十、積丹

 手付かずの雪は、途端に季節を冬へと逆行させた。隧道の向こう側は、雪で深く覆い尽くされており、一歩登るたびに足が呑まれていく。夏場の展望台より数メートルは高い雪の上で立ち止まる。空と海を隔てる一筋の青がくっきりと横切っていた。

 水平線から下につれて青は薄くなり、エメラルドに透き通っては海底を覗かせている。その海の際に迫り出ているのが、今、立っている断崖だ。傾斜六十度はあるだろう。その崖を下るために壁に沿って蛇行しているはずの階段は、全て雪で埋め尽くされていた。あるはずの道はなく、手摺りもほぼ頭を出していない。勿論、雪のどこにも人の足跡など無かった。誰も、こんな季節に好き好んで下りるわけがない。雪に足を取られてバランスを崩せば、このまま坂を転げ落ちて岩礁に叩きつけられることが容易に想像できた。

 急に、背負った骨を重く感じた。この不安定な重心のままで、本当に波打ち際まで下りられるのか。

 躊躇した青山の横をすり抜け、桜井は崖の淵へと引き寄せられていく。雪に埋まった木柵の先、剥がれ掛けている滑落注意のラミネートには目もくれず、一歩、また一歩とふらつく足を雪へと沈ませていく。

「待て、一人で行くな!」

 逸る脚に、無謀さが透けている。最悪、骨と共に滑落してもいいと思っているのだろう。妹と母の骨と心中させたいわけではない。青山は大股で数歩踏み出し、桜井の腕をきつく掴んだ。

「心中はごめんだ。……山は、駄目でしょう」

 この斜面はまだ、海よりも山に近い。桜井まで山で死なせるわけにはいかなかった。桜井は、掴まれた腕を前に出そうと強く引く。その紫の唇が戦慄いた。

「……すまない」

「一緒に行くって言いましたよね」

「止まれない」

「止める気なんてさらさら無いです。だから、落ちないように下りるんですよ」

 桜井の腕を掴んだまま、反対の手で雪から僅かに顔を出す柵の先端を触る。青山の体は自然と坂に沿って傾斜した。その斜めの中で平衡を探す。

 鋭く息を吸って、吐く。雪から伝わる冷気が肺まで入り込み、青山の感覚を鋭利に研ぎ澄まさせた。数歩、雪の中に足を沈ませて、半回転。桜井の前へと出る。海を背にして、桜井に真正面から対峙する。

「手を、ゆっくりとおれの肩に置いて。先に行くので、後ろから足跡を辿ってください」

 青山は桜井が自ら動き出すのを待った。しばらくすると落ち着いたのか、桜井の空いた手がそっと肩に乗る。青山は掴んでいた桜井の腕を慎重に離した。その手もゆっくりと青山の肩へと乗せられる。

「じゃあ、下に向きますね」

 青山は体を回して、谷側へ向き直る。桜井の手は青山から離れないまま背中を辿り、もう一度肩を掴み直したようだった。桜井の体重が、掌越しに背中に乗っているのがわかる。

 改めて道を見下ろすと、本当に険しい崖だった。青山が落ちようとしていた祝津の崖くらいには高い。海岸まであまりにも遠すぎる。青山がバランスを崩せば、桜井と共に落ちるのは明らかだった。怖いが、下りるしか道はない。

 極めて慎重に岩肌を下っていく。一歩一歩の足取りは雪に取られて、重い。だが、固い雪がこの体を支えているのも事実だった。重心さえ間違えなければ、確実に下りていける。雪の中、脚が膝まで沈む。抜いた瞬間バランスを崩す恐怖に怯えながらも、足を毎度、丁寧に雪から這い出しては下っていく。

 崖を下りるたび、視界に海が迫り、空が占める面積が広くなっていく。ざり、と雪を踏む音の合間に、微かな波音が響き始めた。音は次第に大きくなっていく。額から汗が滴り落ちた。息はとっくに切れている。疲労のせいか、背負う骨がますます重みを増した気がする。

 ふと来た道を見上げると、崖の上に最初に越えた始まりの柵が見えた。大体、崖下までの距離と等しい。ちょうど中腹辺りだろうか。まだ油断はできなかった。後ろから聞こえる桜井の呼吸も荒くなっている。ペースを落としつつも、歩みを止めることはなかった。

