37. 事件
ルーシーと私は、最近できたばかりのサンドイッチが美味しいと評判のカフェに入った。私はサーモンとチーズの、ルーシーはチキンと野菜のサンドイッチをそれぞれ頼んだ。私たちの隣の窓際の席では、同じくらいの年齢の黒人の女性が2人楽しそうに話をしていた。店内はそれほど混んでおらず静かな時間が流れていく。
ルーシーと私はしばらく他愛のない会話を続けていた。ルーシーにあげた猫は実はミシェルの弟のベンが欲しがっていた猫で、もしもベンに飼われていたら『まっくろくろすけ』という名前になっていたであろうことを打ち明けると、ルーシーはいつものように大きな声で笑った。
ルーシーは笑うと大きな目が糸のように細まり口の端にえくぼが現れる。私を含め彼女のこの笑顔が好きな人は多いはずだ。
不意に私の目線の十数メートル先にあった入り口の扉が開き、一人の酔っぱらいらしき男性が大声で何かを捲し立てながら入ってきた。この時点で私は強い胸騒ぎがしていた。男は店内を見回し私の斜め前の席に座るショートヘアの黒人女性に目を止めた。男が足取り荒くこちらに歩いてきたときルーシーと私は顔を見合わせた。女性の目が驚きと恐怖に見開き、私は咄嗟に立ち上がった。男が女性の前までやってきて右手を挙げ、素早く振り下ろされた手のひらが女性の頬を殴る寸前で私は彼の腕を両手で摘んだ。男は大声で悪態を突きながら私の手を振り払おうとした。その瞬間バランスを崩した私は後ろ向きに倒れ後頭部がテーブルの角に打ちつけられた。
「リオ!!」
ルーシーが叫び駆け寄ってきて私の顔を覗き込む。視界が歪む。
何でよりにもよって角なんだ。痛いじゃないか。そしてこの酔っ払いは誰だ。女性の恋人か何かだろうか。何であんな酷いことをーー。
考えている途中意識が朦朧としてきて視界が真っ暗になる。ルーシーが何度も私の名前を呼ぶ。女性2人の取り乱した声が聞こえる。
ああ、死ぬのか。それとも『ミリオンダラー・ベイビー』のラストのヒロインみたいに、一生意識が戻らないままとか。あのラストは無かったな。途中までは面白かったのにラストで台無しになる映画というのはたまにある。
『ラストが面白い映画って稀だよな。いっそラストだけミュージカル調にしたらどうだ?』
チャドと打ち合わせをしていたときのタケオの声が蘇る。何でこんなときにタケオが出てくるんだ。まるで亡霊のようだ。タケオの亡霊……全然怖くないな。
そこで意識が途絶えた。
夢を見た。私はオムレット王国の姫になっていた。王子の名前はコルビー……のはずだがなぜか顔はケイシーだった。彼はオムレツがなくては生きていけない。ある日とうとうトマトの不作のために城にあったケチャップの在庫が底をつき、王子はケチャップがないと何も食べない、早く持ってこいと騒ぎ城は大混乱に陥った。ケチャップは超重要な調味料というだけでなく、近隣諸国との戦争の際にも役に立つらしい。
「隣国のトメイトゥー王国との貿易を再開できないか、直接あちらの国に赴いて掛け合うのはどうでしょうか」
私の進言にケイシー顔の王子は嬉しそうに頷いて言った。
「いい考えだ。じゃあ姫、行ってもらえるか?」
「つーかお前が行け」
そう反論したところで目が覚めた。
目覚めたとき私は病院のベッドの上にいた。医者によると幸い意識は2時間ほどで戻ったらしかった。両親は涙を流して交互に私を抱きしめた。ルーシーも泣いていた。自分がしたことを後悔はしていないけれど、その結果両親やルーシーに心配をかけたことが申し訳なかった。何よりルーシーが泣いている顔をもう見たくなかった。
脳出血も骨折も認められず明日には家に帰れると医者は言った。その言葉に安堵しつつ、先ほどのカフェでの衝撃的な場面を思い出し気分が悪くなった。次にふつふつと憤りが湧いてきた。ニコルに感じた怒りとは別のもっと激しい怒りだった。頭の血管が脈打つたび負傷した後頭部に鈍い痛みを感じたが、叩かれそうになった女性の胸の痛みよりずっとマシに思えた。
夜遅く警官が2人病室に入ってきて事件の状況を教えてくれと言ったので、起きたことを順繰りに話した。警察の話によるとあの男性と女性は面識がなく、私を跳ね飛ばした直後男性は逃亡し今も行方が分からないという。警察は傷害事件として男の身元を追っているが、ビンタに関しては無差別的な行動だったのではないかとのことだった。
「なんかしっくりこないな」
モヤモヤが治らずつぶやくと、「しっくりこないとは?」と50代くらいの丸顔の警官が尋ねた。あの酔っ払い男はまるで最初からあの黒人女性に標的を絞り、彼女を殴ろうと決めて歩いてきたように見えた。もし本当にあの男と女性が面識がなくて誰でもいいから殴りたかったのだとしたら、すぐ近くにいる客に手を出すんじゃないか。
「本当に無差別的な行為だったのかなって」
どうしてもひっかかっていた。私はこれまでスペインの血が流れているというだけで、謂れのない中傷を受けたり差別にあったことがあった。中学時代クラスで孤立していた際、人種差別的な言葉を投げかけてくる同級生もいた。だからもしもあの男が差別的意味合いであの黒人女性を殴ろうとしたのだとしたら、どうしても黙っているわけにはいかなかったのだ。
「犯人が逮捕されたら詳しく調べて行きますけどね。でもあなたが疑うような、深い意味はないと思いますけど」
30代くらいの白人の警官がへらへら笑いながら軽い調子で答え、年配の警官が「おい!」と険しい表情で嗜めた。警官のくせに真剣味のない態度に苛立ち思わず言い返した。
