27. ペドロ

 ペドロはパウロとセシルの暮らす小さな家の2階に間借りして暮らしていた。3人での生活はささやかではあったが笑いに満ちて幸せだった。セシルもパウロと同じくペドロのことを家族のように大切にした。いつも3人分の料理を作り、夫と親友の思い出話など他愛のない話を聴きながら食卓を囲むのが毎日の楽しみであった。


 パウロは生来の大らかな性格のためかどんなときでも穏やかで、ペドロとセシルは彼の冗談にいつも救われた。思いやり深いパウロは自虐こそすれ誰かをこき落としたり傷つけるような冗談は決して言わず、いつも気持ちの良い笑いを提供してくれた。


 セシルはパウロのお人好しで正義感の強いところを愛していたが、一方で不安を感じてもいた。彼が誰かのために批難を受けたり、危険に飛び込みかねないと思ったのだ。だがそんな懸念が浮かぶたび彼女は自らを諭し言い聞かせた。全て覚悟して一緒になったのだから、どんな困難に陥っても彼と共にあろうと。


 そんなある日パウロは親友に向かって言った。


「ペドロ、お前もそろそろいい人を見つけたらどうだ?」


 ペドロは照れたように頭を掻いた。


「いやぁ……オラみたいな奴を好きになるような女はいねぇ」


 彼の少年のようにつぶらな瞳には、長年の差別や偏見からもたらされたであろう諦めの色が宿っていた。


「そんなことは絶対にない。お前がいい奴だということは、俺が一番分かってる」


「だけど……オラはこの通りの馬鹿だ」


「お前は馬鹿なんかじゃない、得意なことと不得意なことがあるだけだ。俺はお前の良いところを沢山知ってる。同じようにお前の魅力を分かる人は必ずいる」


「パウロ、お前はいい奴だよ。オラはお前と友達で本当に幸せだ」


 ペデロの邪念のない表情を見ると、パウロは余計に彼に幸せになってほしいと強く思うのだった。


「よし、俺がお前に世界一良い嫁を探してやる!」


 意気込んで宣言したはいいが、ペドロの嫁探しはそう簡単にはいかなかった。パウロがペドロの嫁を探していると知るや否や、周りの人間たちは口々に好き勝手なことを言った。


「阿保のペドロに嫁などできるわけもない」


「私の娘をあんな奴のところに嫁がせるなんざ、死んでも嫌だ」


「パウロもパウロだ。いくら友達のためとはいえ、あの馬鹿に女など分不相応だと分からんのか」


 パウロはそんなことを言う人間たちを片っ端から非難した。


「お前たちの目はまるで曇り硝子のようだ。ペドロを不幸だと思うか? 俺は彼の良さを知らないお前たちの方がずっと不幸だと思うね。自分をまともだと思い込み、誰かの本質を知ろうともせずに勝手に馬鹿だ阿呆だとレッテルを貼って、輪から弾き出すことしか考えられない奴らの方がずっと哀れだ」


 ペドロの嫁探しは難航した。友人に誰か女性を紹介してくれと頼んでも、ペドロに知的障害があると知るや否や鼻で笑われ断られたり、たとえ女性とデートに漕ぎ着けてもペドロのほうが怖気付いて部屋から出てこない、もしくは直前に女性の方から理由もなくキャンセルされるなど、思うようには行かなかった。パウロは現実の厳しさと世の中の冷たさをまざまざと思い知った。


 だがペドロの嫁探しプロジェクトが開始された1年後、パウロがペドロに言ったことは現実になった。


 ペドロはある日1人の女性と出会った。


 その日の昼前、いつもパウロと交代で店番をしているセシルが電話を取っていて手が離せなかった。パウロもこの頃始めた配達の仕事で外に出ていてレジは無人。ペドロがたまたま厨房からパンを並べに表に出てきたところで、鈴の音と一緒にガラス戸が開きその女性が店に入ってきた。小柄で華奢なその女性はゆったりとした歩みで店内のパンを吟味し、不意に目が合うとペドロに向かって優しく微笑んだ。たんぽぽの綿毛のようにふんわりとした空気を纏った人だ。そうペドロは思った。


