幽霊階段

櫻井彰斗(菱沼あゆ)

プロローグ <雨のKwaidan>


  

 雨の日。


 その階段を見つめていると、濡れた黒いコンクリートの上に、じんわりと滲み上がって来るものがある。


 ゆっくりと広がる血のようなもの。


 それが自分の足許に到達するときが、この日常の消えるときだと知っていた――。



 

 塀と草原に囲まれた古い階段。


 それは佐々木明路あけるが学園に向かうとき、必ず通る場所だった。


 ところどころ草の生えたコンクリートのその石段が明路はあまり好きではなかった。


 特に雨の日の石段が――。


 オレンジの傘を手に、明路は階段の途中で足を止める。


 じっと濡れたコンクリートの一点を見つめていると、そこにぼんやりと見えてくるものがあった。


 血溜まりだ。

 

 じわじわと広がって来るそれが足許に到達しようとするが、身動き出来ず、逃げられない。


 だが、明路は知っていた。


 一度、目を閉じ、再び開けると、その血溜まりが綺麗に消えてしまうということを。


 今、まさにそれを行おうとしたとき、誰かが下から上がってくるのが見えた。


 黒い傘を差している男だ。


 俯きがちに傘を持っているので、顔は見えない。


 だが、どうやら、スーツを着た細身の男のようだ。


 男の靴が水滴を跳ね上げながら、すぐそこまでやってくる。


 しかし、その靴音も水滴の音も、何故か、血溜まりの手前で止まった。


 静かな階段には、二人の傘が雨を弾く音だけが響いている。


 俯き加減の男の傘の下からは、柄を握る異様に白い手が覗いていた。

  

 かなり近づいたので、肩の辺りで、ひとつに束ねた長い黒髪が見えていた。


 男は俯いたまま言う。


「こんにちは」


 その声は、塀や近くの木々に反響してよく響いた。


「……こんにちは」


 明路はそう返す。


 彼はそのまま自分の横を通り、そこにないはずの血溜まりを避けて上がって行ってしまった。


 その姿が、右側に折れ、家の陰に消えて行くのを見送っていると、下からよく通る高い声が聞こえてきた。


「明路ーっ!」


 白い猫を肩に載せたショートカットの少女が自分に向かい、手を振っている。


 明路は、ほっとして彼女の方を見た。

 

 幼なじみの服部由佳はっとり ゆかだ。


 肌も髪も目の色も薄く、如何にもハーフか、クォーターのような美しさなのに。

 外国の血は混ざっていないと言っていた。


「ほら、もうお帰り」


 由佳が話しかけると、白猫は、ひらりと彼女の肩から飛び降り、すぐ近くの自宅に続く細道へと駆け込んでいった。


 茶色い髪に雨のしずくをつけている彼女に、明路は傘を差しかける。


「傘、持って来なかったの?」


「霧雨じゃないの。

 そういうときは、濡れていけって言うでしょ」


 由佳は鬱陶しげに傘を明路の方に押し戻すと、早く行こうよ、と手を引いてくる。


 どうしても傘に入らない由佳が濡れてしまうので、住宅街の道を国道に向かって急いだ。


 いつものように笑い合いながら早足に歩いていたが、ふと気になって、振り返る。


 密集した家々の隙間から、あの階段が見えた。


 雨に霞むその古びた階段に、ぼんやりと立っている人影が見える気がしたが、明路はそれを振り払う。


 見えるはずがない。


 見えるはずがない。


 今の私は、あれを持っていないのだから――。


「なにやってんの」

と由佳が明路の顎をつかみ、無理矢理前を向かせた。


「ほらほら。

 過去は振り返らない」


「いや、過去じゃなくて、後ろ……」

と言いながら、明路は由佳の手から、逃げるように身を引いた。


 同性だが、由佳の透明感ある整った顔で間近に見つめられると、どきりとしてしまう。


 潔い性格のせいもあって、由佳には中性的な魅力があるというか……。


「由佳は共学に行ってたら、モテただろうね」


 ちょっと照れながら、明路はそう言ったが、


「いや、女子校でもモテててるよ」

と軽く流される。


 そんなくだらない話をしている間に、先程のことも、心に引っかかったすべてのことも、忘れてしまった――。

 

 まあ、それもいつものことなのだが。

 


 国道に出ると、これまた、いつものように友人たちが歩いていた。


「おはよう」


「おはよー。

 傘、差しなさいよねー、由佳ー」


 自分と同じことを言う彼女たちに笑いながら、由佳と二人、彼女たちに追いつこうと走り出した。









 

 

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