七、荒井記念美術館

 低反発のとげが敷き詰められた上質な布団の上、白んだ空に起こされる。やべえ船の燃料確認しねえと、と涎を雑に拭いたところで、ここが港の側ではないことを思い出した。いないはずの父の怒号が脳内で響く。だが、そこには心配も混じっている。

 枕元の携帯を確認したが、とっくに充電が切れて繋がらなくなっていた。充電器は無い。崖の上から何の連絡もしていないから、状況としては拉致に等しい。だが、青山の内には望んで桜井についてきたという自負と確固たる覚悟が芽生えていた。

 体を起こして、隣を見る。壁の端、襖の近くに敷かれた布団の上で、桜井は横向きに丸まって死んだように眠っていた。

「……クソ野郎」

 安らかな寝顔を見ていると、つい罵倒が漏れ出る。昨晩、好き勝手言われたことを思い返し、重ねて舌打ちも飛び出る。図星を突いて許してくれと先回りするのは、小説家の悪い癖だ。有島武郎も小説の中で木田金次郎にやっていた。開き直りながらも業だと嘆いて、悲劇の主人公を気取られると、素直に腹が立つことを知った。

 二人きりの部屋だから、桜井の微かな寝息が聞こえてくる。よく見れば、肩が震えて静かに上下している。確かに呼吸をしている。全知全能の神の振りをして、こっちに来るなと拒絶したって、結局、桜井だって人だ。化物でも死神でも無い。ただの人間なのだ。

 だから乗ってやる。桜井がこちらの主体を祈るのならば、その通りに選びたい。操られるのでも呪われるのでもなく、おれはおれの思うがままに選んでいたい。有島武郎が死んでも描き続けた木田金次郎のように、自分の目で世界を見たかった。

 そして、きっとこの選択は、桜井へと収束する。連れ出してくれた恩返しや金を得るための対価では無い。おれはもっと、桜井志春を知りたい。桜井志春の目を通して、青山海人という自己を知りたいのだ。

 立ち上がってカーテンを開ける。白く染まる岩内岳の上で、明るく広い空が広がっていた。厚い雲の隙間から差し込む日差しが、部屋へと降り注ぐ。

 白い毛布を被った桜井が、僅かに身動いだ。青山はつかつかと側に近づき、一気に掛け布団を剥ぎ取った。浴衣がずれて、胸元がはだけた姿が露わになる。桜井の重い瞼が薄く開き、一度瞬きをして、青山を見つめた。

「朝ですよ」

 青山は告げる。朝が来る。終わりの為の、はじまりの朝が来たのだ。

 朝食は部屋食ではなく、一階ロビー奥の広間で食べるらしい。目を擦る桜井を連れて、やわらかな朝日が差し込む広間へ辿り着く。

 目の前の食卓には、これまた皿がぎっしりと置かれている。小鍋に乗ったピンク色のベーコン、殻が淡く青い有精卵、透き通ったイカ刺し、身がほくほくの焼きホッケ、色とりどりの生サラダ、塩辛、漬物、じゃこ、瓶牛乳、味噌汁、粒の立った白米——。夕食同様、朝から随分と豪華な食事だ。

 青山は食卓についた。対面に桜井も座る。おしぼりで手を拭いて両手を合わせ、いただきますと呟く。桜井はふわあとあくびを噛み殺しながら、味噌汁を啜る。うまいなあと声が漏れ出ていた。

「二日酔いですか」

「かもしれない」

 起床時、部屋の卓上で転がっていた酒瓶を思い出す。流石にウイスキーは残っていたが、それ以外の瓶は空になっていた。青山もある程度までは付き合っていたが、殆ど桜井が一人で飲み干していた。

「好きだけどそんなに強くはないんだ。青山君もかなり飲んでた気がするけど」

「いつも早朝から仕事だし、セーブする習慣が付いてるんですよね」

「なるほどね。理性的だ」

 青山は有精卵を机にぶつける。小気味好い音と共に、固い殻にひびが入る。ひびに両親指を掛けて小鍋のベーコンの上に割り入れ、固形燃料に火を付けた。

「おれは別に酒響いてないし、今日は運転代わりますか」

 燃えていく青い炎を見つめ、平静を装いながら青山は呟く。確かな下心があった。荒井記念美術館の割引チケットは、誘えないまま懐に眠っている。ハンドルさえ握ってしまえば、どこへでもつれていけるのではないか。そんな期待があった。