 中腹を越えてしばらく下り、一歩、雪の中に足を入れた瞬間、青山は気が付く。明らかに雪の底が浅くなっている。また少し下りると、膝を呑み込んでいた雪はふくらはぎ程までしか埋まらなくなり、さらにとうとう足首を沈めるのみとなった。隠れていた手摺りもいつの間にかしっかりと掴めるようになっている。

 だが、積雪が減った分、傾斜が急になっていた。後ろから肩を掴んだままでは、バランスが取れなくなるだろう。青山は桜井に声を掛けた。

「そろそろ、手を離した方がいいかもしれません。手摺りを掴んでついてきて」

 瞬間、ふっと桜井の熱が肩から離れる。青山は不安になって、顔を後ろへと向けた。そこに、肩で息をする顔面汗塗れの桜井がいたことに安堵する。風が吹いた。雪から吹く風ではなく、海の波が連れてくる暖かい潮風だった。

「あと少しです」

 青山は進む。最後の道を曲がったところで雪の中から階段が現れた。もう先に雪はない。あとは地に足を付けて、下るだけだ。汗と熱を海風が攫っていく。海と並行になり、同化していく。

 ついに最後の段差を下りきった。顔を上げると、水平線が目線より低い位置に広がっていた。海岸を埋め尽くす丸い岩に、波がぶつかって白く泡立つ。

 ちゃんと下りられたのだ、島武意海岸まで。

 海岸は緩い弧を描き、無数の岩と共に左右へと伸びている。右側、崩れ掛けた石垣が雪を被っている。もしや、かつて使われていた鰊場だろうか。青山は、ふと海の中に鰊を探したくなった。こんな沿岸にいないとはわかっていても、海へと寄る。引き寄せられたのは桜井も同じだったらしい。二人はほぼ同時に海へと歩き出した。足の裏より大きい角の取れた石ばかりが犇いているから、足場は酷く不安定だ。それでも一歩、一歩と海に近づいていく。

 あと、海まで数歩のところで青山は止まる。波の掛かった石はじっとりと濃く濡れている。桜井はしゃがんで、濡れた丸い石を触った。ざあと波音がした。波が海面を駆け抜けて、桜井の手の甲を覆った。水に濡れたその手が、きらきらと輝く。

「つめたい」

 まるで幼い子供のように桜井は呟いた。波の反射でその目が瞬いている。波が引いたところで、かあと間延びした鳴き声が響いた。青山と桜井は同時に空を見上げる。日が傾いて仄かに白み始めた空に、黒いカラスが飛行している。

「アップルパイを奪ったのは、あのカラスですかね」

「いや、さすがに寿命で死んでいるだろう」

「それもそうですね」

 青山は、海から少し離れた波の掛かっていない石に腰掛ける。冷たい海水は苦手だ。極力濡れたくはなかった。とりあえず背に掛かる重たい骨を下ろしたい。上着を脱ごうとファスナーに手を掛けたところで、桜井が立ち上がる。波で濡れた手の甲でじっとりと汗の滲む額を拭いながら、青山を見つめて告げた。

「ごめん。もう少しだけ果てに行きたい」

 桜井は左に視線を向けた。続く丸い岩の先、波に荒く削られた巨大な岩が並んでいる。その先には、平坦な海岸が見えた。崖から続く雪山と海からせり出た屏風のような岩に挟まれた間に、辛うじて歩けそうな狭い海岸が続いており、緩やかな弧を描きながら奥へと伸びている。そこを通れば、限りなく海に近づける。そう、感じた。

「人目の付かない、できるだけ沖に近いところで流したいんだ」

 先の岩肌は尖っており、足場はここより悪そうだ。よろめいて骨壷を割れば、まず怪我は免れないだろうし、骨は岩の間に吸い込まれていくだろう。海には還せなくなる。骨を無為に失う確率は、先程の傾斜よりもずっと高そうだった。

 だが、言わずもがな桜井の決意は固い。青山は息を整えて立ち上がる。青い空は白み始めている。太陽は崖に隠れて見えないが、おそらく日没は近い。暗くなったら帰れなくなる。

「行きましょう」

 青山は、骨を包む風呂敷をきつく締め直して歩き出す。丸岩を越えた先に犇く巨岩はどれも腰の高さ程に大きい。数多の岩の中、どうにか水平な面を探しながら、足を上げては慎重に置いていく。岩と岩の隙間は、黒く開いていたり、雪が詰まっていたりした。一度でも足を滑らせたら終わりだ。

 暖かかったはずの海風が、だんだんと冷たさを増していく。吐く息が白い。吸い込む冷気が喉に刺さって痛い。首に掛かったカメラが揺れる。風が強くなるから、海流が荒れ始めた。粗い岩にぶつかって、波が高くなる。波を避けては平らな岩に足を掛け、どうにか岩場を進んでいった。

