第4話



時生が呼び出されたのは、何の因果か、また屋上だった。そして空も晴れている。

戸次先輩がいるのではないかとなんとなく思った。

勘違いとはいえ、前回は突然逃げ出して失礼な態度をとってしまった気がする。

もしも自分を呼び出したのが先輩なら、覚悟が決まるような気がした。


屋上の鍵は開いていた。

つまり、ダンス部の活動はここなのだろう。

放課後に鍵を預かって使える人物となると、やはり戸次先輩しかいないような気がした。


ドアを開けてそっと体をすべりこませると、屋上には重低音が響いていた。

ひらけた空間なのでこもってはいないが、ドアの近くまで十分に聞こえる。ドンドンと腹の底に響くようなドラムとベース、ラップやかけごえが英語で聞こえる。時生は行ったことがないが、イメージだけでいうとクラブミュージックというもののようだ。腹に響いてくる。


左側には灰色の大きな四角い金属箱がずらっと並んでいて、ちょうど影になるところに人が二人いた。二人? 果たし状、つまり決闘というものは、一対一の男の勝負なのではないか。


時生は物陰に隠れて様子をうかがうことにした。


二人は下こそ制服のズボンだったが上はTシャツだった。5月に入ったばかりとはいっても、太陽はじりじりと照りつけていた。ただ風が吹いているので体感温度はそれほど高くない。だけど、そんな中でも二人は遠目からみて分かるほど汗をかいていた。赤いTシャツのほうは戸次先輩にちがいなかった。あのうわぜだけでもずいぶんな特徴だ。もう一方の白いTシャツは誰だろう?


重低音のリズムにクラップの弾ける音が入り、曲調が変わった。英語の歌詞が軽快に流れる。

戸次先輩が先に動いた。

両腕を開くと、先輩の周りの空気が一気に色をもったような気がした。ビートのリズムに合わせて、足を踏み出す。腰から落ちるような低いステップ。一つ一つの動きは目で追えるくらいで複雑ではないはずなのに、バランスがよくて堂々としている。長い手足のために一つ一つの動きに迫力があって、見映えがいい。雄の大きな鳥が雌を獲得するために羽を広げ、闘いを挑むようだ。長い足が空中を蹴る。無駄な力がなく、腕が自然と上がってステップと相まってはリズムを確かなものにしていく。灰色のメタリックなスニーカーの靴底は蛍光色の派手なレモンイエローで、先輩が前に足を蹴り出すたびにそれが目を引く。どちらかというとチャラチャラしているものを忌避していたはずの時生だったけれど、不思議と先輩をカッコつけているとは想わなかった。孔雀や蝶が、自分をアピールするために鮮やかな色をまとうように、先輩はごく自然なもののように見えた。


白いシャツの人間は戸次先輩の前に腰を落とし、しゃがんで眺めているようだった。時生からは白シャツの後ろ姿しか見えない。焦げ茶色の髪と丸まった背中は、野良猫を思い起こさせる。

戸次先輩の動きがゆっくり止まった。右手を上げて、クイッと何度か指をおって白シャツを煽る。まるでケンカが始まるときのように、好戦的だ。時生は初めて、爽やかで優しい戸次先輩の、挑発的な表情を見た。心臓の辺りがぐっと熱をもつ。これから何が始まるのか、どんなことが起こるのか。もう自分が何のために屋上に来たのかも忘れていた。どうしてもこの続きが見たい。


白シャツが気だるそうに立ち上がった。猫背は相変わらずだ。戸次先輩の前に向かい合って立つ。白シャツはそこまで背が高くなかった。小柄というよりは細い。見るからに筋肉質な戸次先輩とは間反対だ。どうするのかと時生は自分の立場も忘れて白シャツのひょろっとした猫背を食い入るように見詰めた。