 彼女はマイペースにパンを一つ一つ見て回ったあと、食パン1斤とクロワッサンを1つトレイに乗せてレジに向かった。


「すみませんね。今、電話で、手が離せないみたいで」


 女性は栗色の長い髪をしていた。彼女は辿々しく話すペドロをさほど不自然だとも思っていないようだった。


「そうなのね、じゃあまた来るわ」


 女性が立ち去ろうとするのをペドロは慌てて引き止めた。下心というよりは単純に、せっかく店に来てくれたお客さんを帰してしまうことはいけないことだと思ったからだ。


「待って」


 ペドロは女性を引き止めたあとで、パウロから会話に困ったときには天気のことを話せと言われていたのを思い出し素直に実践した。


「良い天気ですね」


 外は雪が降っていたがペドロにとってそれは問題でなかった。彼の脳内にはパウロから教わったことが、全てマニュアルのようにインプットされていたのだ。


 女性は首を傾げペドロのことを不思議そうに見つめた。雪を良い天気だと解釈する人間も世の中にはいるのか。なるほど、世の中には面白い感性をした人がいるものだ。彼女はそんなことを思っていた。


 彼女は自分をカトレアと名乗った。カトレアは店のパンの味をことのほか気に入り、週に一度は必ず立ち寄るようになった。カトレアはかなりの天然だった。それが故かペドロとは波長がよく合った。ペドロは彼女と時折話すうちに段々と好意を抱くようになっていたが、彼女のような優しく素敵な女性が自分に振り向くはずが無いと思い、友人関係のような何とも名付けがない関係を続けていた。


 だがそのうち、カトレアがピタリと店に来なくなった。


 ペドロはカトレアを探した。たとえ叶わなくとも、彼女に想いだけでも伝えようと思ったのだ。


 ペドロはカトレアの似顔絵を描き、この女性を見なかったかと会う人会う人に訊いてまわった。だが多くの人はペドロの必死に描いた絵を笑ったり彼自身のことを馬鹿にするばかりで、真剣にとりあう者はほとんどいなかった。


 結局カトレアの住んでいる場所どころか、今生きてこの世に存在しているのかすら分からなかった。ペドロはそれでも諦めたくなかった。カトレアはペドロのことを1人の人間として扱ってくれた数少ない女性だった。彼女がどこにいようと探し出して、自分の気持ちと幸せな時間をくれた彼女への感謝を伝えたかった。


 そうこうしているうちに秋が過ぎて冬が来た。


 ある夜家にパウロの友人のチャドがやってきて、パウロとペドロをある店に誘った。チャドはこの店に友達が沢山いるのだと言った。


「未知の世界を見てみるのも楽しいぜ」


 チャドは意味深に笑った。パウロもペドロもその言葉の意味も、その店がどんな店かもよく分からないまま店内に足を踏み入れた。そこには確かに見慣れぬ光景が広がっていた。男性同士がキスをしたり、何人かのグループでテーブルを囲んで楽しげに話したりしていたのだ。


 チャドがパウロたちを誘った主な理由。それは酒を飲むためでは無かった。彼は信頼できる友人である彼らを自らの仲間の集う場所に連れていくことで、自分の性癖をカミングアウトしようとしたのだ。


「週に一度はここに来て、仲間たちと語らうのさ。楽しいぞ、同士がいるってのは」


 チャドは言った。イギリスでは1967年にイングランドとウェールズで同性愛が非犯罪化し、昔のように同性愛者を投獄したり性犯罪者として扱う風潮は柔らいだかに見えたが、それでもなお彼らへの差別や偏見というのは色濃く残っていた。


 パウロも男性同士で愛し合う人たちがいることは知っていた。最初は驚いたものの、友人であるチャドがそのような形の恋愛に向かって行くことに対して抵抗や嫌悪感は全く無かった。それは隣にいるペドロも同じであった。パウロとペドロは店内にいる客たちと分け隔てなく話した。元々2人とも偏見のない性質であった。また、異性愛者ではあるが移民である彼らは、社会の中の少数派であるという点で店にいる男性たちと共通する面があったのかもしれなかった。


 パウロとチャドがビールジョッキ片手に談笑している間、ペドロはふと店内を見回した。店の奥、L字型のソファに腰掛けて笑い合う5、6人のグループの中に、栗色の長い髪の女性が混じっているのが見えた。


ーーカトレアだった。


 ペドロは何故女性である彼女がこの店にいるのか最初よく理解できていなかった。友人と一緒に来たのだろうか程度に考えていたのだが、勇気を振り絞って彼女に話しかけに行ったとき、思いもよらぬ真実を知ることとなった。


