第22話




「ポッピーもってきたんだ」

群くんがメッセンジャーバッグから出したのはプレッツェルの細長いビスケット生地にチョコがかかっている定番のお菓子だった。深川が目を輝かせた。

夏の湿気は不快だったが、汗をかいてしまえばいっそ気にならなくなった。幸いなことにコンクリートは冷たく、ひんやりとしていたので三人で腰を落ち着けた。

「群さま~」

深川はよほど嬉しかったのか、王様から貴重な物を賜るときの兵士のように、ポッピーの小袋を両手で押し頂いていた。チョコレートは疲労のたまった体を癒してくれる。まったりした甘さが口の中に広がって、緊張していた肩や足の力がふっと抜けた。

「運動の後に甘いもの食べるのっていいよね。うち、両親は市販の菓子ってあまり好きじゃなくてさ」

と、群くんが言った。深川は心底同情する顔をした。


「おれのとこは、姉ちゃんがよく作ってる」

と、時生が言うと

「えっ、そうなの」

深川がこころなしか浮き足立って聞いてきた。何を考えているのか分からないような男でも、それなりに思春期なのだろうか。ただ、七戸や久留米たちのように、野生の猛獣のような食いつきではなかった。

「そうなんだ。二番目の姉ちゃんが好きでさ」

「何作るの」

「え? こないだは、プリン作ってたなあ」

「何プリン? カスタード? それと焼きプリン?」

「ああ……えっと、カスタードプリン? だったかな?」

「いいなあ」

深川はため息をついてうっとりと呟いた。それで時生は、深川が姉という存在ではなく単純にプリンに食いついているのだとやっと悟った。


そうだった、深川はこういうやつだった――。


群くんはチョコレートを食べ終わって言った。

「深川は本当に甘い物が好きなんだな」

「うーん、遺伝かなあ」

と、深川は言った。名残惜しそうに唇の端をぺろぺろなめていた。

「父さんが甘いの好きだったみたい」


時生は思わず尋ねた。

「みたいって……」

「うち、父親いないんだよねえ」

と、深川は何でもないような調子で言った。まるで、明日は水曜日なんだよねえ、とでも口にしたような雰囲気だった。群くんは困ったような表情をして黙っていた。それがいたたまれなくて時生は慎重に尋ねた。


「その……離婚とか?」

「あー、別れたとかじゃなくって最初っからいないの。他の人と結婚してたのに母さんと付き合ってて、おれが生まれて、そのまま入れ替わりみたいに死んじゃったらしいんだよね。すっごくチョコレートが好きだったみたいで、いっつも食べてたらしいから、その血がおれにも入ってんじゃないかなあ」


きかなきゃよかった、と時生は思った。複雑すぎる。沈黙や気まずさが怖かったから話を続けたというのに、余計に気まずい状況になってしまった。他人の微妙な状況というのは、ずいぶん心が疲労する。それも家庭的なものであれば特に。


「まー、社会的にみればろくなもんじゃないんだけど。母さんはすげー父さんのこと好きでさ。いい話しかしてくんないんだ」

深川はそう言って、何が楽しいのかにやりと笑った。

「ところで堤、それ、食わないの? いらないならくれよ」


時生は今になって、舌の上に残ったチョコレートの余韻が、ひどく甘ったるく感じられた。時生はおとなしく食べかけのポッピーの小袋を深川に渡した。何本かまだ残っていたけれど食べる気にはなれなかった。深川が太っていないのが不思議だ。

群くんが立ちあがった。

「続き、やろっか」

時生はほっとして頷いた。深川は急いでポッピーを頬に詰め込んでいた。


午後の練習は妙な集中力が出て、振付けをひととおりさらった。群くんは優しく丁寧だったけれど、手の角度のような細かいところはきちんとしていた。終わるころには時生も深川も、群くんが前に立っていなくても何とか最後まで踊れるようになっていた。


「群くんはすごいなあ」

と、ダウンをしながら時生は言った。

「え、何が……」

「だってさ、先生でもないのにこんなに教えるのうまいなんてすげーって」

「うんうん。堤くんもおれも今日一日で急成長? それってやっぱ群くんの教え方がうまいからだよ」

深川も、テディベアのような開脚をしながら同意した。

「ほめすぎだよ。それに、前通ってたスタジオの先生の真似をしてるだけだし」

「へえ、群くんスタジオに行ってたんだ」

と、深川が言った。そうか、深川は知らなかったんだ。

群くんは少し笑って、

「昔ね」

と言った。


「もう行かないの?」

と、深川が尋ねた。

事情を知らないのだから仕方ないのだが、本当に空気がよめない男だ。時生がいよいよ今日の天気の話をしようと思って口を開こうとしたその時、群くんが言った。


「今は部活があるからね。それで十分だよ」

群くんは悪戯っぽい顔をしていた。群くんのそんな顔を初めて見た時生は、ほんの少し息をのんだ。

「それに今は堤くんや深川くんをコーチするので、手いっぱいだしね」

「うわあ、それ言われると辛いなあ」

深川が頭を抱える真似をした。そして、

「ね、ていうかその深川くんていうの、そろそろやめない? むずむずする。呼び捨てでいじゃん」

と言って時生を見た。

「あれ? 二人とも下の名前なんだっけ」

知らずに言い出したのかと脱力する。

「時生だよ。時を生きるって書いてトキオ」


「おー、トキオカケルなんとかって映画に出てきそう。群くんは?」

「おれは、悠馬だよ。群悠馬」

「ユウってどう書くの」

と、深川がしつこく尋ねたので、群くんは地面に棒きれで《悠》と大きく書いた。

「三文字のわりに、地味に画数が多くて大変なんだ。深川は下の名前、何ていうの」

群くんが尋ねるまで、お互いの下の名前さえ知らなかったことに時生は初めて気付いた。

「七音。七つの音って書いて、ナ・オ・ト」

「へえ。音楽関係の由来なの?」

と、時生は尋ねて後悔した。複雑な家庭環境の話をさっき自分から尋ねて墓穴を掘り、気まずくなった前科をもう忘れていた。子供の名前の由来なんて、だいたいが家族や親戚のルーツや考え方に影響を受けるものだ。


冷や汗をかいている時生を、深川七音はじいっと見て、にんまり笑った。

「おれの母さん、ピアニストだったの」

「そうなのか。すごいね」

と、純粋な瞳で群くんが称賛した。


時生は何となく胸を撫でおろして、同時に群くんの衒(てら)いのない育ちの良さを感じた。

深川は時生の反応を楽しむように、

「父さんとのことがあってからやめちゃったんだけどね」

と続けた。


「今は家でピアノ教室してるよ。どう? 時生、習いに来る?」

「ええ!? おれっ? 無理無理。音楽なんて1学期の成績、10段階で2だったよ」


時生がそう言うと、群くんと深川は顔を見合わせた。

「に? 数字の?」


そして、空気のよめなさに定評のある男、深川は、ひどく気まずそうな顔をして言った。



「あー……なんか、ごめんな、辛いこときいちゃって……」



時生が複雑な思いになったのは言うまでもない。

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