第2話

 閣下に買われてしまったリディは、閣下の傍にいた部下のような青年に馬車に入れられてしまった。すぐに馬車の扉から逃げ出そうとしたリディの前に、閣下が立った。


「ひっ」


 リディは後ずさりをし、結局自ら馬車の中の奥深くに入ってしまう。すると、なぜか閣下までもが馬車に乗り込んだ。


「出せ」


 閣下が座って指示をすると、馬車が動き出す。


 リディは閣下が座る反対側の椅子の隅っこに座り、少しでも閣下から離れようと、馬車の壁にぴたっとくっ付いて身を縮こませた。


 さすが閣下の馬車だからか、一般的な馬車より揺れは少ないし、椅子の座り心地はいい。でも空気が悪い。ずっと閣下がリディを見ている。


 堂々とした威圧感のある閣下の視線と、リディが嫌いな『お化け』がずっとこちらを見ている。とうとうリディは、恐怖により声を出さずに静かに泣き出した。泣き声をあげれば、きっと殴られる。


「何故泣く?」


 心底不思議そうな顔をした閣下が言った。


「……泣いてない」

「じゃあ、目から出ているそれは何だ」

「よだれ」

「お前の目は口か」


 煩い煩い! 目からよだれが出る特技が、たった今できたのだ。


「お前の名前は?」

「……リディ」

「年齢は?」

「十二歳」

「分かりやすい嘘を吐くな。本当はいくつなんだ?」

「十二歳だもん」


 ちょっと前に死ぬまで十二歳だったのだから、今も十二歳でいいはずだ。たとえ生き返った体が五歳だったとしても。


「十二歳のわけあるか。良くて四歳くらいだろう」

「失礼な! 私がそんな赤ちゃんなわけないでしょ!」

「目から盛大によだれを垂らしているやつが、十二歳のわけがないだろう」


 うぐぐ、とリディは息がつまり、急いで目から出る涙……ではなく、よだれを拭く。


「私もお化けがいないなら、よだれなんか出ない!」

「……俺の横にいるコイツが見えるか」

「あたりまえでしょ! 早くそれ、どっかにやってよ! 私、お化け嫌いなの!」


 じーっとリディを見ていた閣下が口を開いた。


「ヴァルバス」


 閣下が声を出した途端、閣下の顔の横にいた、もやもやとした黒い塊がすーっと消えた。


 ヴァルバスとは何かの呪文だろうか。やはり消えたということは、お化けに違いない。もし、今度お化けを見ることがあれば、『ヴァルバス』と言ってみよう。もしかしたら、『消えろ』という意味の呪文かもしれない。


 お化けが消えて、少しだけほっとしたリディは、リディをいまだじーっと見る閣下を見て口を開いた。


「……私は何をすればいいの?」

「……何?」

「私を買ったということは、私に何かしてほしい仕事があるってことでしょ。もしかして、誰か怪我をしていたりする? 神聖力を使って、治療してほしいとか?」


 私が神聖力が使えると、ギーが言った後に買われたのだから、神聖力を使った仕事をさせたいのだろうとリディは思っていた。


 神聖力は一般的には怪我や病気の治療に使われることが大半だ。神聖力を使えるほとんどの者は、神殿所属になることが多いが、ごく一部に金持ち専属になる人もいる。だから、リディもそういう仕事のために買われたのだろう、と思ったのだが。


「神聖力の出番はないな」

「……? え、でも……」


 ガタン、と馬車が大きく揺れた。いつのまにか、帝都にあった家々が消え、あたりは岩があるだけの赤暗い土地を走っていた。今日は新月とはいえ、この不気味な赤みのある暗さは、何なのだろう。


「えっと……ところで、この馬車はどこに向かっているの?」

「ラヴァルディ領だ」

「……え!? 東北の魔窟の大地!?」

「そうだ」

「や、やだー! そんなに遠いところ! やっと帝都に出てきたばかりだったのに! 私はいかない!」

「心配するな。あと十分もすれば到着する」

「……え?」


 そんな馬鹿な。帝都から東北の魔窟の大地ラヴァルディ領までは、馬車なら四十日以上かかるはずだ。列車でも五日程かかるはずなのに。


 何かがおかしい。馬車の窓にへばり付き、赤暗い外をよく見ようと目を細める。やはり岩があるだけに見える。……いや、遠くに何かが蠢いている。その存在が何たるかに気づいて、リディは窓から飛びのいた。


