12月28日 ①

 軽石かるいし理久りくは、全国どこにでも居る非モテの会社員である。

 某港町みなとまちで生まれ、港町の大学に進学したのち、港町で就職し、かれこれ実家に住んで二十五年。家は決して裕福ではないが、父、母、妹の四人家族で、バカを言い合いながらも毎日楽しく過ごしている。

 いつか好きな女性と手をつなぎ、この港のショッピングモールや水族館、隣接する観覧車でデートするのを夢見て――いやはや、二十五年。

 新卒で入社した企業で三年間、営業職として我武者羅に走り続け、色恋の話もない最中に、転機は訪れた。


 今年、新入社員歓迎会が行われた夜。理久は、たまたま隣に座った新卒の女性に恋をしたのだ。いや、その時は『恋』と言って良いのかどうかさえ怪しい感情だった。

 ジェンダーうんぬんの時代に相応しくない言葉を使うなら、どこまでもであり、酌をする、食器を回す、上司の話を頷きながら聞く――と、未だに男性社会で求められている需要を果たしていたのだ。

 その言動が、社会で生き抜くための作戦や目論見もくろみだったとしても、理久にとってすべてがときめきの対象だった。

 ごわついたビジネススーツも、丁寧にまとめたひとつ結びも、社会に合わせた控えめなネイルも、すべてに学生風あどけなさが残っていた女性で――

「オッケー、キミが考えてるコト当ててあげよう」

 会話の数ほど惹かれてゆき、奥手ながらも一緒に出かける機会も増えてきた意中の女性であり――

「キミが居るのは立腹、恐怖、期待の狭間。『なんでベッドで拘束されてる。今からなにをされる。だれか助けて』でしょ?」

 手をつなぐどころか、未だに『好きです』の一言さえ伝えていなかった女性だったというのに――

「違うんだなあ。キミが思わなくちゃいけないのは、『愛梨が四六時中、俺のことを忘れませんように』だってば。それも忘れたの?」

 今まさに彼女――数ヶ月も恋をしていた相手は、銀幕の犯罪者さながらに微笑んでいるのだ。出社した時から変わらぬ、キャメルのニットと、チェックのロングスカートを着用したまま。

 それでもって、理由もわからずベッドの上に座らされ、後ろ手と、畳んだ足を拘束された理久の前で。

「元はと言えばキミが忘れっぽいからぁ。今日の納会のうかいが終わって、わたしの部屋に寄ってくれて――なのに……あーぁ、キミは困った人……んっ」

 九重ここのえは、足を組みながら一方的な文句をばら撒いていたかと思うと、突如立ち上がり一方的な口づけを行ってきた。

 他者承認を満たしたいのか? 性的欲求を解消したいのか? あらゆる感情が渋滞しており、まるで不快しかなかった。結束バンドは手足に食いこみ、理久は何度も身をよじってしまう。

「痛い? 痛いよね? でも話は終わってないでしょ? なんで今夜は早く帰ろうとしたし? お酒もご飯も、ほとんど取らないなんて変だと思うよ?」

 本題のように九重は、今夜の理久の言動について不振を露にしてきた。まるで『わたしはあなたを見ていたの』と言わんばかりの勝ち誇った両眼が、大きく見開く。

 九重は納会で、同僚に上司に――様々な人物へ愛想を振りまいていたというのに、その間もずっと理久を観察していたというのだろうか。

 いや。どうであれ、他人に説明するようなことではない。それでなくとも、この女への恋慕は消失し、通報を考えるほどに信用は地の底へと失墜したのだから。

「他人って言い方……傷つくしムカつく。わたしに二度とそんな言葉使わないで。わたしたち仲良しじゃん。通報ってなによ……ヤバすぎ……」

 どうも反応が気に入らなかったようで、九重はHOMEさながらの姿を見せつけるように、声のトーンを低くしながら睨みつけてきた。

 理久の胸はざわつき、純粋なおそれを感じた。このタイプは、あとで嘘がバレた時、なにをしでかすかわかったものではない。一時の反抗心で、来年どころか、あすさえ迎えられないなんて馬鹿げている。