 巨岩が連なる地帯を過ぎると、また、足の裏程しかない細かな石が並び始めた。しかし、最初の丸岩地帯よりも数が少なく乱雑で、石と石との隙間がかなり大きくなっている。平行だと信じて足を置いた石が、ぐらりと傾く。体が蹌踉めいて転び掛けたところで、どうにか別の石に足を掛けて踏ん張って耐えた。

 はっと鋭く息を吐いたところで、波打ち際、漂流したずたずたのスニーカーが目に入る。今さっきの青山のように足を取られて置いていったのか、海に溺れて死んだ人間のものだろうか。

 青山は、少し前を進む桜井を見つめた。慎重に歩きながらも、その目は真っ直ぐと先を見つめている。瞳が映す世界は、きっと文字を紡いでいる。こうやってしか生きられなくても、このひたむきさを青山は、精一杯肯定したいのだ。

 ぐらつく石から石へと渡り、弧を描く沿岸線を辿ったところで、ふいに空が岩に寄って、谷のようにぷつりと切れていた。相変わらず足場は険しいが、岩自体は固定されており、平面を探せばなんとか上れそうだった。天然の階段だ。桜井が上るから、青山も追う。

 その奥には、入り江が待っていた。左右の岩壁に隔たれた間に、真っ青な水平線が輝いている。ここが最果てだろう。果ての淵まで誘うように、岩が海に揉まれながらも続いている。できる限り端まで歩く。踏み締める岩と岩の隙間に凪いだ海水が溜まり、鮮やかな黄緑色が浮いていた。その珍しさに目を疑う。険しい岩に挟まれて波が届かないから、冬でも藻が育っているのだ。

 一抹の静寂は、その緑からたった数歩で掻き消された。海原から直に吹く風は、身を切り裂くほどに鋭く、寒さと痛みを伴った。強風が高波を連れてきて、岩礁に当たって白く大きく爆ぜた。近くの海面は激しく渦巻き、海の色は青から黒へと色を失っていく。それでも桜井の歩みは止まらなかった。着地する岩はどんどん鋭さを増す。平面などもうなかった。傾いた岩の先を無理に上って繋いでいく。岩の間から海水が滲み出る。

 先の岩に行くために、桜井は岩の間に流れる波を飛び越えた。青山も飛んで、次の岩へと降り立つ。あと、もう一歩踏み出そうとした岩を、激しい波が飲み込んだ。波は引いて、岩は濡れる。桜井はその濡れた岩にすら足を置き、もう一歩飛び越えた。

「どこまで行くんですか!」

 濡れるのは怖いから、叫んだ。風の音がごうごうと鳴っている。とうに耳は冷え切って感覚を失い、激痛を呼んでいる。海風の狭間で桜井は振り返った。

「行けるところまで」

 その視線が切実に突き刺さる。青山は、濡れる覚悟を決めた。今更だ。波はずっと人を拒絶している。体温を奪い去る冷たい海だ。一歩踏み違って落ちれば死ねる。死はこんなにも近い。それでも青山は、桜井の隣に行くと決めたのだ。

 飛んだ瞬間、波が岩にぶつかって青山を襲った。靴どころか、膝まで濡れる。冷たさは死を連れてくる。嫌になるほどに知っている温度だった。青山は蹌踉めき、海へと落ちていく。

「青山君!」

 桜井の手が伸ばされた。迷わず掴んで、もう片方の手で近くの岩を掴む。そのまま体を海から引き上げた。岩を下敷きにして、桜井の上へと転がっていく。このままでは加重で骨壺が割れるとわかった。咄嗟に桜井と繋いでいない左手を岩へと付いた。

 尖った岩の先が掌の真ん中を切り裂く。

「いっ……」

 痛い。その掌すら、岩から滑る。きっと噴き出した血のせいだろう。それでもいいと、血で濡れた左手で全身を支えた。痺れる腕を伸ばしながら、鋭く息を吐く。青山の腕の下で倒れた桜井が小さく呻き声を上げた。