「今日、積丹まで行けばいいんですよね。できるかぎりちゃんと海に触れられるとこがいいですよね。どこまで行けばいいんでしょう」

 青山は矢継ぎ早に言葉を重ねる。声が上擦ったり、震えたりしていないだろうか。承諾が欲しいあまりに、焦りが滲んでいる。

「じゃあ、島武意海岸まで」

 桜井がぽつりと溢したから、青山はゆっくりと顔を上げた。

「頼めるかな」

 桜井の声は靄を纏うように重い。まだ、微睡の中にいるようだった。

「……他に、行きたいとことかありますか」

「しいていうなら積丹の温泉くらいだけど、終わってからでいいし、特にはないかな。運転してくれるだけで助かる」

 桜井は、有精卵をご飯の上で割った。ぐじゅぐじゅに割れた薄い黄身が、白いご飯に滲んでいく。小鍋の下、青山の燃焼台の固形燃料の炎が、小さくなっていく。今だ。体裁などどうでもいいじゃないか。声など、どんなに上擦ったって伝えられればいい。

「昨日、仲居さんに美術館を薦められたんです。ここから少し登ったとこに、ピカソとかが飾ってある荒井記念美術館ってのがあるらしいんですけど」

 やはり言葉尻は萎む。それでも、ちゃんと向き合いたくて顔を上げた。桜井は静かに青山を見つめていた。目が合う。

「寄ってもいいですか」

「いいよ」

 承認が得られたので声が震えた。え、あっ、ありがとうございますと、途端にしどろもどろになる青山に、仄かに微笑みかけながら桜井は言う。

「昨日まで、美術館とか敷居が高くてわかんないって言ってた人間だとは思えないね。その美術館、俺は知らなかったな。連れていってくれるのが楽しみだ」

 桜井は確かに喜んでいる。それは青山が選んだからだろう。だが、一抹の寂しさを感じるのは、選択の結果については頑なに一線を引いて、遠ざけられているからだ。青山が美術を好きになるきっかけを作っただけで桜井は満足しようとしている。もう、今日でこの関係を終わらせるつもりだから。

「おれも楽しみです」

 青山は、火の燃え尽きた小鍋を開ける。完熟の卵とこんがり焼けたベーコンが良い香りを漂わせていた。持ち上げて、思い切りかぶりつく。逃す気など更々無かった。


 チェックアウトを済ませ、旅館を後にしたところで、桜井から車の鍵を手渡される。鍵を車に挿して、ロックを解除して乗り込んだ。

 運転席に座ると、ヤニの匂いが強く香った。シートを前へと動かし、バックミラーの位置を合わせると、鏡の端に、骨壷を隠す後部座席の毛布が映る。振り切るように鍵を回し、ブレーキを踏みながらエンジンを掛けた。ワイパーとウインカーの動作を確認しながら、尋ねる。

「そういえば、先生って煙草吸わないんですか」

 備え付けの灰皿には吸殻と灰がみっしり詰まっており、相当のヘビースモーカーであることが窺える。だが、この二日間、桜井が煙草を吸っているところを一度も見たことがなかった。ハンドルを握らなくなって手持ち無沙汰になったのか、桜井は両手を擦り合わせる。

「吸ってもいいのか」

「周り吸う人しかいないんで、おれは気にしないです」

「じゃあ、遠慮なく」

 桜井は懐から青黒い箱を取り出して口元に近づけ、白い煙草を口に咥えた。キン、という甲高い音と共に金色に輝くオイルライターの口が開き、細く青い炎が煙草の先端に当てられる。吐息と共に、薄い煙が立ち昇った。

「助手席の特権かもな、走りながら吸えるのは。運転しながらだと灰が落ちるの嫌なんだよ」

「でも、こんなたくさん吸ってるじゃないですか。おれ以外に、誰か運転してくれたんですか」

「これは父親の吸い殻を片付けそびれているだけだ。この車も遺品だしな」

 今にも溢れ返りそうな灰皿に、桜井は煙草を摘む手を伸ばす。人差し指と中指で挟まれた煙草の先、灰がさらに落ちては積もる。

「煙草は、死にたくなる時にしか吸わない」

 桜井の膝の上に投げられた煙草のパッケージには、死亡する危険性が高くなりますと律儀に表記されている。死にたくなる時に吸うのなら、ある意味用法は正しいのかもしれない。今、死にたいのだろうか。桜井の口から紫煙が吐かれる。

