第十六章 帰路
東京駅で少し買い物をして、正午発ののぞみ三十五号に乗車した。
海側の指定席が取れたので、町田さんに窓側を譲って景色を愛でてもらおう。
動き出すとさっそく、乗車前に買った幕の内弁当をふたりとも食べ始めた。
最近は趣向を凝らしたご当地弁当が数多くあるが、駅弁と言えばやはり幕の内。ふたを開けた時の折り箱と白ごはんの混ざった香りが大好きだ。
食べ終わり、車内販売のコーヒーを飲みながら町田さんと楽しい会話の時間。
閉鎖空間であり周りは知らない人ばかりなので、ふたりの話しを聞かれてもぜんぜん気にならない。
感覚は一時間ほどしか経っていないのに『間もなく京都』のアナウンス。楽しい時間はあっと言う間だ。
万が一、汐音とみのりちゃんが乗ってきた場合に備えて、町田さんも私もサングラスをかける。
かえって目立つがこれしか偽装アイテムがないので仕方ない。
停車して車窓からホームを窺うが、彼女たちらしい姿は見えなかった。
十六両もあるから、もし同じ列車に乗ったとしても車両が一致することはまずないだろう。
いつ動き出したのかわからないくらい静かにのぞみは京都を出発した。
京都からこの車両に乗ってきた客は三人。いずれも男性でそれぞれ離れた席に落ち着いたようだ。
「やっぱり取り越し苦労だったわね。結局あのふたりに振り回さっれぱなしの三日間だったわ」
そう言いながら町田さんがサングラスを外した。
「そうですね。私たちのことなんか頭の片隅にもなく、今頃は難波かどこかでたこ焼きでも食べているんですよ、きっと」
「そうねきっと。わたしもそう思います。でも今度は本当にゆっくりと旅がしたいな。
わたし、秋の山陰に行ってみたいの。
ずい分むかしにね、三十歳になった記念に仲の良かった同級生の女の子たちと、広島から島根県まで車で女子旅をしたことがあるんです。
ちょうど紅葉の季節で、それはもう燃えるように色づいた山がずーっと続いているの。
あんな圧倒的な紅い光景を体験したのはあの時かぎりで、それ以前も以降も見たことがないわ。
だからいつかもう一度、あの紅く燃える山陰の山々を見に行ってみたいと思っているんです」
遠くを見ている町田さんの目には、京都―大阪間の車窓風景ではなく、三十歳の頃にみた中国山地の紅葉連山が見えているのだろう。
「じゃあいつか、紅葉の季節に四人で中国路を旅してみましょうか。ちょっと大きめのレンタカーを借りて」
「ほんとにっ⁉ 行ってみたいわ! きっとみのりも汐音ちゃんも喜ぶはずよ」
本気で嬉しそうな満面の笑顔を見せる町田さんが眩しい。
なんなら町田さんとふたり旅でもいいが、それはまあ、そんな機会がいつかくれば私も本気で喜ばしい。
京都を過ぎて緊張が弛緩したせいか、大阪に着く頃には意識がなくなっていた。
一瞬目が覚めて町田さんを見ると、彼女もこっくりこっくりと、のぞみ揺り籠の心地よい震動に身を任せておやすみモードに入りつつある。
車内がざわついてきたのに気付き、薄く目を開けてみると数人の乗客が自分の席を探しているところである。広島に着いたようだ。
後ろの方からも何組かの乗客が、同じように席を探す気配を感じる。
私たちの座っている位置は車内の後方で、ここより後ろにはもう四、五列ほどしかない。
しばらくして列車が動きだし、車内が落ち着いてきたようなので、改めて揺れにまかせて寝ようとした。
三十分ほどウトウトしていたが、次第に目が覚めてくる。町田さんはまだ熟睡中のようだ。
ワゴンサービスが通りかかればコーヒーを買うことにして、もう少し目を閉じたままシートに沈んでおこう。
目まぐるしくも至福の三日間を思い返してみた。
汐音から渡された行程表を元に追跡開始、旅先での町田さんとの遭遇、私と町田さんで娘たちふたりを警護、予定外の町田さんとのデートと帰路の新幹線でのふたり鉄旅……。
すべては思いつきの東京おっかけ旅を実行に移したことから始まった。
子どもの頃から通知表に『計画性がない子』と書かれ、それを充分に自覚し実践してきた私だが、今回はその無計画な性格が幸福を呼び込んだのだろうか。
実は昨日の夜、寝入り端あたりから私の愚脳に、ぼんやりとあるシナリオが形を成してきている。
私の今度の旅は完全な突発的出たとこ行動から始まったが、実のところ、このおっかけ旅全体が汐音とみのりちゃんによる、緻密に練られた計画に基づいて進行しているのではないか、と思えてきたのだ。