音楽はまだ鳴り止まない。歌声も更に熱をもったようだ。戸次先輩は息を整えながら、フェンスに背を向けて白シャツの身体を真っ直ぐに見詰めた。


白シャツの動きは素早く、しなやかだった。

「あれ……?」


時生は自分の目を疑った。


白シャツの立っている屋上の床が左右に移動したように見えた。

それがステップのせいだと気付くのに時間がかかった。

上半身が全く動いていないので、足元の床の方が動いているように感じたのだ。

白シャツの体がぐっとそり、地面についたかと思った途端、ばねのように起き上がる。

強靱な腹筋がないとできない芸当なのは時生にも分かった。


だが、白シャツはごく簡単に、まるで息をするように動いていた。

殴ったり蹴ったり、何かと戦うように手足を豪快に動かす戸次先輩とは対照的だ。

白シャツの動きは獲物を狙う虎のような、静かだが激しい動きだった。


手をパチンと叩く合図で、白シャツの腰がクッと止まる。

糸に吊られたマリオネットのように、体の一部分だけが反応する。

腕、腰、足、首、肩のそれぞれが、リズムにのってカクッと動く。

ロボットのように非人間的な動きが、情熱的なボーカルの声と合わさってぞくぞくする振動を起こしていく。白シャツは足を前後に開き、そのまま床に伏せた。


両足がどうにかなってしまったのではないかと思ったが、即座に跳ね上がって起き上がり、右腕を頭の周りを通るようにぐるりと一周させる。時間にして数秒のことだったが、時生の心臓を熱くさせるには2秒もあれば十分だった。


すごい。

すごい。

かっこいい。


気が付けば、時生は見いっていた。

戸次先輩が熊ならば、白シャツは虎のようだ。

しなやかで俊敏、音をたてずに忍び寄って、間合いに入ってからは豪快に喉元に食らいつく。


白シャツは一回転して静止した。

音楽はまだ鳴り続けている。

時生は自分の息づかいを聞いた。

心臓がばくばく動いて苦しいくらいだ。


これがダンスなのか?


時生が今まで思っていたものとはまるで違う。

ダンスなんて、着飾ったアイドルがカメラに指をさしたり手を振ったりして、ファンにサービスするようなものだとばかり思っていた。

だけど、今目の前で起こっているのはそんなものでは全くなかった。けして派手ではない。時生以外に観客さえもいない。汗臭く、泥臭いーー。

これはバトルだ。一対一の勝負なのだ。


戸次先輩はひゅうっと短く口笛を吹いて言った。

「やけに今日気合い入ってねぇ?」

白シャツはいつの間にか、猫背に戻っていた。

「気のせいじゃねえの」

そう話している声が少し耳に入ってくる。

二人の会話をもっと聞いていたくて、時生は息をひそめて耳をすませた。

しかし、いつまでたっても続きの会話は聞こえてこない。


あれ? おかしいな。


と、時生が思った瞬間、

「おい。のぞき見ヤロー」


ドスのきいた声が上から降ってきた。

「ひええぇぇぇっ!?」

「コソコソ隠れて見てんじゃねぇよ」

白シャツが目の前に立っていた。

猫っぽいと思ったが、猫は猫でも飼い猫じゃない。

野良猫だ。眼光が鋭くて今にも殴られそうな気がする。

とりあえず謝ろうと思って、時生が口を開く前に、

「あれ? 堤じゃんか」


戸次先輩に見つかってしまった。

いたたまれなくなって、時生はこころもち肩をすくめた。

小さな声でコンニチハと挨拶したが、風の音の方がまだはっきりしている。

時生は屋上の機械の陰にかくれるようにして戸次先輩を見上げた。

あんなにひどい態度をとってしまったというのに、先輩は嫌な顔をするどころか、

「どうしたんだ? こんなとこまできて」

と、優しく尋ねてくれる。


先輩の顔を見た途端、緊張感と安堵感と興奮と申し訳なさと、その他いろいろな感情が堰を切ったようにあふれてしまって、気が付けば時生の目からは涙が出ていた。

戸次先輩はにこやかだった表情を一変させて、ひどく焦っていた。

「えっ? 堤、どうした。どっか痛いのか。堤?」

「あーあ、泣かせた」

と、白シャツが言った。

「マヨ。からかうなよ」

と、困り切った顔で先輩が言う。マヨと呼ばれた白シャツは鼻で笑って髪をかきあげた。

汗が頬を伝って屋上の地面に落ちる。


「ま、勝負あったな。行くぞ、遼太郎」

と、白シャツは言って、屋上の扉へ歩いて行く。

「あ、ああ。ちょっと待ってくれ、マヨ。ごめんな堤。なんかーー大丈夫か?」

「ちが、ちがうんです」

と、時生は鼻をすすりながら言う。

戸次先輩は何も悪くなかった。ふがいないのは男らしさの対極にある自分自身だ。


「うん。こないだはおれが強引に入部してくれなんて言ったから、困らせて悪かったな。じゃあ、またな」

戸次先輩は慌てて白シャツを追いかけていった。

確かに白シャツの言うとおり、勝負はもうついている。

時生の完敗だ。

あんなものを見せられて、どうしてダンスを軟弱だといえるだろう。

果たし状を送ってきたのが誰なのか、時生は分かった気がした。

戸次先輩ではない。

きっとあの、マヨと呼ばれていた男だ。


時生は一人きりになった屋上で立ちつくした。

ぼうっとした頭でしばらく青い空を眺めていた。

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