 青山はギアをドライブに入れて、アクセルを踏んだ。タイヤは残雪を越えて、雪解けのコンクリートへ乗り上げる。当たり前だが、ペダルを踏んだ分だけ進んで、ハンドルを切った方向に曲がる。どこへでも好きに行けるし、逆に容易く死ぬこともできる。それこそ、今、桜井の望む通りに。

 そんなことは許さない。青山は固く決意して、冬の山道を登っていく。仲居の言った通り、数分もしないうちに、荒井記念美術館の看板が見えたので右折する。ホテルの駐車場を横切り、突き当たり奥の、ひらけた場所に車を入れる。正面、ガラス張りの白い縦長の美術館が、雪に埋もれながらも聳えている。青山がエンジンを切ってシートベルトを外すと、桜井は吸いかけの長い煙草を雑に灰皿へと捩じ込んだ。

 青山は車から降りる。登ってきた轍が、白銀の雪を抉っていた。桜井が降りたことを確認してからキーを閉め、入口までの緩い坂を上る。粗目の雪が厚く重なり、歩みを進めるたびに足が深く沈んだ。ここは山の中腹、奥まった場所だ。辛うじていつかの除雪の跡がある。冬に開館しているだけ奇跡だ。氷の張った階段を上り、アーチ状の入口を潜る。

 エントランスに入ってすぐ正面の壁、円を描くように空洞の人型を装った鉛色の彫刻が嵌っている。灰色の壁と柱を基調とした、高級感の漂う建物だ。木田金次郎美術館より、ずっと広い。すぐ右手には二階への螺旋階段が伸びており、手前の売店の向こうには、ホールらしき入口と、奥へと続く通路が見える。

 左手が受付のようだった。黒い艶のあるカウンターの向こう、学芸員が一人立っている。青山はポケットに捩じ込んでいた札束から、一枚の万札を抜き出し、割引チケットと共に差し出した。どうせこれだって桜井の金なのだが、報酬をどう使おうと勝手だろう。使い所のわからなかった金を、ここで使うことが些細な意趣返しとなればいい。

 金と引き換えに学芸員から、二枚のチケットとリーフレットを受け取る。青山が戻ると、桜井は壁に嵌った彫刻の前で立ち尽くしており、近くの机上に積まれている、ガイドマップと書かれた薄い紙を手にしていた。

「なるほどね」

 桜井が指でさしたマップの箇所には「二号館一階 生れ出づる悩み美術館」の表記があった。そのまま、したり顔で呟く。

「急にピカソなんて言うからびっくりしたよ。これが目的だったのか」

「仲居さんからは西村計雄を薦められたんです。ピカソも観てみたかったし。でも、その通りです。一番、それが観たかった」

 青山は臙脂色のリーフレットを桜井へ手渡す。桜井はその説明をなぞった。

「道内の画家たちが、木田金次郎をモデルにした有島武郎の小説『生れ出づる悩み』の読後感、あるいは木田金次郎や有島武郎の人となりを感じたままに描き上げた作品群を展示——。『生れ出づる悩み』の二次創作的なものか。面白いね」

 青山は桜井が持っていたものと同じマップを手に取る。今いる、この一号館がピカソ版画美術館となっており、廊下の先、二号館の二階が西村計雄美術館、一階が生れ出づる悩み美術館だ。深い積雪のせいでわからなかったが、この建物は山の斜面に沿って建てられているために、一号館の一階と二号館の二階が水平に繋がっているらしい。つまり、生れ出づる悩み美術館が、この入口から一番奥底にあるのだ。とにかく、この美術館が広いことを実感する。

「で、どこから行こうか」

 桜井が当然に呟くから、はっとした。一緒に観ると言うのか。聞き返したら、どこかに行ってしまう無自覚さすらあったから、青山は平静を装って誘う。

「このまま一号館のピカソを観ましょう」

「わかった」

 エントランス右手、売店横の螺旋階段を上っていく。ここは岩内岳の中腹だ。窓の外、薄く白みがかった岩内の町並みが見えた。階段中央のひらけた空間を切り裂くように置かれた赤い逆三角形のモニュメントを越えて、辿り着いた二階の正面、灰色の壁には彩度の高い赤色で書かれたPicassoの文字があった。ここから先が展示室のようだ。展示室手前、左側のインフォメーション、カウンターの内部は無人だ。そういえば、学芸員の姿が受付以外どこにもない。桜井はそんなことは気にも止めずに、中へと入っていく。