「てかさ、そんな軽いノリで警官やれんの? あんたなんかより、ミシェルんちの5歳のベンの方がよっぽど利口だわ。犯人が捕まったらそいつに会わせてよ。何であの女の人を殴ろうとしたか直接聞いてやるから」
引き合いに出したあとで、ベンに悪いことをしたなと後ろめたい気持ちになった。この軽薄そうな警官をベンと比べるくらいなら、いっそオムレット王国の王子と比べた方がまだ張り合いがある。
「それは私たちの役割です。あなたの精神的なショックを考えると、会うことはお勧めしません」
年輩警官が答える。私に寄り添っている風を装っているが、内心彼も面倒事は避けたいのだろうことが雰囲気で伝わってくる。
「私のショックなんかより、あの女の人のショックの方がでかいわ」
押し問答を繰り返すうち、若い警官がいかにも怠そうに欠伸をした。
「とりあえず、今は安静にしてた方がいいんじゃないですか? 素人があんまり首突っ込むとロクなことになりませんよ」
この駄目警官め。心の中で毒突きながら若い警官の顔を睨む。
「もう既にロクでもないことになってんのよ、それをどうにかすんのがあんたらの役割じゃない。欠伸してる暇なんかないんじゃない?」
若い警官はこれ以上付き合っていられないとでもいうかのように大きくため息を吐き、やれやれとつぶやいて病室を出て行った。年配警官も「すみませんね」と苦笑いしながら出ていく。この警官たちには何も期待できないと諦め身体をベッドに預ける。仰向けの姿勢は後頭部が痛むため横向きになり考える。
あの警官たちは何も分かっちゃいない。少しでも面倒事を避け自分たちが楽をすることばかりで、被害者の痛みを考えることなんか二の次だ。あのビンタ未遂男にどんな罰が課されるかより、男の動機の方が問題なのだ。この事件を単なる男の気まぐれによるものと片付けてしまっていいのか。そこに隠された闇を暴き出さない限りまた同じような、いや、もっと悲惨な事件が起こるばかりじゃないのか。悔しさ、もどかしさ、怒りーー。色んな感情がないまぜになって私は唇を噛み締めた。
警官たちが帰ったあと、無言でベッドに横たわる私にルーシーが声をかけた。自販機でスナックを買ってきてくれたらしい。私の好物のハバネロチップスの袋を指で摘んでひらひらと目の前にちらつかせた。起き上がって受け取り、袋の口をあけルーシーにも食べるように促した。2人のポテトチップスを噛み砕くバリバリという音だけが白い壁に囲まれた病室に響く。
「さっきのあなたたちのやりとり外で少し聞いてたけど、よくあんなんで警官やってられるわね」
ルーシーは呆れたみたいにため息をついた。
「本当。世の中って腐ってる」
酔っ払い男が突然近寄ってきたとき、あの女性の目が恐怖に見開かれたのを確かに見た。彼女の抱いた感情を考えると胸が痛む。あの女性だけじゃない。誰だってあちら側にーー差別される側に立つことはあり得るのだ。私だってルーシーだって、タケオやジョーダンやケイシーだって。
「私がご飯に誘わなければこんなことにならなかったのに。本当にごめんね」
ルーシーが悲しげに俯いた。
「あなたのせいじゃない。たまたま私たちの目の前であの事件が起きたってだけ。それに、あなたが私を誘ってなきゃあの女の人は殴られてた」
私は今にも泣き出しそうなルーシーの冷たい左手をそっと握る。一体、心が温かい人は手が冷たいと最初に言ったのは誰だったんだろう。その人の言うことは当たっている。
ルーシーは涙で滲んだ瞳で私を見つめた。
「私はあなたのような勇気ある行動はできなかった。怖くて身が竦んで何もできなくて……ただ見ていただけだった。いつもそうなのよ。誰かと一緒に陰口を言ったり虐めたりしない代わりに、嫌われることが怖くて注意もせずただ傍観してるだけ。臆病で役立たずの自分がつくづく嫌になったわ」
ルーシーの表情にはこれまで彼女がとってきた行動への後悔と自責の念が垣間見える。
「大体の人はそうだし、私だっていつもはそう」
これまでの人生で見過ごしてきた理不尽なことの数々が思い起こされて、苦い気持ちが湧き上がる。私は祖父のように特別に正義感が強いわけでも、身を挺して誰かを守るような勇気があるわけでもない。心の強さを持たない私に人が救えるはずがない、それはそのような使命を担った別の誰かの役割で、きっと私ではないのだとずっと思っていた。過去の私だってあの警官たちと同じだ。目の前の危険や痛みを引き起こすような物事を避けることで、理不尽な世の中と向き合うことから逃げたかったのかもしれない。だがあのときカフェでとった行動は本当に咄嗟で、逃げるという思考の介在する余地などなく不思議と恐怖は感じなかった。
「あのときのあなたは、すごくカッコ良かったわ」
スーパーガールのようなヒーローになるつもりなど一切なかったけれど、ルーシーにこんな風に誉めてもらえるのは素直に嬉しい。
ルーシーが帰ったあとぼんやりとベッドの中で白い壁を見つめながら思う。この世の中はこじれている。色とりどりの思惑や感情が渦巻いて、問題を解決するどころかどこまでもややこしくしている。そんな世界で一体何を頼りに生きれば良いのか。その問いかけに答えられるようになるのはきっともっと先だろう。
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