33. 異形

 次の日の午後、サウザンプトンから戻ってすぐウミ宅へ向かった。玄関ドアを開けたウミは笑顔で私を迎え、巨大な屋敷の地下にあるというゲーム部屋に案内した。私の家の1階部分よりも広々とした部屋の中はシックな黒で統一されていた。壁際の5段の棚にはゲームソフトがゲーム機の種類ごとに整然と並べられている。


 本棚の上に置かれたどこをどう開けるのか分からない長方形の透明なガラス張りのショーケースの中には、ゲームボーイやスーパーファミコンやドリームキャストといった今は懐かしいゲーム機が保管されている。


 革張りの黒いソファの前には黒いテーブルがありゲームステーションが置かれていて、奥の壁にはシアタールームに使うような120インチのプロジェクタースクリーンが掛けられている。


 他にも昔懐かしいインベーダーゲームや、UFOキャッチャー、スロットマシンなども置かれている。いい趣味してるねと言ったらウミは少し得意げに、全部知人から譲りうけたのだと教えてくれた。


 私たちはソファに腰掛け例の『グランド・テイル4』というRPGで、世界各地のゲーマーたちとオンライン対戦をしていた。ウミには素性をバラしていないゲーム仲間がたくさんいるらしく、そのうちイタリア人とトルコ人の2人の男性が私たちのパーティーに入った。彼らもウミも、プロのゲーマーといっても差し支えない腕前だった。


 かなり本気でプレイしているうちに時計は夕方の6時を回っていた。私はそれまで前のめりだった身体を大きく伸ばし欠伸を1つした。ウミはゲーム機の電源を切ると少し休憩しようかと言った。彼女は上の階からコーラと、皿にあけられた小さなチーズクラッカーを持ってきた。


「サウザンプトンって、タイタニックのとこでしょ?」


 横に腰掛けたウミがおもむろに尋ねた。


「そそ。観たことないけどね、タイタニック」


 私はソファの前のテーブルに置かれたチーズクラッカーを摘んで上方向に放ると、口を大きく開いてキャッチした。母の前でやると行儀が悪いと怒られるから、友達といるときによく披露している得意技だ。


「私は観たことある。船旅って憧れるな。現実を忘れて海の上を漂うとか、いつかやってみたいよ」


「一度出かけたらもう二度と戻ってきたくなくなりそう」


 サウザンプトンにいた時ですら、またこの街に戻ることが億劫に感じられた。非日常的な空間に慣れてしまうと、現実に戻ることを心が強く拒む。クルーズ旅行になど出かけたら尚更、一生船の上で暮らしたと感じるに違いない。


「私なら戻ってこない」


 そう言うウミの顔は笑っていたが、その声は本気じみていた。彼女はもう一生遊んで暮らせるほどのお金を手に入れたのだから、例え旅客船で異国に逃げたとしても生活に苦労はしないだろう。

 

 ウミは遠くを見て続けた。


「時々思うんだ。何もかも捨てて、私のことを誰も知らない場所に行けたらどんなに楽かって。有名になると、常に誰かに見張られてるみたいな緊張感があって心が休まらない。メディアは私の一挙手一投足を見逃すまいとあちこちで待ち構えてる。私に興味を持って近づいてくる人は沢山いても、本当に大切に思ってくれる人はいない。みんな野次馬根性なんだよ。私が本当はどんな人間で何を考えてるか、知ったらどん引きするくせにな」


 彼女の辛さは痛いくらいに理解できた。私もよくパパラッチに追いかけ回され、恋人や好きな人はいるのか、このドラマの演技について世間からは賛否両論あるがどう捉えているかなど散々訊かれた。さらには母の仕事のことや、父が経営しているホテルの経営状況について質問が及ぶことすらあった。何か下手なことを言おうものなら誇張され、捻じ曲げられた表現でネットや雑誌の記事として世の中に伝えられる。そんなことには心底疲弊していた。


「私も分かる。メディアって歪んだ報道の仕方をするもんね。人に見られて何か言われる立場って、心が休まらないよね」


「そうそう、名声とお金はいくらでも手に入るけど、その代償はすごく大きい。プロになると他の仕事があるとき以外、1日の大体の時間を曲作りに当てる。寝る時間もないし、時々あんまり忙しすぎて笑い方も忘れそうになる。プライバシーとか1人の時間だとか、前まで大事にしてきたものを全部失なった感じだよ