 パーティションで区切られた灰色の空間で、ピカソの版画が厳かに照らされ、並んでいる。青の時代、そしてばらの時代のキャプションと共に、ピカソの心象が版画に刷られては語られていく。続くキュビズムの説明の側に飾られていたのは、一人の女が、細かく黄色と赤と黒の平面に分解されている版画だった。右と左で目の角度が違うから、どこを観ればいいのかわからなくなる。だが、これは青山でも知っている、まさにピカソというような絵だった。

「ピカソは自然の形をそのまま受け止めることに満足せず、大胆に解体し、解体過程そのものを画面に表示するという冒険を推し進めた——」

 青山がキュビズムの説明を口走ると、すぐ近くで桜井は答える。

「観たまんまだよな。そうしたかったからそうした、っていうのがわかる」

「なんだか、そのまんま描かないのは印象派と似ていませんか」

「ああ。写真技術の台頭と共に、絵画は写実的価値を失った。だから絵画独自の価値を獲得するために、目で見える光を追った印象派や、解体過程を残すキュビズムなどが生まれたのだろう」

 青山と桜井は並んで歩き出す。ふと、青山は『コンポジション』という作品の前で立ち止まる。ギターを解体したような黒と白の幾何学図形が組み合っている。桜井も立ち止まった。

「これ、ギターみたいですね。なんだか格好良い」

「コンポジション——、辞書的な意味を素直に考えると、構図という意味になるけれど、確か、作曲という意味もあったはずだ。ギターを見つめながら描いていたのかもしれないな」

 青山の感想に桜井の言葉が返る。そして、また二人で歩き出した。学芸員も他の客もいない。二人きりだ。一人じゃないから答えが返る。静かじゃない鑑賞も悪くないし、寧ろ望ましいとすら思う。

 新古典主義の時代とシュルレアリスムの時代を経て、ピカソは更なる表現を追究していく。ゲルニカから鳩へ変わり、鳩の作品群の先、ピカソエロチカという通過点でピカソは急死した。

 青山は立ち止まる。黒い画面の中、歳を取った男が椅子に腰掛け、筆を持ってキャンバスに対峙している。男の肩には若い裸の女が寄り掛かっており、二人は共にキャンバスを見つめている。だが、そのキャンバスの向こうにいるモチーフには男にそっくりな顔が付いている。そして女の後ろから、見切れた別の横顔が全てを見つめている。『モデルと画家』という題名の絵画だった。

 画家の主観は、モデルを超えて己を映し出す。モデルは鏡だ。見ていながら、見られている。結局ここには自分しかいないことを、モデルという対象がいるから思い知るのかもしれない。ピカソはピカソ自身を見ている。モデルと絵を通して。

 ピカソの最後の妻・ジャックリーヌ・ロックの横顔のリトグラフと共に、ちょうど一周して展示室は終わる。最後のキャプションにはこう書かれていた。

「芸術は真理を悟るための虚構である——」

 青山は知らなかったが、これはピカソの有名な言葉らしい。わからなくて、素朴に尋ねる。

「真理って、一体なんなんですかね」

「変わらない本当のことじゃないか? だが、芸術家にとって変化していくことこそが、唯一変わらない本当のことである気がするんだよ。矛盾しているのかもしれないが」

「それ、なんだか、うまくなりたいと願って、故郷で描き続けた木田金次郎みたいですね」

「心中した有島武郎みたいでもある」

「じゃあ、桜井志春でもあるんですか?」

 そう問うと、桜井はふっと息を吐く。

「……そうだね。俺も、変わっているのだろう」

 当たり前のことかもしれないが、ピカソの絵を観て確信に変わった。対象が変われば、自分の感じ方は変わっていく。芸術は残酷なほどに、自分が何を思うかを認識の外から問うてくるから、愚直に自分の心に向き合わざるを得ない。作品が変わるのは、作者の心が変わるからだ。青山は、首に下げたカメラのストラップを強く、握った。

 展示室を出てさらに螺旋階段を上り、三階へと辿り着く。ピカソの描いたラ・セレスティーヌの挿絵の先、数点のピカソのポスターの向こう、最奥の大窓が岩内の町の方へと開いていた。白い残雪は山から町にかけて、さらに岩内港に向かうにつれて減っていく。