「大丈夫ですか、骨は⁉︎」

 青山は桜井の上から飛び跳ねて、繋いだ手を引いた。繋いでいない方の手から赤い鮮血が滴り、濡れて黒くなったズボンへとぼたぼた垂れた。引き上げられた桜井は笑う。

「また、間に合った」

「何が」

「君が落ちなくてよかった。死ななくてよかった……」

 繋がれた桜井の手が離れる。ごめん、と呟く声は波音の中に溶けていく。桜井はコートを脱いで風で飛ばないように膝で踏み、背中に括った風呂敷を外す。桜の白い骨壷が岩の間に置かれた。骨壷が割れていないことに青山は心底安堵した。おれだって守れたのだ。

 瞬間、青山の左手がやわらかい布で包まれる。骨壷を包んでいた風呂敷だ。純白の布がじわりと赤に滲んだ。

「骨なんかのために、君は本当にばかだな」

「守れたことを誇らせてくださいよ」

「……そうだな。ありがとう」

 礼と共に、止血のために引く桜井の手に力が籠る。血の滲む傷は、じくじくと痛い。きっと落ちた時に掛かった海水が染みている。

 痛みのあまり、青山は空を仰ぎ見た。先程と同じカラスだろうか。遥か上空で、黒い点となって旋回している。青山は呟く。

「攫われなくてよかった」

 カラスに取られたアップルパイのように、波は青山も骨も攫わなかった。傷の固定が終わったのだろう。桜井の手が離れていく。桜井も空を見上げた。黒い点は海から遠ざかり、隧道の方、山の向こうへと飛んでいく。

 カラスを見届けてから、桜井はこちらに向き直った。もう一つ、腹に抱えた風呂敷を解く。青山も倣って、今度こそ上着を脱ぎ、背中の包みを岩へと下ろした。下ろした途端、左手に僅かな痛みが走る。それでもいい。痛みがあるから、生きていることがわかる。

 互いに全てを下ろしたところで、桜井は青山との間に初めに風呂敷を解いた方の骨壷を置いた。白い空を象る陶器の中で、満開のピンクの桜が咲いている。桜井の妹——歩香の骨がこの中で眠っている。強い波風が陶器の蓋をかたかたと揺らした。まるで中で生きているようだ。そんなことなど絶対にありえないのに。

「怖いな」

 桜井の呟きが波間に落ちていく。陶器の蓋にそっと両手が掛けられた。その手は激しく震えている。桜井のはためく髪の中で、銀の蝶が暴れるように飛び回っている。

 ここは夢ではない。現実だ。

「何が、怖いんですか」

「向き合うのが怖い」

「何に?」

「死だ」

 人の誰もが辿り着く終着。青山も桜井も死にたいと嘆いて海の際へ向かいながらも、その一線を超えたことは無い。

「死ぬのは、怖い……」

 波は荒れる。血は流れる。自ら望んで死に近づいているくせに、死ぬのは怖いと嘆く。その弱さは痛いほどにわかる。

「でも、生きています」

 死は、今にも己を飲み込もうと口を開けている。だが、その淵だからだろうか。こんなにも生を実感している。結局、生きたいから死へと向き合うのだ。青山も骨壷の蓋にそっと手を掛けた。

「歩香さんは死んだ。十二年前に死んでいる。でも、志春さんは生きた。今、生きているんです」

 桜井の手に力が篭るのがわかった。血の通った手は確かな意志を持つ。二人は共に、その蓋を開けた。

 中身を見た青山は、息を呑んだ。小さな骨の欠片が、蓋の淵まで溢れんばかりに詰まっていた。細かな欠片たちを覆うように被さっている、緩く弧を描く大きな半球の骨はおそらく頭蓋骨だ。

 その頭蓋骨の天辺に、二つのピンクの桜が連なるちりめん柄の擦り切れた御守りがそっと置かれていた。

「あっ」

 桜井が声を上げる。弾かれたようにその御守りを摘んだ。桜井の指先が下の骨に触れて、小さな亀裂を生む。持ち上げた途端、桜は潮風に揺れた。御守りは使い古されているのか、酷くボロボロだ。揺れる桜に呼応するように、桜井の耳元の蝶が羽ばたいた。

「思い出した。入れたんだ、俺が。歩香が死んでから一度だけ開けた。それで入れた」

「これ、何の御守りですか」

「小樽に行って、歩香に買った御守りだ。俺が苗字にぴったりだと桜を買ったら、歩香はお返しにと蝶のネックレスを買って寄越したんだ。そんな女々しいのは付けられないと嫌がったら、あいつ——」

 桜井の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「『桜に、蝶は帰ってくるんだよ。だからずっと一緒にいようね』って、言っ、て……」