まだ短い共同生活期間だが、私の性格や反応を汐音は知り尽くしているであろうから、娘の初めてのお泊り旅行を、心配性の私が家にひとりでじっと待っていられるはずがない、と予想するのは容易いはずだ。
出発ギリギリに行く先を細かく記したスケジュールを渡せば、それは私に付いて来るよう促しているのも同然だし、実際そう思い実行した。
町田さんにしても、みのりちゃんから言葉巧みに後を追ってくるよう仕向けられた可能性は大きい。
そう言えば、昨日の朝の汐音からかかってきた電話。
宿泊を一日延ばす旨を話した後、切りがけに『今日はゆっくり楽しんでいいよ』と言ったのが頭に引っ掛かったのをいま思い出した。
『今日も~』ではなく『今日は~』と言ったのがどこか思わせぶりである。
一日中、汐音たちを追っかけた前日の忙しさから解放されて、今日は私たちふたりで存分に東京観光を楽しんでね、と言っているように今は思える。
そう考えると今朝の電話の『はい。じゃあそっちも素敵な一日をね』の『そっち』も、私と町田さんふたりに向けてのメッセージだよ、という意味合いに取れる。
偶然と必然と成り行きの結果、私と町田さんがそれぞれの娘を追いかけてやってきた旅先でばったり出会い、長時間ふたりで過ごすシチュエーションを作って、互いに好意が深まるように仕組んだオペレーションだったのではないか。
汐音がやってきて以来、なにかと付き合いが多くなった町田家。
それぞれの家の娘たちが、いずれも今は独身の親同士を結び付けたいと願う気持ちは理解できる。
それに双方の親同士も、微妙な恋愛ゲームを楽しんでいる節がある。
あくまで私の仮説だが、状況証拠は揃っている。
もしその通りなら、私に関して娘たちの立てた作戦は大成功だったと言えよう。
この三日間で町田さんのことが更に好きになり、とても大切な存在となったのを否定できない。
町田さんはどうだろう。同じように感じてくれていたら私も、それから多分、娘たちも万々歳だ。
ただ私の経験では、こちらが思っているほど相手の女性の恋愛感情は盛り上がっていない場合が多い。
目を開けて町田さんを見ると、まだこっちに聞こえる程度の寝息をたてて眠っている。このまま降りるまで寝続ける勢いだ。
この寝顔が毎日、となりで見られるといいなあと思う。
しばらくすると車内販売の声が前方から聞えてきた。動いて町田さんをおこさないよう、静かにポケットを探って小銭を取り出し、ワゴンが横に来たので呼び止めてコーヒーを注文する。
テイクアウト用コーヒーカップの、白いキャップの小さな飲み口から熱いコーヒーを飲むのが下手で、かならず口内に液体が入り過ぎて火傷をしてしまう。
こぼさないように注意してキャップを外し、直接カップに口をつけて飲むようにした。
ネコ舌なので二度三度と少量ずつコーヒーを啜っていると、すぐ後ろの座席からの話し声が耳に入ってきた。
目が覚めてしばらく前から聞えてはいたが、特に気を向けることもなかった。
「ね、この辺って確か必見ポイントのひとつがあるところじゃない。ダムかなんかがあるとかって書いてあった……」
「アツヒガシ? コトウって読むのか。ダムじゃなくて水門だよ」
「すいもん? いま電光掲示板に『新山口通過中』って出てたからもうすぐだよ」
「そう。4つ書いてくれているけど、行きも帰りもぜんぜん見なかったもんね。ひとつくらいチェックしとかないと」
「みのりちゃん、窓から見えたら教えてね」
えっ⁉ あのふたりじゃん! やばい、すぐ後ろの席に座っている……。身体全体が凝固してしまった。
私たちがすぐ前の席に座っているのを知っていて、わざわざ後ろの席を取ったのだろうか。
私がこの指定席を買ったのは東京駅で、乗車する二十分くらい前だ。
彼女たちが乗車したのは多分広島。途中下車をしながらだから、指定席はその都度購入しているはず。恐らく全くの偶然なのであろう。
で、どうする。このまま知らないフリをしてやり過ごすか、お道化て事の顛末を白状するか。
町田さんはどうする。目を覚まさせて状況を身振り手振りで知らせる、もしくはこのまま熟睡させておく。
急に脳の活動が活発になり、汗がじわっと噴出してきた。焦って判断を誤るとまずいので、しばらくこのまま何もせずに考えよう。
「あ」
「どうしたの、みのりちゃん」
「いまあったみたい」
「え、何が?」
「水門よ」
「えー、何で教えてくれなかったの」
「だって一瞬だったもん。あっという間もなかった」
「でも『あ』って言ったじゃない」
