6. 地獄から逃げろ

  3階の通路の突き当たり、左側にある広い図書室のような部屋にミシェルの姿を見つけた。普段本など読まない彼女が何故ここにいるのかと訝しんでいると、彼女はすぐにその答えを提示した。


「ここ最高よ、私が好きな漫画が全部揃ってんの」


 見渡してみるとその部屋の本棚には小説や哲学書、実用書、写真集、画集などがそれぞれ棚ごとに分けて整然と並べられており、半分の棚を漫画が占めていた。ミシェルは日本の『ゴルゴ13』という眉毛の太い殺し屋の中年男性の出てくる漫画にハマっているらしく、夢中で立ち読みしている。こうやって漫画の世界に没頭するのも悪くないかもしれない。さっきニコルに言われた胸糞悪い渾名を一刻も早く忘れたいし。


 そういえば、この間ルーシーが『ガラスの仮面』という漫画をお薦めしていたっけ。思い出して探してみると、ゴルゴの並ぶ棚の向かいの棚の一番上の段にあった。早速1巻を手に取って読んでみると、ルーシーが熱心に推薦するだけあってなかなか面白い。その漫画には北島マヤという天才的な演劇の才能を持つ女の子と、彼女とライバルの姫川亜弓という、映画監督とスター女優のサラブレッドであるお嬢様が出てくる。


 私の周りの人間に照らし合わせてみると、北島マヤがミシェルで、姫川亜弓はクレアだ。何故ミシェルを女優のマヤに喩えたかというと、目の前のミシェルは元々演技未経験のモデルだったにも関わらず、一躍して若き天才と呼ばれるほどの女優になったからだ。彼女は去年16歳で『草笛』という映画に初主演した。その映画はエリザベス・ミュラーという20歳の作家の小説が原作となった青春群像劇で、ミシェルは15歳の若さで病気でこの世を去るクロエ役を演じたのだが、そのときの演技が高く評価されアカデミー賞の最優秀新人賞を受賞した。


 一方のクレアは超有名舞台監督の父と舞台女優の母親を両親に持ち、幼い頃はフランスの旅劇団で活躍していたが、その才能が認められ、10歳のときに『マチルダ』というパリの大劇場で開催されたミュージカルに主演し、たちまち天才子役と呼ばれることになった。芝居だけでなく歌も踊りも完璧にこなす彼女は、これまでにフランス国内の舞台関係の栄誉ある賞をいくつも受賞している。イギリスに活動拠点を移した今も大人気ドラマに主演し、舞台のみならず映画のオファーも大量に来ているとの噂で、正に破竹の勢いで世界的女優へと躍進を遂げている。


 私をこの漫画の中の何かに喩えたとしても、速水真澄の持つ紫の薔薇の一輪にすらなれないに違いない。


「ねぇ、ウミってどこにいるの? 一度も会ってないんだけど」


 私の問いかけに、ミシェルは夢中で読んでいた漫画から顔を上げた。


「私も会ってないわ、主役がいないんじゃね。てか、せっかくだからこの家の中探索してみない?」


 私より2歳年下のミシェルは悪戯っぽい笑顔を浮かべ、私をこの城のように巨大な建物の探検に誘った。


 本を元の場所に戻したあと2人で広い廊下に出ると、学校の教室と同じくらいの広さの洋間を一つ一つ見てまわった。ほとんどの部屋が客間になっていて、天蓋付きのベッドや高そうなテーブル、椅子、鏡台などが備え付けられている。ベッドに腰を下ろしたり寝転んだりして使い心地を試したあとさして他に興味を惹かれるものがないと分かると、ミシェルと私は部屋を出て2階へ続く階段を下りて行った。だが2階のほとんどの部屋に人がいて、中には盛り上がっていちゃついているカップルなどもおりとてもゆっくり探索できるような状態ではなかった。


「見せつけやがって、バカップルめ。爆破しろ、爆破」


 苛立たしげに毒を吐きながら、友人はホールへ続く階段を下りた。やはりどこにもウミはいない。音楽に合わせてホールや庭で踊り狂う人間たち、酔った勢いでいちゃつくカップル、一向に現れない主催者ーー。


 このパーティーの目的はそもそも何なのか? それをミシェルに尋ねると、彼女は「は? 目的なんてないわよ。大体のパーティーと同じくただ飲んで騒いで終わり。強いて言うなら、社交の場を提供してるって感じかしらね」と答え、ホールの丸テーブルに並べられているワインの入ったグラスの一つを手に取って口をつけた。


「へぇ」


 私は彼女に倣ってワインを飲むこともせず、力のない返事を返した。


ーー帰ろうかな、つまらないし。


 そう言いかけたとき、ホール奥の大きな扉が開いて、大勢の女の子を周りに侍らせたウミが黄色い歓声に包まれながら現れた。肩まである鮮やかなネイビーブルーの髪、色白の肌と端正な顔立ち、165センチほどの身長にやたらと細い身体つき。滅多にメディアに姿を現さないウミが、今目の前にいる。私のすぐ前を通る時、彼女はこちらに一瞬だけ視線を向けた。彼女と私の視線が出会ったとき、二重瞼の中にある褐色の瞳は何故だか少し悲しげに見えた。


 ウミはDJブースに向かい、友人であり良き仕事仲間でもあるEveと笑顔で握手を交わした。会場中の視線がウミ一人に注がれていた。Eveと役割交換をしDJブースに入ったウミは、ヘッドフォンをかけてこの頃出したばかりの新曲 "Run Away From The Hell" を流し始めた。



 

今すぐに地獄から逃げろ


ゴミ溜めみたいに酷いこの場所から


とてつもなく孤独で理解者もいない


私の首に誰か手をかけて

 

 


 クラブミュージック風の音楽にのったサビの歌詞がホールに響き渡る。なんて悲しい歌だろう。ウミは普段こんなことを考えて生きているのか。容姿にも才能にも恵まれ一生お金にも困らないであろう彼女にも、彼女なりの苦しみがあるのだろうか。


 だがその歌詞は悲しくもありながら、なぜか心に刺さる説得力を持っていた。少なくとも愛や夢や希望といったありきたりな単語を並べ立てた綺麗事ばかりの歌詞よりも、ずっとリアルで切実だ。

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