「やあ」


 ペドロはカトレアに向かって笑顔で右手を挙げた。


 彼の姿を見たカトレアは幽霊でも見るかのように目を丸くした。この場所で再会するとは夢にも思っていなかったのだ。


「カート、彼はお前の友達か?」


 テーブルを囲んでいたグループのうち1人がカトレアに向かって尋ねた。カトレアは曖昧な頷きを返したあとで立ち上がり、ペドロの腕を引いて店の外へと連れ出して言った。


「そういうことなの」


 ペドロは目を丸くして、彼女の言葉の意味を必死に頭の中で理解しようと努めた。


「そういうことって?」


 訳が分からずペドロは尋ねた。カトレアは話しにくそうに視線を地面に這わせた後で、一度深呼吸をしてある事実を告げた。


「私は男なの」


 何とカトレアは女性ではなくて男性だったのだ。彼女の本名はカートといった。平日は男性の格好をして銀行の仕事をしていたが、休日や夜はこうして女性の格好をして仲間たちとこの場所に出入りしていた。


 まるで声変わりをしていないかのような高い声で華奢で小柄な体つきのため、ペドロだけでなくセシルやパウロですらそのことに気づかなかった。


 身体は男性だが女性の心を持つカトレアに対して、多くの人は冷たい目を向けた。だが彼女にとって自分を本当の女性のように扱い、優しく接してくれるペドロは紳士だった。彼女もペドロに好意を持っていたものの、自分の秘密を知られては嫌われるに違いないと思い気持ちを伝えることが出来なかったのだ。


 もし彼が自分の秘密を知ったら離れていくに違いない。悲観した彼女はペドロのことを忘れるためにパン屋に通うことをやめた。


 ペドロは彼女の告白を静かに聞いた後で、柔らかな笑みを浮かべて言った。


「だけど、君は君だ。そのまんまの君が、オラは好きだ」


 ペドロとカトレアはパン屋の近くのアパートの部屋を借りて、2人で仲睦まじく暮らすようになった。パウロとセシルは最初カトレアが男性だと聞かされて驚いたものの、すぐに理解を示して2人の幸せを願うことに決めた。


 ペドロはカトレアの誕生日には彼女の年の数の薔薇の花束を渡した。カトレアも極度の偏食のペドロの身体を案じ、毎日バランスの良い食事を作った。2人はどんな恋人同士よりも強い絆を育み深く愛し合っている。パウロにはそう思えた。


 だが世間の彼らに対する視線は厳しかった。嫌がらせの電話や、部屋のドアに落書きをされることもあった。2人が歩いていると近所の子どもたちから心無い言葉を投げつけられ、生卵や石が飛んでくることさえもあった。遂に2人は住んでいたアパートも追い出された。

 

 パウロとセシルは何とか彼らを守ろうと、ペドロとカトレアを自分たちの家に一緒に住まわせ、朝パン屋に向かう際は被害が降りかからないようにペドロを徹底的にガードした。


 何故何も知らない人間たちが、何も悪いことをしていない、誰にも迷惑をかけずただひっそりと暮らしているだけの2人を邪魔し攻撃するのか。パウロには不思議でならなかった。


 ペドロはある夜買い物に行くためにいつもの道を1人歩いていたら、5人ほどの男たちにゲイだと詰られ暴行を受けた。取り囲まれ拳で何発も殴られた挙句アスファルトに横たわるペドロの鳩尾や背中、手脚に容赦なく男たちの爪先が食い込んだ。


「オラはゲイじゃない、カトレアは女だ!! 世界中のどの女性より素晴らしい人だ!!」


 ペドロは全身傷だらけになりながら大声で叫んだ。


 そこに警察官がやってきて男たちに注意をしペドロは解放されたが、心無い人間たちによって身も心も深く傷つけられたペドロは絶望した。


 肋骨と腕の骨を折って入院したペドロをパウロが見舞ったとき、ペドロは憔悴し切っていた。


「オラたちは普通の人とは違う。オラはこの通りの阿呆だし、カトレアだって……。カトレアは女だ。それなのに皆彼女の身体が男だってだけで、オカマとか化け物と呼んだりする。自分が馬鹿にされるのはいいけど、カトレアが傷つくのを見るのは嫌だ……。なぁパウロ、オラたちは幸せになったらいけないんだろうか? 普通じゃないことは不幸なことなんだろうか?」


 パウロの前でペドロはそう言って咽び泣いた。周囲からの容赦無い残酷な仕打ちに悲嘆に暮れる友人の姿を見て、パウロは胸が痛んだ。何もできない自分が情けなくもどかしかった。


「何もおかしくなんてないさ。お前たちに時代が追いついてないだけだ。愛し合っているお前たちを傷つける奴らこそ大馬鹿者だ。誰だって幸せになれる。俺がそれを証明してやる」


 パウロは親友の肩を抱き、力強くそう言った。

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