43. 散歩

 翌日、トーストとハムエッグの簡単な朝食を食べたあと2人で散歩に出かけた。2月にしては暖かい朝だった。ルーシーは昨日より随分気分がよくなったようで、一つ一つの表情や声、動きが生き生きとして張りがあった。


 川沿いの木々に囲まれた遊歩道を歩いていると、70代くらいの老夫婦とすれ違った。手を繋いで、皺の寄った顔に穏やかな微笑みを浮かべながらゆっくり同じ歩幅で歩いている。そこでふと思った。もし歳を取ってもルーシーと一緒にこんな風にまったりと散歩をしていられたら幸せだろうと。


 この間まで恋愛にも恋の話なんかにも興味0で、誰かとの将来を思い浮かべることなんて想像もしていなかった。自分の本当の気持ちに気づいて初めてこれまで見えなかったものが見えてくる。知らなかった感情や感覚が次々と顔を出す。まるでまるきり別の人間になったかのように。


 隣を歩くルーシーは大きく腕を広げて深呼吸をした。


「朝の空気っていいわ、生き返った気分」


 ルーシーの瞳と短い栗色の巻き毛が朝の陽光に照らされて輝く。これを美しいと感じる私は一体どうしてしまったんだろうか。


「人って不思議ね。具合が悪い時は世の中の全部が嫌になったりするのに、こんな風に散歩しているとそんな感情は全部嘘だったみたいに忘れてしまう」


 ルーシーがしみじみと語る。


「全部嘘じゃない」


 私はつぶやいた。ルーシーがはっとしたように私を見る。私は立ち止まってルーシーを見る。


「全部本当よ。世の中はクソだし嫌なことばっか。人って狡いし汚い。だけど私はあなたが好き」


 ルーシーの瞳が大きく見開かれる。ランニングをしていた男性と肩がぶつかりそうになる。川のせせらぎが先ほどよりも大きく聞こえる。


「それって……愛の告白的な?」


 ルーシーが尋ねる。驚きと困惑の入り混じった声で。


「かもね」


 私は再び歩き出す。ルーシーも後から続く。


「今すぐに答えを出すことはできないけど……」


「だろうね」


 予想していた答えだった。当たり前のことながら傷ついてもいた。彼女は私を好きにならないかもしれない。だがそれでも構わない。


「何で私なの?」


 ルーシーが訊く。


「さあ」


「他にも素敵な人が沢山いるわ」


「それはどうかな」


 私は大きく息を吸い込んで続けた。


「別に今すぐどうこうなりたいっていうんじゃない。この気持ちにも昨日気づいたし、これからどうなるかとかどうしたいかなんて分からない。ただこの気持ちがここにあることを伝えなきゃって」


「そう……。だけど嬉しいわ、あなたのような人に想ってもらえるのは」


 ルーシーが微笑み私はまた口を開く。


「あなたが少しずつでも立ち直って、周りを見渡した時に他に素敵な人がいなかったら……」


「あなたを私の恋人にすればいい?」


 悪戯っぽく笑いながら小首を傾げるルーシーの声も表情も、私に向けられているというだけで妙に緊張する。


「うん。だけどあなたは魅力的だから寄ってくる人も多いはず。立ち直る頃には私のことなんか視界に入ってなかったりして」


「何言ってるの? あなたこそ魅力的よ。もし……もしもよ? 私があなたに振り向いたりしたときに、あなたはとっくに私に興味を失って他の人を好きになってるかもしれない。そして私はもう一度泣くの、あなたを二度と振り向かせられないと知って」


「バーカ!」


 まるで行き場を無くした子供のように言い放ち、早足になって歩き出す。


「何よ、バカって!」


 ルーシーも後ろからムキになって言い返す。


「バカにバカって言って何が悪い!」


 振り向きざま彼女に向かってあっかんべーをして走り出した。こんなときボキャブラリーに乏しい自分が嫌になる。何で彼女は私が自分から離れていくだなんて考えるんだろう。私が伝えた気持ちが信じられないんだろうか。私は明日も明後日も100年後もルーシーを好きな自分しか見えないというのに。私の気持ちがどれだけ深くて強いかなんて好きの一言で伝えられるものじゃない。だけどせめてもっと素直に伝えられたらいいのに。心の中にある感情を全て言葉にすることは難しい。


 ルーシーが追いかけてくる。靴音と一緒に、待ってよという声が聞こえる。私は立ち止まる。ルーシーを見る。前屈みになり大きく息を切らせている。彼女が病み上がりだったことを思い出す。ごめんと一言謝ると、彼女は不思議そうに私を見つめた。