 ウミは大きくため息をついた。まるでこれまで胸の奥にしまっていた想いを吐き出しているみたいだった。


「皆は私のことをクールだとか寡黙だとか言うけれど、好きで黙ってるわけじゃない。マスコミの前で下手なことを言って揚げ足取りされて騒ぎ立てられたくないから、必要最低限の言葉しか発しないだけ。金や売名目的で近寄ってくる人もいるし、いちいち相手してたらキリがないし」


「超有名人のに群がってくる人は沢山いるでしょうね。だけど、中には純粋にあなたと仲良くなりたいって思ってくれてる人もいると思う。みんながそうだって決めつけずに、ときには相手を知ろうとすることも大切よ」


 友人のミシェルの顔が浮かぶ。名前こそ出さなかったものの、彼女がウミを純粋な気持ちで想っていたことは確かだ。殻にこもっているのだ、私もウミも。人と上手く関わることができず人を信じられない。むやみに傷つかないように誰も入ることのできない自分だけの世界を作り出して、エスカルゴのようにその殻の中に閉じこもろうとする。


「あなたの口からそんな言葉が出るなんて。何かあったの?」


 ウミがさも意外とでもいう風に尋ねる。


「別に何も。ただ思ったことを言っただけ。私もあなたの気持ちはよくわかる。嫌な人間はたくさんいる。だけど必ずしもそんな奴らばっかじゃない。気づいていないだけで、あなたを心から大切に想っている人は必ずいるはず」


「良い人だね、あなたは」


 ウミはふっと微笑んだ。


「そう? 結構嫌な奴よ。誰かに嫉妬もするし、頭に来て恨むことだってある」


 ケイシーの嫌味にはしょっちゅう頭に来るし、家に帰ると早くジョーダンが戻って来ますようにと祈りを捧げる。そんなとき私はつくづく嫌な人間だと思う。


「誰にでもあるよ、そんなの」


「嫉妬心のない人なんていないのかもね。現に私は、才能のあるあなたを羨ましいと思うもんね」


「私は逆にあなたが羨ましいけど」


 一瞬耳を疑った。彼女のような何でも持っているように見える人間が、私のようなポンコツに羨望の眼差しを向けるなどありえない。何かの間違いに違いない。


「今羨ましいって言った?」


「うん、言った」


「どの辺が? 顔? 顔なんだな? 言ってみ、ほら」


 突如として襲ってきた早口の質問攻めにウミは「うーんと……」とたじたじになった。


「まず、あなたは人を惹きつける不思議な魅力がある。言葉のチョイスだったり、人の話を聞く時の真っ直ぐな目だったり、身に纏うオーラっていうのかな? そういうものに……」


「うん、ありがとう。それで? まだある感じ? 小出しにしなくて良いんだよ。どーんと来い、どーんと」


 普段褒められ慣れていない私は、ウミから長所を指摘されるという状況だけでご飯が進みそうだ。ウミはゲームをしているとき以上に前のめりになる私に半ば引き気味になりながらも、真摯に答えてくれた。


「あと……何故だかあなたは見ているだけで面白い。動きや喋り方が独特だし。会った人は、あなたのことをもっと知りたいと感じると思う」


「サンキュー、ウミ。あなたは最高にクールだよ。才能もある上に人格も出来てる。そりゃモテるよね、うん」


 単純なことにウミに褒められて気を良くした私は、腕組みをして何度も頷いた。視線を感じて横を見ると、ウミが穴が開くのではないかと思うほどにじっと私を見つめていた。


「何? どうしたの? 怖いんだけど。そんな真顔で見ないで」


「いやなんか……何でもない」


 ウミはなぜか気まずそうに目を逸らしテレビの電源を点けた。そのときたまたま『ライトニング』の1話目の再放送をやっていた。


 オープニング前のプロローグーーミア演じる霊感少女レットが寝坊して大学の講義に遅刻しそうになり、そんなときに限って車もバッテリーが上がって運転ができず慌ててバス停に向かう。今走り出そうとしていたバスを追いかけて停めてもらい、運転手の中年女性に迷惑そうな顔をされながらバスに飛び乗るシーンだ。