 窪む海の対岸に、半球を被った円柱の建造物が三つ建っている。泊村の原子力発電所だ。原発よりもさらに沖の方で鈍色の海に突き出し、青白く輝く山々が積丹半島だ。あの先端まで、これから向かう。

「あれが終着地だな」

 諦念を滲ませながら桜井は言ったが、青山の方に不思議と焦燥感はなかった。桜井の言う通り、あの先で何かが終わるのだろう。でも、何かが始まるのもいつも終着からだ。

「そうですね」

 いつの間にか一眼レフのボタンに触れていた指は、そう答えたのとほぼ同時にシャッターを切っていた。積丹半島を背景に、桜井の横顔が収められる。青山は桜井を見ていた。自分の心を見つめながら。確かに、変化していく心を感じている。

 一号館を下り、エントランスへと戻る。売店の先、扉の閉じたホールの向こう、二号館へと続くガラス張りの渡り廊下を進んでいく。曇ったガラス窓の外、雪に沈む庭園が広がっている。手前、岩内の町に届かせるように仰向けで浮かぶ少女がフルートを奏でる彫刻が浮いている。『生れ出づる悩みのオブリガード』というタイトルが付いていた。

 彫刻を過ぎると、白銀色の廊下は終わり、二号館となる。顔の無い人が膝を立てて寝そべる、木彫りの彫刻が正面に待ち構えていた。二号館の中は照明が暗く落ちており、下りたブラインドの隙間から、細く白い陽光が差し込んでいる。左手に粗く削られた腕の無い直立の人型彫刻があり、奥に下がる螺旋階段が続いている。螺旋階段の手前にまたカウンターらしきものがあるが、やはり無人だった。学芸員も客もいないから、二人きりの鑑賞は続く。寝そべる彫刻の先、背丈を越す程巨大な絵の前で、青山は立ち止まる。

 絵画の右上。朱色と黄色の線が円として放出されながら回転する。きっとこれは太陽だ。力のまま描かれた切り裂く陽光は、白い山とぶつかり、接点で群青と黒の衝撃を生んでいた。しかし、端正な陽光に切られても、白銀色の山は、その輪郭を尖らせ、突き刺す冬風の中でより形を鋭く際立たせていた。

「……西村計雄?」

 思わず呟く。西村計雄の『岩内岳』というタイトルの油彩だと、近くの説明に描かれていた。旅館で観た、我が子のべたべたした油彩とは画風があまりにも違う。幾何学を主とした躍動感のある絵からは、洗練された美しさが感じられた。

 明度の低い灰色の壁に掛けられた作品を、電球色のライトが暖かく照らしている。青と黄緑の山の中で天に真っ直ぐと伸びていく白樺、花も葉も蕾も回転しては瑞々しく描かれたひまわり、紫と黒の葉が舞う中で純白の花嫁が笑みを讃えるノエラの結婚式——。色鮮やかでありつつも、透明感のある幾何学図形がキャンバスの中で踊っている。

「綺麗ですね」

 素直な感想が溢れる。絵に重さはなかった。感じた気持ちが一陣の風となり、通り抜けていくような心地がある。

「美しいな」

 桜井も呟く。その瞳には、絵画の鮮やかな色彩が映っていた。無意識なのか、人差し指が宙で図形の線をなぞる。同じものを観て、同じような感想を抱けることに純粋な喜びがある。それは、まさに今、互いがここにいることの証明なのではないだろうか。

 一回りして、最初の『岩内岳』の絵に戻る。すぐ横には、「生れ出づる悩み美術館1F」の表記があり、螺旋階段が階下へと続いている。下りる先は光源を失っているのか、暗い。階段の中央には、紫の垂れ幕が落ちており、階段に沿うように細長いステンドグラスが煌めいている。青山をぼんやりとした既視感が襲った。

「なんかここ、上ったことがある気がします」

「上った? 下りたじゃなくて?」

 桜井の指摘は正しい。この下は、荒井記念美術館の最奥なので、ここから下りなくては辿り着けないはずだった。知りたいから、青山は下りる。ステンドグラスの下、ニッチに収まる赤い羊の彫刻を眺めながら気が付いた。

「映画館までの階段だ」

「……映画館?」

「昨日行った小樽の映画館です。そこに行くまでに階段を上ったでしょう。壁におもちゃが嵌まってて、暗くって。その階段になんだか似ているような気がしたんです」

 青山は振り返り、段上にいる桜井を見上げる。肯定も否定も無いまま、桜井の足は止まった。それでも青山は前を向き、また一歩を踏み出していく。映画という虚構のために上ったのと似た階段を、絵画という虚構のために下りていく。虚構は事実ではないけれど、真実を有する。もう青山は、そのことを知っている。