「バカって言ったこと?」


「走らせたこと」


「何よそれ」


 私とルーシーは道の途中にあるベンチに腰掛けて一休みした。視線の先を流れる河の向こうには灰色の四角い建物がひしめき合っている。


「ウミはどうなの?」


 おもむろにルーシーが尋ねる、


「どうって?」


 前方を見つめたまま問い返す。


「ウミはあなたが好きなんじゃない?」


「だからって私も好きになるとは限らない」


「それはそうだけど……。お似合いだなって思ってたのよね」


「好きって、コントローラーでキャラを選んで『はい、この人に決定!』みたいにはいかないじゃん?」


「確かに」


「歳の離れたバーコード頭のおっさんを好きになるかもしれないし、隣にいる友達のことが好きだったってある日突然気づくこともある」


「うん」


「誰を好きになるかなんて分からないんだよ。ウミといたらそりゃあ楽だろうけど、あなたに対しての感覚とは違う」


 ウミのことは友人として、一人の人として、またアーティストとしても尊敬しているし、一緒にいれば楽しい。好きか嫌いかで言ったらもちろん好きだ。だけどルーシーに感じる好きとは違う。痛みを伴う好きと、伴わない好き。この違いは、小さいようで大きい。


「あなたの気持ちと向き合えるまで、少しだけ待って」


 精一杯の優しさで私の気持ちに応えようとする友人の言葉に、揺るぎない返事を返す。


「待つよ、いつまでも」


  夕方家に帰ると、キッチンにいた母がこちらを見もせずに言った。


「あなたに贈り物が届いてるわよ、部屋に置いといた」


 2階の自室の床の上にはプレゼントの入っているらしい箱が大量に置いてあった。そういえば昨日はバレンタインだった。しかし今年に限って何でこんなにが多いんだろう。クレアやミアから来ているのは純粋な友チョコというやつだろう。だがパーティーで少し話しただけの相手や、面識のない芸能人からも届いているというのは不思議な話だ。

 

「ちゃんとお返ししなさいよ」


 声のした方に目をやると、相変わらず憮然とした様子の母が腕組みしながら開け放たれた部屋の入口に立っていた。


「へいへい」


 適当に答えながら、ふと手に取った緑色の包みに目を留める。送り人の名前はない。まさか爆弾とかじゃないよな。警戒しながら恐る恐る封を切ると、中には新発売のavant-gardeアヴァン・ギャルドのポータブルゲームプレイヤーが入っていた。一緒に小さな手紙も。


『チョコレートの代わりに、愛を込めて』


 そこでピンときた。これを送って来たのはウミに違いない。私の趣味のストライクゾーンを抉ってくる人間は彼女以外に考えられない。問題はこれが3万円相当の品だということ。このような高価なものをもらうのは流石に気が引ける。返そう。そう思いウミに電話をかける。


『もしもし?』


 何コールか鳴ったあとでウミの声が届く。街中にでもいるのか、何やら辺りはがやがやと騒がしい。


「avant-gardeのゲーム機くれたのってあなた?」


『よく分かったね』


「あんな高いの、申し訳ないから返すよ」


『いや、いい。いつもお世話になってるし』


 むしろお世話になっているのは私の方だ。もう一度口を開きかけたときウミが早口で話し出した。


『今MVの撮影でバーミンガムに来てるんだ。申し訳ないけどそろそろ切るね、また』


 一方的に通話の切られたスマートフォンを側に置き、どうしたものかと考えあぐねる。こんな高価なものを貰っておいてお返しがチョコ1枚では流石に申し訳ない。ウミならそれでもいいと言ってくれるかもしれないが甘えすぎてはいけない。彼女には日頃相談に乗ってもらったり家に泊めてもらったり、映画の挿入歌まで歌ってもらって申し訳ないくらいの世話になりようだ。何か良いお返しはないものか。


 考えても考えても良いアイデアは浮かばなかったため母に相談したら、「何かご当地グルメをあげたら?」とトンチンカンな答えが返ってきた。ウミは同じロンドンに住んでいると言ったら今度は「洗剤とかコーヒーの詰め合わせはどう?」などと言い出した。親戚同士で贈り合うお祝いの品と訳が違うのだ。母に相談するんじゃなかった。


 ウミの最新の曲、大人気アニメの主題歌にもなった"Mud Scientistマッド・サイエンティスト"を聴きながら連想した。ウミといえば音楽、音楽に必要な道具は何だろう? 最初に会った日ウミがDJブースでつけていたものーーそうだ、ヘッドフォンをプレゼントしよう。何て良いアイデアなんだろう、今日の私はいつになく冴えているぞ。


 今日は母が目を光らせているからもう外出は不可能なので、この謹慎期間が明けたら買い物をすることにした。

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