 理久は素直な姿勢を見せた。

 ――軽石家は少し変わっている。

 十二月二十八日の夜は家族四人で豪華な食事やお酒を囲み、バカ騒ぎをしながらボードゲーム、ビデオゲーム、麻雀などを用いて、『家族の時間』を過ごすのが恒例なのだ。それもあって毎年、納会では飲食を控えめにしているだけのこと。

「家族のお楽しみ会ってこと? キミの妹ちゃん、高二でしょ? 友達や彼氏も居るんじゃないの? ふうん、ボードゲーム……ねえ。欧米かっ!」

 この女の言うとおり、最近の妹はめかしこむようになった。が、毎年この日は楽しみにしてくれているのだ。どこかの他人に、大事な家族のことを、ああだこうだと言われる筋合いなんてない。

「悪いとは言ってないし。それよりも、わたしねえずっと思ってた。物覚えが悪いキミは訓練しないといけないって。あと、『他人』やめてって言ったじゃん! そういうトコだからね! すぐ忘れるトコ!」

 冷静を装った末の、いかれた提案。その後の感情爆発。会話の二段構成についてゆけず、不承不承に頭を下げるしかなかった。

「そう、ちゃんと謝れて偉いね。それに『訓練』って言ってもぉ、楽しいゲームよ。キミとわたしの、記憶を辿るゲーム。だってゲーム好きなんでしょ! 家族みんなでやるくらいだし? はははっ!」

 終始、家族を馬鹿にされている気がする。が、まずは感情を抑えて九重の戯言に耳を傾けるしかあるまい。

「でも意外。コレ外せぇー! って言わないのね? 結構、受け入れ系?」

 もはや、それも戯言である。

 仮に恫喝どうかつしたところで、この女が言うことを聞くとは思えない。懇願もネゴシエーションも、すべてが体力の消耗につながるだけだ。

 理久はただうつむいて、小さな呼吸を続けた。

「ん? 言っても無駄って思われてる? はぁ……」

 九重から感じ取れたのは、納得のいかなそうな呆れだった。理久のほうは、まるで溜息をつかれる謂れはないというのに――

「はいはい! わかった!」

 不意の怒声。

 九重は椅子を蹴り飛ばすようにどかすと、四段ウッドチェストに置かれたニッパーを手に取り、赤いグリップを握ったり開いたりしながら近づいてきた。理久は本能的に眉も、目尻も、頬も、とにかく表情に関する筋肉をすべて歪めた。

「そういう減らず口ばかり叩く悪い子は……切っちゃうぞぉ?」

 主語を無視したハラスメント――それから、硬くも油がかったニッパーの先が、理久の浮き出た血管やら、骨やらを執拗に撫で回し始めた。その感触は次第に腕へと移動してゆき、後ろ手に縛られた手首の辺りをまさぐるように弄ばれたあと、

「ねえねえ、ホントに切っちゃう? ブチンッ! ってさぁ」

 九重のエキサイトとともに、理久を拘束していた結束バンドが切れる音がした。徐々に手首の痛みが消えてゆき、足首も同じように、あっさりと束縛が解かれた。

 理久は噴き出た汗の感触に不快を覚えながら、荒くなっていた呼吸を整える。

「わたしね、ホントは縛る趣味ないの。ともあれ、これで部屋は出入り自由。ううん、どうせキミはまたここに戻ってくる」

 そんな九重の悪ふざけに、今日一番の怒りが芽生えた。

「んふふ……これは監禁ではなく確認。蟄居ではなく整合」

 それなのに、拘束がなくなって最初に覚えたのは――不確かな自由と、確かな虚空だった。監獄よりも少しだけ広いワンルームで、ずっと湧き上がっていたモノは汗とともに一気に冷たくなり、にじり寄る恐怖だけが心に固着した。

「キミは、わたしの記憶の一部になる。当然、わたしはキミの記憶になる」

 九重の小言、または呪文。

 演技めいた謎の重厚感によって、ふたりの空間では転機が訪れようとしていた。

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