羽ばたくことなく朽ちる御方も多いと聞きます。それが絶望のゆえか、あるいは密かに盛られた毒のせいなのか、誰が知るというのでしょう。

 鳥籠カフェスから出る順番、すなわち帝位に就く順番は、年齢によってだけ決められるとか。ならば年若い方にとっては年長の方々はさぞ目障りなのではないでしょうか。


 このていどのことは、下々もまことしやかに語るものでございます。ご存知でしょうか、高貴な方々の恐ろしい噂はたいへん好まれるものですから。


 後宮ハレムにおいても、耳を澄ませる必要もございませんでした。何しろ鳥籠カフェスは庭園に面して建てられていたのですから。むろん、私が見ることはできなかったのですが。女奴隷ジャーリエが様子を窺う声は、自然と聞こえてきたものです。


 なぜ私にそのようなことを問われるか分かりかねます。私は時おり後宮ハレムに招かれただけのもの。秘され閉ざされたあの空間で、何が普通で何がそうでないかなど、区別がつくはずもございません。


 ただ、鳥籠カフェスについて印象に残っていることと言えば──やはりあの声、でしょうか。成人した男性の、つまりは幽閉されて長い皇子の御声ということなのでしょうが。


 山も川も花も鳥も、愛の喜びも恋の悩みも戦いの興奮も。何も知らぬはずのあの御方の声は、けれど何もかもを描くことができるかのようでした。

 限りなく澄んでのびやかで、抑揚に富んで。肉体は囚われながら、心はどこまでも自由であるかのように。

 私の歌を、おそらくは聞き覚えてくださったと思うのですが。果ての知れぬ囚われの日々の無聊を慰めるために、戯れに真似てみたのでしょうが。


 それだけで、あんなにも見事な歌を紡げるだなんて。女奴隷ジャーリエに教えながら、私は密かにあの声に聞き惚れてさえいたのです。

 できることなら、あの御方に教えたい、と──思わなかったと言えば、嘘になります。鳥籠カフェスから出て外の世界を知ったら、あの声はどのような歌を紡ぐのだろう、とも。閉じ込められた宝玉を救い出して、世にその輝きを見せつけることができたなら──


 ですが、決して叶わぬことです。その御方ももう生きてはいらっしゃらないでしょう。

 新しく立たれた皇帝スルタンはお若いとのこと。そして歌をお好みとの噂は聞こえませぬ。ならばあの御方の弟君だろうと思うのですが。


 貴方様が遣わされたのは、鳥籠カフェスで朽ち果てた兄君のことを、もしや偲びたいとの御心なのでしょうか。だから私を探してくださった?


 それとも。貴方様のお疑いはなのでしょうか。ほかならぬこの私が、あの御方を鳥籠カフェスから逃がしたてまつった、とでも?

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