「みぁあぁぁ! 魔獣!」


 リディは椅子から下りて、閣下の足にしがみ付いた。何でこんなところに魔獣がいるんだ。帝都ではあまり魔獣は出没しないはずで、……いや、ここは帝都ではないのかも、あと十分でラヴァルディ領に着くとかなんとか、……いや、それこそおかしい話で。


 色々と理解不能で、リディは恐怖に震えながらぐるぐると思考を巡らせる。すでに閣下にしがみ付いているのも忘れ、魔獣を倒せるものが何かないか、自分が持っているものを考えつつ、今日は新月だったことを思い出す。


 リディには、最終手段というものを持っているが、今日は運悪く新月で、その最終手段との繋がりが弱まってしまっている。どうしようもない。


 どこか、隠れるところはないか、辺りを見回すと、閣下と目が合ってはっとした。そういえば、リディがしがみ付いているものは閣下の足だった。


 そもそも、なぜリディは、こんな心許ない馬車で魔獣がウロウロとしている場所にいるんだ。そこまで考えて、リディははっとした。パッと閣下の足から離れ、再び前の椅子の上に乗り、少しでも閣下から離れようと、馬車の壁にへばり付いた。


「人でなしー!」

「はぁ?」

「私を魔獣のエサにする気なんだ! 私ちっこいから! こーんな、こーんなちっこいから!」


 リディは閣下に、自身の親指と人差し指を近づけてみせた。


「こーんなちっこい私を魔獣のエサにしても、魔獣はお腹いっぱいにならないから! エサにするだけ、無駄だと思うの! 魔獣もすぐにお腹空いた! って言うと思う!」

「その指と指の間は小さすぎないか?」

「魔獣からすれば、これくらいちっこいって言いたいだけ!」

「四歳だからか?」

「そんなに赤ちゃんじゃないってば!」


 ガタン、と馬車が再び大きく揺れた。とうとう魔獣のエサにされるのかと、ばっと窓の外を見たリディは、きょとんとした。

 赤暗い魔獣がいた場所から一転して、帝都とは少し違った雰囲気の街と建物が横を通り過ぎていく。


「ラヴァルディ領だ」

「え、ラヴァルディ領!?」


 街の中は、夜の遅い時間ではあるものの、そこそこの人が行き交っていた。

 街を走り抜け、建物が少なくなってくると、林のような森のような場所を通り過ぎていく。そして、頑丈で豪華な門の前で馬車は一度立ち止まった。


 門が開くと、再び馬車が走り出す。そして馬車は、開けた場所に出た。まっすぐに走り、最後に丸みを帯びた地面を沿うようにぐるりと走ると、ゆっくりと馬車は止まった。


 馬車の扉が外から開けられる。閣下が先に降り、リディも一緒に馬車から降りようとして、目の前の光景に驚き、口をあんぐりと開けた。


 そこには、広い敷地と落ち着いた雰囲気を持つ、豪華で大きい屋敷が立っていた。


 驚きすぎて、馬車から降りずに屋敷を眺めていたリディの背中の服を閣下が握った。


「うぇ!?」


 閣下はリディの服を握ったまま、馬車からリディを降ろしてリディを運びつつ歩きだした。あまり伸びない服は、布がリディの全体重を支えている。閣下が歩くのに合わせて、四肢をぶらぶらとさせるしかないが、リディは首が苦しい。服で首が絞まり、息がしにくくて顔を歪めていると、近づく男がいた。


「兄上! 小さい子を、そういう風に持ち上げたら苦しいですよ」


 小走りで走ってきた男、いや青年をリディは見覚えがあった。帝都で閣下の傍にいて、閣下とこそこそ話をしていた青年だ。閣下より若く、閣下より優しそうに見える。


 閣下からリディを受け取り、青年は子供を抱き上げるようにリディを抱っこする。


「魔獣や魔物ではないんですから、このように抱き上げてあげてください」

「……」


 閣下は不機嫌そうな顔をしたが、踵を返して屋敷へ向かう。


「ブリス、今日はその子供はもう寝かせておくように」

「承知しました」


 リディは自分が今どういう状況にいるのか分からず、疑問だらけの顔で遠ざかっていく閣下を見るのだった。

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