 階段を下りた先、捩れた木の彫刻の果ての壁に、生れ出づる悩み美術館のレリーフと、有島武郎の顔写真があった。

 横には「稍緑色を帯びた青空の遥か遠くの地平線高く、幔幕を真一文字に張ったような雪雲の堆積に夕日が射して万遍なく薔薇色に輝いている」という『生れ出づる悩み』の一文があった。

 そのまま視線を奥へと移し、ブラインドの隙間から僅かに差し込む日光を見て、文と比べる。確かに日は薄く輝いていたが、木田金次郎が鮮烈に描いたような薔薇のような色ではないと感じる。青山は振り返る。桜井はちょうど階段を下りきったところだった。壁の文章を読んだのか、その目は開かれて唇が戦慄く。

「……冬はあすこまで遠のいて行ったのだ——」

「それは、この文の続きですか」

 小説を一度読んだ程度の青山ではわからない。だから尋ねたが、桜井は答えない。

 文章の先、パーティションで手前と奥に仕切られた壁には、巨大な絵画がいくつも飾られている。青山はまず、手前側の展示を眺めていく。どの絵も海を基調にしながら「私」と「木本」か、もしくは有島武郎と木田金次郎をモデルにして、思いのままに描かれていた。

 川本ヤスヒロの『地獄に生きる』では、荒々しく重ねられた暗い油彩の中、輪郭をどろりと溶かした裸の男が左手でスケッチ帖を握っている。男の目にはキャップと金属が嵌められ、ぎょろりと眼球が突き出ている。羽生輝の『北の浜辺』では、重く青を吸った空を映し、波の静かな黒い海が漂っている。海のそばに佇む町と雪を積らせた断崖が、極寒の冬を物語る。豊田満の『暗愁』では、海で生きる漁師の過酷な生活を背景に「木本」の裸体に赤く溶けるように晩年の木田金次郎が描かれている。西田陽二の『若き漁民画家の肖像』では、上に緑がかった重い波が打ち寄せ、下に漁で揚がった魚の死体が並び、その間、漁船の前で鉛筆とスケッチ帖を持って物思いに耽る青年の横姿が描かれていた。

 手前の展示室を回りきったところで、壁に掛けられた注釈に気が付く。美術史を専攻する大学教授が寄せた文章だった。青山はその結びの文章をなぞる。

「私はこれらの画家が、年来世間に発表してきた制作の多くを見識っているつもりであるが、ここに提示された作品が、まさに有島文学との出会いによって、まぎれもない一つの精神的高揚をそれぞれのうちにもたらし、それがこのように結晶化されていることを、実感する——」

 結晶化という言葉が、理解へと落ちていく。これらの作品は『生れ出づる悩み』の再現ではない。

 一人の人間が一つの芸術に出会い、新たな一つの価値が生まれたから描かれたものだ。その価値はどこから来るのだろうか。作品自身が手取り足取り丁寧に説明してくれるのをただ、指を咥えて見ていればいいのか。作者が意味することが絵の正解となるから、必死に答えを考察するのか。それとも、絶対的で不変の神が与えるように突如、天から降って来るのを運命的に待つのか——。

 違う。

 芸術とは、自分のぐちゃぐちゃな感情を透明にするものだ。混濁して漠然としたその欲求が、芸術の鏡に映し出された時、人は初めて自己を知る。そして自己を知った時、欲求は経験と結びついて衝動となり、新たな感情を生む。作品が、鑑賞者の経験の中に入って、その自己に強く作用するときに生れ出づるもの、それが一つの価値となるのだ。

 だから、おれは絵が観たい。自分の感情を、欲求を、自己を知りたいから。

 青山は奥へと進む。最奥の展示室には、先程よりも色彩豊かな作品が並んでいた。どの絵画の隣にも、小さな銀の板が埋められており、題名と作家名の下には、それぞれの作品に関連する『生れ出づる悩み』の一節が刻まれていた。

「吹き荒れる風すがらその為に遮りとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさがあった。波の向こう側をひた押しに押す波の激しさ強さが思いやられた。艪を波の方へ向ける事もし得ないで、力なく漂った船の前まで来ると、波の山はいきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風に反りを打って鞺と崩れこんだ」