 俯いて、骨を覗き込む桜井の口から、噛み殺せない嗚咽が漏れる。気が付いたら、青山の視界も滲み始めていた。

「どうして」

 行き場を失った理不尽が波と同化して渦巻く。人は死ぬ。そんなことはわかっているのに、どうしてこんなにも打ちのめされるのだろう。いなくなって今更、その人間の価値を知る。遅すぎる。もっとできることはなかったのだろうか。どうしてこんなにも無力なんだ。届かない。届いてくれない。死は、遠い。

「ごめん、ごめん、ごめん……」

 桜井は懺悔を繰り返す。その指には桜が絡みつく。私はここにいるよと叫ぶように。

「歩香、ごめん。雪の中で冷たかったろう。なんで何にも気付いてやれなかったんだ。俺は間に合わなかった。せめて死に際に手を握って一緒にいてやりたかった。卒業おめでとうって言いたかった。なんで……」

「志春さんは何も悪くない」

「違う。悪いよ。俺の罪はまだここからだ。俺は、歩香がいないと生きられないからって、全部壊して逃げて、何一つ向き合わなかった。父さん、なんで出ていく俺を責めなかった? 母さん、なんで電話を無視する俺を許したんだ。一人だけのうのうと北海道から逃げて、逃げた先でまた逃げた。有島武郎と出会ったせいにして、全部、小説なんかのせいにして……」

 終末に向かうあなたと生きたかったから、桜井志春は凪ぎつづけて、飛んだ。

「あいつだって、あんなにも愛してくれて、抱き締めてくれたのに。死ぬくらいなら書くなと手を引いてくれた。そんな真っ当な愛を、俺は全部犠牲にした。生きてと言われるたびに死にたくなるんだよと突き放したくせに、挙げ句の果てでお前を小説の中に閉じ込めた。それで開き直った俺は、孤独を欲した。化物みたいなもんだよ」

 桜井は泣きながら、積み重なる骨に向かって慟哭する。

「もう誰の記憶にも残りたくないし、残したくもない。何も犠牲にしたくない。このまま海と同化して、俺は死ぬんだ。もう、ここで死なせてくれよ」

 瞼から頬へと、止まらない涙が流れていく。波の飛沫が顔に飛んで、混ざり合っては滴り落ちていく。青山も泣いていた。裂かれた左手がじんわりと痛む。何もわからなかった。青山は書かないから、愛する人よりも書くことを大事にしてしまうことに喘ぐ、桜井の罪の本質は結局のところわからない。

 でも、だからこそ伝えたかった。

「犠牲じゃない。あんたは化物じゃない」

 桜井の濡れた瞳は、レンズのように妹の骨を捉えている。本当に桜井の目には色々なものが映っているのだろう。青山の考え得る範囲をとうに超える、記憶と予測が見えるのだ。その鋭すぎる認知は、世界の全てを劇場化させるから、自分を化物や神のように形容したくなるのかもしれない。だからって観客席にはいたくない。おれが上がるよ、壇上まで。

「志春さんはさみしいから書いている。ただ、それだけなんじゃないか」

 骨を見つめていた桜井の顔が、僅かに上がった。青山の涙はとうに流れきっていた。涙の跡を潮風が乱暴に乾かしていく。青山は、泣き続ける桜井を見据え、真っ直ぐ告げた。

「一緒にいたいだけなんでしょう、みんなと」

「でも、俺はそのために、犠牲を」

 答えを求めるように、桜井の腫れた目は青山を射抜いた。ああ、この眼差しが欲しいのだ。骨じゃない。死者じゃない。人を、どうかおれを見てくれ。

「ずっと一緒が叶わないことを、あんたは痛いほどに知っている。いなくなることが前提だから、あんたのやることは全部不器用になるんです。でも、あんたはずっと誰かを求めてる。死んだ妹を、捨てた恋人を、償えなかった両親を、そして、死にかけたおれを——」

 青山は、桜井の手の熱さを知っている。契約のために祝津の崖上で握った手、さっき海から引き上げてくれた手。こちらに差し伸ばされた手の、全ての動機は罪滅ぼしなのか。絶対に違う。

「喪ったみんなを永遠に残したいから書いているんだ。骨などただの物質だ。ここに妹はいない。墓の下に骨を埋めることは、あんたにとって意味を為さなかった。だから、書くんだろう?」

「でも、書いたって、歩香は」

「そうだよ。書いたって命は還らない。でも、あんたは世界を創れる。その創った虚構が真実だと信じているんだろう? だから志春さんにとって、書くことは何よりも大事なんじゃないのか」