 髪をポニーテールにしたレットの胸元には、同じ能力を持つ祖母から貰ったネックレスが光る。


 車内は満員のため、レットは吊り革に捕まりスマートフォンをバッグから出し時刻確認すると、それをしまって手の甲で額の汗を拭う。


 途中、国道を時速50kmで走るバスの前にスーツ姿の男性が飛び出してくる。


『危ない!』


 叫ぶレット、ぶつかる手前で消える男性の姿、レットに不審な目を向ける乗客たち。


ーーああ、またか。


 彼女は心の中でつぶやく。そんな場面をウミは興味深げに観ている。


「幽霊って信じる?」


 おもむろにウミが訊いた。


「いてもおかしくないよね」


 私は大きなテレビの液晶画面を見つめたまま答えた。


「あなたはそういうの信じないと思ってた」


「てゆうか、家族から聞いたことあるんだよね。そういう話」


「マジ?」


「うん」


 私は数年前に母から聞いた不思議な話をウミに打ち明けた。


 結婚前、母はアイルランドの田舎町に住んでいた。彼女は20代の頃車で15分ほどのところにある郵便局に勤めていたのだが、その途中舗装されていない細い道路を中年の男性が馬を引いて歩く姿をよく見かけていた。その馬はいつも背中に重そうな荷物を背負っていた。動物をこよなく愛する母はそんな馬の姿を不憫に思い、ちゃんとご飯はもらっているのだろうか、怪我などしなければ良いがなどと案じていたのだという。


 だがあるときからその馬の姿をピタリと見かけなくなった。どうしたのだろうと思いながらも、その馬の記憶は母の中で徐々に薄れていった。


 数年経ったある夜母は残業で帰りが遅くなり、眠気を必死に噛み殺しながら車を走らせていた。いつもの未舗装道路にさしかかったとき、その馬がいた。いや、正しくは、上半身だけの馬の霊とすれ違ったのだ。はっとして車を止めサイドミラーから背後を確認するも既に馬の姿は無く、ただ果てしない暗闇だけが広がっていた。


 私の話にじっと耳を傾けていたウミは静かに口を開いた。


「あなたのお母さんの馬を思いやる気持ちと馬の魂が共鳴して、霊を見せたのかもしれないね」


「私もそう思うんだよね」


 母は全く霊感の類はないし、自分が目にするまでは霊の存在など信じてはいなかったそうだ。だがあの上半身だけの馬の霊を見てからというもの、普段目には見えないものの存在について以前よりも意識するようになったという。


「子供の頃、よくそういうの見えてたんだ」


 ウミはさらりと言った。


 彼女の実家はウェールズにあった。近所には幽霊屋敷と呼ばれる大きな古い建物があって、子どもたちや若い男女がしょっちゅう肝試しに来ていた。ウミは見るからに邪気を放つ気味の悪い建物に自分から近づくことは決してなかったのだが、ある日弟と一緒にその建物に入らざるをえなくなった。弟は学校の友達数人と肝試しをしたときに、大切にしていたキーホルダーを落としたのだという。1人で行くのは怖いからついてきて一緒に探してほしいと懇願されたウミは、次の日の夕方弟と二人で幽霊屋敷に入った。

  

 建物の中は薄暗くあちこちに蜘蛛の巣がはっていて、足元にはガラスや木の破片が転がっていた。廊下は足を踏み出すたびに軋んだ。壁にはスプレーで下品な言葉や絵の落書きがされ、侵入した若い客たちに荒らされていることが一目で分かった。入口を入った先はホテルのロビーのようになっていて、その奥に回廊式の階段があった。


 幸いキーホルダーは長い階段を上がった先の客間のような部屋の入り口に落ちていた。部屋の中には埃をかぶった古いライティング机があり、悪戯をされたのかベッドやソファは破られて綿が飛び出し、大きな鏡台の鏡はまるでハンマーか何かで殴られたかのように蜘蛛の巣状にひびがはいっていた。


「早く帰ろう」


 ウミは弟に声をかけた。屋敷に入った時からずっと得体の知れない悪寒を感じていた。誰かに見られているような不気味な視線も。


 ウミの言葉に弟は頷いた。


 一階に戻ると入口の大きな扉の前で、幼い女の子の声で声をかけられた。振り向いても誰もいない。隣にいた弟に尋ねるも何も聞こえなかったと言う。扉に手をかけたとき、今度は先ほどよりもはっきりとこう聞こえた。


「遊ぼう」


 振り向くとそこに5歳くらいの少女が立っていた。アンティークな薄桃色のドレスを着てこちらに微笑みかけている。不思議と怖いとは感じなかった。


「あなたは誰?」


 尋ねると少女は答えた。


「私はシャロンよ」


「どうしてここにいるの?」


「それは秘密。ねぇ、隠れんぼをしましょう」


 少女に誘われた弟はすぐに了承した。


 弟は気づかない様子だったがウミは気づいていた。少女が既にこの世のものではないことに。本当はここで断って帰るべきだったのになぜそれをしなかったかというと、少女の笑顔がどこか寂しげに見えたからだ。シャロンが醸し出す空気に邪悪さは微塵もなく、むしろ澱みのない純粋な子どもの放つものと全く変わりなかった。