 青山は、砂田友治の『嵐のなかの宣託「汝死するにあらず」』を観る。混濁した色で鈍る空と僅かに赤らむ水平線の境界に向かって、波に攫われかけた船頭がひたむきに進んでいく。青山は波に同化しようと揺れるのに、決して受け入れられない自分の肉体を見つめる。手を開いて、閉じた。海の果てなく冷たい温度と魚の生臭い香りを、初めて恋しいと思った。

「家の者共の実生活の真剣さを見ると、俺は自分の天才をそう易々と信ずる事が出来なくなってしまうんだ。俺のようなものを描いていながら彼等に芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、僭越な事に考えられる。俺はこんな自分が恨めしい。そして恐ろしい。皆はあれ程心から満足して今日今日を暮らしているのに、俺だけはまるで陰謀でも企んでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。如何すればこの苦しさこの淋しさから救われるのだろう」

 青山は、神田一明の『労働と制作の日々』を観る。淡い西日の背景には、小船と定置網、籠に詰められた魚群、港町が描かれている。中央、足を組んでこちらを向く男の手には空色のスケッチ帖と鉛筆が握られている。そして、その傍らにはまるで死神のような濃淡の紫で、一人の男が浮かび上がっていた。青山は、首から下がるカメラの重みを感じた。死神みたいな男から与えられた手段は、いつしか青山のやりたいことへと変わった。いつしか死神の手を離れて、青山自身の衝動になった。だから青山はシャッターを切っているし、アクセルを踏んでここまで来た。

「君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生れながら、そんな誘惑を感ずる事さえやくざな事だと思った。しかし一旦その企図が頭を擡げたが最後、君は魅いられた者のように、藻掻き苦しみながらもじりじりとそれを成就する為には凡てを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ。その恐ろしい企図とは自殺する事なのだ」

 青山は、伏木田光夫の『われ死すべきか』を観る。青の背景の中に緑が潜み、その混色の全てが、手前の赤い男を鮮烈に燃え上がらせている。佇むこの地は、海だろうか。橙は赤く固く塗り重ねられて、男の肉と血と骨とを丸裸に浮き立たせた。腕組みする男は裸足のままで瓦礫を踏み付け、今にも海に吸い込まれそうなぎりぎりの淵でとどまっている。

 青山は、振り返る。そこに桜井が立っていた。あの時と同じ構図だ。自殺をしようと青山が祝津の崖に立っていた時と。だが、違う。青山は変わったのだ。

「もう、おれは死にません」

 絵に背中を向けて、桜井に対峙する。桜井から見ると、絵の男と青山が重なっているだろう。だからこそ、青山は告げる。

「今、ここで改めて『生れ出づる悩み』の文章を読んで思いました。有島は木田を愛していた。芸術と実生活の間で迷う木田と自分を重ねて、自分も書いて生きていきたいと心から願った。痛みも苦しみも醜さも愚かさも捨てた思いも、その全ての感情に経験を重ねて向き合わなければならないのが芸術なんですよね? 芸術が辛いものだと誰よりも知っていたからこそ、それすら乗り越えて、それでいて人の心を揺るがすものを有島はつくりかった……」

 桜井を、外から射し込む陽光が照らす。陰る瞳は、静かに青山を見つめている。

「木田は有島の思いを知った。勿論、身勝手だともわかっていたでしょう。でも、そのエゴは、外から見ると祈りになるんです。有島が死んだからこそ、木田は祈りを拾って、選んだ。木田は木田の意志で岩内を愛したんです。本気で絵筆を握るようになってからは、網を引いて魚を握ることはなかったのでしょうが、漁師の心や岩内への愛着は木田の中に生き続けた。だから岩内に美術館が生まれて、ここに絵が生まれたんじゃないんですか。これらの絵は有島や木田が願って託したわけじゃない。画家たちが、自分の意志で描いたんだ」

 事実でも再現でもない。結晶だ。虚構は真実を映す。本当の自分だけの心を。

「絵を観て得た経験は、おれだけのものです。この絵の男の抱く、死にたい気持ちはわかる。このまま落ちることができたらどんなに楽だろう。だが、おれはそれが逃げだと知ってしまった。おれは生きたい。有島でも木田でも画家たちでも、勿論あんたのせいでもない。おれは、おれの意志で死にたくなくて、今、生きたいと願ってる」