 ずっと、隣で見てきた。有島武郎や木田金次郎、数多の絵画を通して桜井を見つめた。青山は書かないし、書けない。芸術に命を捧げ続ける桜井の痛みはわからない。だが、桜井志春の小説が胸を裂き、酷く美しいものであることだけは、わかる。

 桜井の目から一筋の涙が溢れた。それが肯定だと信じたかったから、青山は右手を伸ばし、骨の欠片を一つだけ摘んだ。欠片は思ったよりもずっと軽かった。指の腹で軽く押すだけで、形を失って崩れ落ちていく。

「骨、撒きましょう。どうにかここまで来れたんだ。ちゃんと海に還そう」

 桜井は、桜の御守りを指に絡めたまま骨壷へ手を伸ばす。その指は、そっと骨を摘んだ。指と指の間で、擦り潰された骨が散る。海風に吹かれて、緩やかに海原へ溶けていく。あまりにも脆く、呆気なかった。

「きっと、全部は砕けない」

 また一つ骨を摘みながら、桜井は言う。青山もそう思った。骨壷満杯の骨を三人分。日が暮れるまでには絶対に終わらない。

「いいんじゃないんですか。それで」

「いいのだろうか」

「撒くか、残すか。無理にどっちかを選ぶ必要は無いんじゃないですか。ちょっとだけ撒いて、あとは残せばいい。もっと沖に流したいなら、今度は船を出してもいいし、もしかしたら、そのうち墓をつくりたくなるかもしれませんよ」

 青山は自分が背負ってきた、傍らの骨壺も開ける。桜井の父の骨だ。妹の、子供の骨よりも大きい欠片がぎっしりと詰まっている。その一つをすり潰して、桜井に渡す。

「選びきれないことも選択だと、おれは信じています」

 桜井は指の先で、灰を受け取る。ざらつく感触は砂と変わらない。受け渡す瞬間、少しだけ飛んで風に流れていく。

 桜井も母親の骨壷を開けた。その骨を摘んで、分かち合うように青山へ渡す。青山もそれを風に撒いていく。目には見えないが、ざらつく骨の感触が指に僅かに残っているのがわかった。骨を砕き、風に流しながら桜井は問うた。

「それが許されるのなら、消さなくても書いていける選択はあるのだろうか」

 次々と骨は潰されて、海原へと消えていく。皮肉ながらこれすら一つの証明なのか。きっと桜井は、骨を消したこの景色もいつか小説に書いてしまう。

 消えたから、書く。書くから、消す。

 桜井を縛り続ける二項対立を、青山は否定したかった。愛しているから消さなければならないなんて、そんな寂しいことを許したくない。

「おれはいなくなりません」

 出会ったのは、たった昨日だ。だが、その時の短さに引け目は無い。全てを書くことでしか表現できない、そんなあんたの不器用な生き様を、おれは何より愛してる。

「おれは、書くあんたが好きです。心中はしてやらないけど、こうやって死に向かうならどこまでもついていく。書き続ける限りあんたは、生きたいと叫ぶんだろう。だから、隣にいさせてよ。そして、生まれた小説を読ませてほしい」

 書くことは、生きることへの祈りだ。いずれ死んでいく人の運命を、全部愛して肯定する。そのためだけに書けてしまう、そんなあんただから一緒にいたいと祈るんだ。

「欠けたままでいい。埋めなくていい。欠けつづけていいんです。欠けたあんたを埋めないまま、おれはそばにいますから」

 瞬間、風に舞う骨が光った。青山は、その光を目で追う。欠けた骨は海へと沈んでいく。応えるように海面も光った。すぐに消えて、見えなくなっていく。だが、確かにそこに存在している。

「欠けつづけて生きろと、君は言うんだな」

 桜井は仄かな自嘲を浮かべた。きっと青山がどんなに肯定したって、桜井の感じる罪は無くならないし、喪失の辛さも肩代わりできない。その全ては、桜井が人を愛した証なのだから。

 でも、生きている。死を書いて向き合ってまで、桜井は生きようとしている。それだけで十分だった。

 おれも、あんたの隣で生きてみたい。欠けつづける、あんたがいい。

「はい」

 青山は笑いかけた。桜井の目からまた静かに涙が溢れる。桜井は、桜の絡む指で涙を拭った。その涙が青く綺麗に光るから、青山はそっとカメラを構えた。瞼は赤く腫れ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔にピントを合わせて、シャッターを切った。

 桜井の後ろでは、欠けた骨の沈んだ海が揺蕩い、美しく光り続けていた。

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