 3人はその屋敷の中で少しのあいだ隠れんぼをして遊んだ。ウミはその最中にも謎の悪寒と突き刺すような視線を四方八方から感じ続けていた。不穏な感覚は時間が経つごとに強くなっていき、最後には無数の視線に見張られているような圧倒的な恐怖に襲われた。弟はまだ遊んでいたいと言ったが遂にウミは耐えられなくなり、シャロンに帰ると告げた。 


 少女は玄関で2人を見送りながら言った。


「もう来ないほうがいいわ」


「どうして?」


 弟が尋ねると少女は一瞬口籠もったあとで答えた。


「みんながあなたたちを帰したくないって言ってるから」


 ウミと弟は逃げるようにして屋敷を出た。


 下手な怪談話より恐ろしい実話を聞いて全身に悪寒が走った。淡々としたウミの話し方が余計に恐怖心を煽った。


「こーわ、洒落になんないくらい怖いわ」


「それ以降あの屋敷の前は通らなくなった」

 

「だけど不思議ね。何でその女の子はその屋敷にいたのかな。ほかのモノたちも……」


「大人になってから知ったことなんだけど、どうやらあの屋敷では昔殺人事件が起きたらしい。大人たちが私たちにそのことを教えなかったのは、その事件があまりに惨たらしくて、子どもに聞かせられるような内容ではなかったからなんだと」


「よくそんな屋敷の近くに住んでられたよね。呪われそう」


「だよね。今思うとよくあんなところに住んでたなって思うよ」


「今でも見えるの? 幽霊」


 ウミは苦笑いで首を振った。


「子供の頃は見えたけど、高校生くらいから見えなくなった」


「人に見えないものが見えるってどんな感覚?」


「時々怖い。だけど嫌なことばかりじゃない。死んだペットの姿が私にだけ見えるのは嬉しかった」


「そっか」


「恋みたいなものだよ」


 突拍子もない台詞に驚いてウミの顔を見る。彼女の口からそのような台詞が出るのは意外だった。幻聴かと疑ったほどだ。


 ウミは目を細め前を向いたまま続けた。


「私が好きな寺山修司っていう人の詩の中にこんな言葉がある。恋は匂いもしない形もない、おばけみたいなものだって」


「素敵な言葉だね」


「うん」


 ウミの細められた目から温かな視線が送られていることに気づく。彼女は知っているのだろうか、私が知らないその感覚を。てっきり彼女は私も同じで誰かに恋をしたことなどないと思っていた。仲間だと思い込んでいた分、置いて行かれたみたいでほんの少し寂しい気がする。


「あなたの心の中にもお化けがいるの?」


 ふざけてわざと暗号めかした問いを投げかけてみた。ウミは頷くことも首を振ることもしない。ただ試すように私に問いかけた。


「いたとしたらどうする? 逃げる?」


 ウミの不可思議な台詞と意味深な目の輝きに一瞬返事に躊躇ってしまう。彼女の真意が全く読めない。


「どうかな」


 あまり深く考えずにはぐらかしたあと私は立ち上がった。


「そろそろ帰るわ。今日は楽しかった」


 ウミは一瞬寂しげな表情を浮かべたあと、いつものように優しく微笑んだ。


「うん、良かったらまた遊びにおいで」


  ウミの家を出て路肩に停めた車に乗り込みエンジンをかける。あの口ぶりからして彼女が誰かに恋をしているのは確かだ。彼女だって人間だから恋くらいするだろうから全く何の問題ないのだが、気になるのは彼女が発した「逃げる?」という台詞だ。何故彼女は私にあんなことを聞いたんだろう。彼女が誰かに恋をしていたとして、何故私が逃げなければいけないのか。


 考えていてもキリのないことだ。意味深ワード製造マシーンのウミを相手にするのは容易いことじゃない。シンガーソングライターの彼女は歌手であると同時に詩人でもあるのだ。その言葉にどんな意味があるのかは受け取り手の解釈に委ねられる。文学者でもない私にウミの言葉の真意など分かるはずもない。


 経験上、相手の言動を深読みをすればするほど友人関係というのは上手くいかなくなる。ウミとは面倒な関係にはなりたくない。こんな風に気が向いた時にどちらからともなく連絡を取り合って、ゲームや取り止めのない話をしていたい。


 アクセルを踏む。車が走り出す。うるさい思考を振り払うように大声で歌を歌った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る