 青山は海を嫌って生きてきたから死にたかった。生と死の狭間、崖の淵に立つ青山に桜井が声を掛けたから、そのエゴに触れたのだ。青山が抱いた感情は絵を観ることで透明になって、形となった。今、青山は、自らの経験を基に自己を選択しようとしている。

「おれはこれからも絵画を観たい。小説を読みたい。写真を撮りたい。おれは、おれの思いを見つめて生きていきたい」

 思いは衝動となり、この身を突き動かしている。熱い血が拍動と共に全身へと巡っていく。生きたいと、心が叫んでいる。

「おれは生きます。あんたはどうするんですか」

 仄かな逆光に照る桜井は、雄弁に語る絵画より静かだった。

 青山は待つ。待った。

 その不変の表情が、ついに破顔する。

「死にたいよ」

 立場は逆転した。崖が、桜井の向こうに見えた。いつか青山が眼下に見据えた岩礁にぶつかる波が、死を間際まで連れてきていた。

「俺は今、二十七だから、死にたい」

 青山は今更気が付く。桜井の二十七歳で死ぬかどうかの賭けは、二十八歳になるまで成立し得ないことを。今、二十七歳の桜井は、まだ生きることを選んだわけではない。

「歩香がいないから死にたい。でも、死ねない。あの子は自殺じゃないから。歩香の死を肯定するために俺は、歩香を書かなきゃいけなくて、書いて、会えて、そんで。でも、そうやって虚構の中で幸せに暮らし続けることは絶対に許されなくて、だから、もう一度殺して」

「……歩香って、妹さんの名前ですか」

「殺して消したから、俺は一人で、書いていくんだ」

 問いと答えが噛み合わないまま、桜井は前髪を掻き上げる。にやついた自嘲が浮かんでいた。

 今、きっとこの人は白銀の雪の中を掻き分けて、とっくに燃えて骨になった死体を探している。遺骨は雪の中ではなく、車の中にあるし、妹はいない。そして、おれはここにいる。だから今度こそ、桜井に言われるのではなく、自分の言葉ではっきりと伝えたかった。

「おれは、あんたといたい」

 揺れ惑っていた桜井の瞳が、ゆっくりと青山に照準を合わせた。青山はその目を見つめ返して、告げる。

「おれは、桜井志春と共にありたいです。あんたと同じ絵を観て、今日みたいにまた話したい。あんたの小説がもっと読みたい。あんたを撮りたい。おれは、そうやって生きていきたいんですよ」

 証明したくなって、青山はカメラを掲げた。レンズ越しに桜井の瞳を見つめる。そのまま指に、思い切り力を込めた。

「うああぁ……」

 シャッターを切った瞬間、桜井は床に崩れ落ちた。歪む顔は両手で覆われ、止まらない嗚咽の切れ間に声が漏れる。

「やめてくれ。許されたくない。受け入れられたくない……」

「なんでですか」

「君に愛されて君を愛したら、俺は君を消さなきゃいけない。もう二度と誰かを愛したくない。そうやって一人で書いて、凪いで自分を保っていたいのに……」

 消して書くことが愛だと定めてしまったから、自己の矛盾に喘いでいる。愛す人と共にいることが許されないと泣いている。

 青山は蹲る桜井をじっと見つめた。ここで手を差し伸ばすことは、おそらく間違っている。己に罪を課しているのは、桜井自身だ。これは痛ましい陣痛の苦しみであるから、桜井自身で苦しみ、桜井自身で癒さなければならない苦しみだ。

「嫌ですよ。おれは嫌だ。あんたと別れた後に『生れ出づる悩み』みたいな小説が生まれたら嫌だ。おれを消さないでくれ。おれの為に勝手に祈るなよ」

「……それが、私の、最大の賛辞なのに」

「それでも嫌だ」

「どうして」

「おれはあんたと生きたいから」

 なんで、と桜井は泣きじゃくる。共にいたいと祈ることが、桜井自身の激しい矛盾を生むとしても、青山の思いは確かに生れ出たのだ。一人苦しく書いて生きていく桜井の人生を、青山は真っ直ぐに見つめていたい。

 漏れ出た微かな陽光が、動かない桜井を彫刻のように照らす。でも、あんたは彫刻なんかじゃない。一人の人間だ。だから桜井が選ぶのを待ちたかった。

 青山は、桜井が立ち上がるのをただじっと、見つめ続けた。

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