「いや言ったけど、通り過ぎた後だったよ。想像してたのと違ったから、通過して気がついたの」
「どんなだった? 巨大構造物だった?」
「いや、なんて言うか…… コンパクトでかわいかった」
「かわいかった? ふ~ん…… 見たかったなあ」
「またいつか通りかかったら見ればいいよ。きっとがっかりするから」
私がお薦めした必見スポットの『山陽本線厚東駅付近の一瞬見える水門』、あまりインパクトはなかったらしい。
「もうすぐ着くね。そろそろ用意しないと」
「ほんとに降りるの? もうこのまま帰らない?」
「せっかく来たんだから食べて帰ろうよ、焼うどん。今度いつみのりちゃんと来られるかわからないじゃない」
「そうだけど、大阪でたこ焼き、広島でお好み焼きを食べたんだよ。この上焼うどんまで……。全部同じ系統で飽きない?」
「でも京都は京風ラーメンだったよ」
なんだこの娘たちは。観光って言うから一応は名所旧跡も訪ねたのかと思ったら、各地のご当地グルメ食べ専か。
小倉に近づくにつれ彼女たちの動きが慌ただしくなってきたので、やはり降車して焼うどんを食べに行くのだろう。
いま午後五時前だから、汐音の言っていたとおり帰宅は九時過ぎくらいか。
駅に差し掛かり、のぞみがホームに入っていく。
汐音が近い側の後ろのドアに歩き出そうとした時、通路に置いていた彼女のキャリーケースが制動の勢いで前方へ転がり始めた。
「あれれれれ、待ってぇ~」とケースの後を追って汐音も走り出す。
付近の乗客が何ごとかと見守る中、汐音は加速しながらケースを追いかけ、前側ドアの近くでやっとケースの取っ手を掴まえた。
みのりちゃんも仕方なく遠い方の前側ドアへ、自分のキャリーを引いてゆっくりと歩いて行った。
汐音のそそっかしさのお陰で、彼女たちが私と町田さんに気付いた様子はない。
笑うのを必死に堪え、なにげなく町田さんを見ると、目をまん丸にしてみのりちゃんの背中を目で追っていた。
「あの子たち……」
「目が覚めました? そうなんです。乗っていたんです、この車両に」
「どこから乗ってきたの? どこに座ってたのかしら」
「広島から乗車したみたいですよ。座っていたのは私たちのすぐ後ろです」
「気づいたんじゃない、私たちに」
「私は二十分くらい前に彼女たちと判ったんです。もちろん姿を見たわけじゃなく、聞えてきた会話の内容で。
話しを聞いた限りでは、私たちには全然気がついていないようです」
「そうですか。それなら良かった」
と言って町田さんはシートに深く座り直した。
「で、なんで降りていったの、あの子たち」
「焼うどんを食べるんだそうです。
今日は一日、ご当地グルメを食べ歩いていたみたいですよ。小倉が〆じゃないのかな。
詳しく聞きたいですか、彼女たちが何を食べたか」
「いえ、いいわ。みのりと話していて、わたしが知らないはずのことをポロっと言っちゃうとまずいから」
それはそうだ。私も気をつけないと何気ない会話の中で、思わず尻尾を出してしまう危険性がある。
やっとホームタウンに帰り着いた。怒涛の三日間だったがこれほど楽しい旅は初めてである。
「夕食はどうします? 食べて帰りますか?」
「うーん、三日間も家を空けていたから、早く帰って生活感を出しておかないとみのりに怪しまれそう。だからごはんは家で食べます」
「そうですね。うちも冷蔵庫の中とか三日前と同じだと不審がられる。それにペットホテルにも寄らなきゃならないし、夕食を食べている時間はお互いないですよね」
「でも、打ち上げで軽く一杯だけ呑む時間くらいならあるんじゃない?」
なんと町田さんからのお誘いだ。こんなチャンスを断る選択肢はない。据え膳食わぬは男の恥だ!
駅ビルの地下街にある角打ちバーに入り、私はウイスキーの水割り、町田さんはコークハイをオーダーした。
呑む間、三日間のアリバイの口裏合わせをする。そして、改めて娘たちもさそって呑み会をしようということになった。その時に山陰旅行の計画を町田さんが何気なく思いつくことにする。
私が推理した娘たちの陰謀説だが、今はまだ町田さんには言わないでおこう。
まだ仮説の段階だし、町田さんが気づいていないなら、それはそのまま知らない方がいいかもしれない。
それぞれのグラスが干されたので、店を出て軽く手を振りそれぞれの家への帰路に就いた。
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