4(楽園以降)

「聞いてきてやったよ」

 午前中の休み時間、前の席にどさっと座ったまひろは言った。

 今日は、牛乳は飲んでない。

 〝聞いてきた〟というのは、もちろん「清島一花」さんのこと。まひろと同じバスケ部の友達が1ーDにいたので、その子にいろいろと話してもらったのだ。なかなか頼れる友人なのである、阿瀬まひろというのは。

「とりあえず、いつも一人でいるタイプみたいだね」

 と、まひろは言う。

 話によると、清島さんは休み時間なんかは、決まって自分の席で本を読んだりなんかしているらしい。当人はそれでいたって平気みたいだし、まわりも特に気にしたりはしていない。太陽や月は、お互いがどんな動きをしていようと、気にかけたりしないものだ。

 たいして親しいわけじゃないのではっきりしたことはわからないけれど、悪い人ではないらしい。言動はいたって落ち着いているし、ふるまいは常識的――いつも、ただ静かにしているだけ。悪い人というより、むしろ親切なほうらしい。誰かが困っていたら、すぐ手を貸してあげたりする。

 ただし、趣味だとか家族構成だとか、そういう細かいところについてはわからない。血液型なんかについても。

「――お姫さまの情報に関しては、そんなものかな」

 と、まひろは何か言い残したことがないか、箱の底を探るような顔つきで言った。

「いや、お姫さまじゃなくて王子さま?」

「何でも」

 わたしはいつかまひろがやったみたいに、軽く肩をすくめてみせる。

 幸いなことに、清島さんが王族がどうかというのはたいした問題じゃない。とりあえず話を聞くかぎりでは、清島さんは見ため通りの静かな人で、とりたてておかしなところはないらしい。

「ま、友達百人作るってタイプじゃないのは確かだね」

 というのが、まひろの講評。まあ、それにはわたしも同意するけど。

「何にせよ、お近づきになるのは難しい相手かもね。ややこしいタイミングの、電車の乗り換えみたいに」

 とまひろはあくびを噛み殺しながら言った。さっきの数学の授業のせいだろう。まひろは見ため通り、あんまり頭を使うのが得意ってタイプじゃないのだ。

「……今、何かろくでもないこと考えなかった?」

 相変わらずの、勘の鋭さだった。それとも、わたしがわかりやすいんだろうか。

「ある意味では」

 とわたしはやっぱり正直に答えて、念のためにつけ加えておく。「――誉めてるのかもしれない」

 まひろは新しい実験装置を前にしたモルモットみたいに、胡乱げな目つきをした。悲しいことに、人は楽園で禁断の果実を食べて以来、相互不信と敵対関係に悩まされ続けている。

 そんな深遠なわたしの嘆きを頭から無視して、まひろは言った。

「で、あんたは結局、どうするつもりなわけ?」

 うん、問題はそこだった。

「――どうしようか」

 わたしは途方に暮れるというほどではないにせよ、ため息まじりにつぶやいておくしかない。

 鷲の羽をつかんで空を見あげる、一匹の年老いた猿みたいに。

「ちなみにこれ、高村光雲の『老猿』ね」

「知らんがな」


 昼休み、わたしは図書室に行ってみた。

 といって、どうするあてがあるわけじゃない。現状、わたしはただのストーカー(不本意ながら)で、彼女のことを一方的に知っているにすぎない(クラスと名前と、パズルのピースにもならない情報とはいえ)。彼女とわたしのあいだには、地球のまわりを回る人工衛星くらいに何の接点もないのだった。

 そもそも、わたしはどうしたいのか――

 わたしがつらつらとそんなことを慮りながら図書室のその場所をのぞいてみると、彼女はやっぱりそこに座って、一人で本を読んでいた。ピエタみたいなその瞳で、いつもと同じ姿勢で。

 気づかれないようにそれを確認してから、わたしは適当に本を一冊手にとって閲覧席に向かった。ミツバチテーブルのはしっこのほうに座って、さてどうしたものかと考える。

 今日は図書委員の当番じゃないので、とりあえず本を開いてそれを読むふりをした。別に図書室で眠ろうと、瞑想しようと、人類の行く末について思いをはせようと、それは勝手なのだけど、やっぱり本を読んでいる格好が一番自然で怪しまれない。

 何だか、本当にストーカーじみてきたみたいだ。

 一応、開いた手前があるので、本に目をとおしてみる。それはやたらに込みいった感じの本だった。Aの話がいつのまにかその中のBの話になって、それがまたその中のCの話になる。マトリョーシカみたいにきりがなくて、いつまでも終わりがない。そのうち、話を逆戻りするのか、このまままっすぐどこかへ行ってしまうのか、よくわからなくなってくる。

 わたしはけれど、あまり集中して本を読んでいることができなかった。

 清島さんのことが気になるとか、自分の行動が気になるとか、別にそんな理由というわけじゃない。

 それはもっと、物理的な理由によるものだ。

 閲覧席にはほかにも何人もの生徒が座っていたけど、そのうちの数人は一つのグループになってテーブルを占領していた。

 見たところ、あんまり図書室に用があるタイプには見えない。感じもよくない。イスの座りかたとか、態度とか、顔の造作とか。胸につけられた校章の色から察するに、たぶん二年生の、男子グループだった。

 最初はまじめに勉強でもしにきたのかもしれないけど、その決意はコーヒーに入れた角砂糖みたいにぼろぼろ崩れていったみたいだ。今となってはただ騒がしいだけの、無法集団になりさがっている。おまけにペットボトルのジュースを飲んだり、昼食の残りみたいなものを食べたりもしていた。

 すぐそばの壁にちゃんと、「飲食禁止」「図書室では静かに」と書いた貼り紙もしてあるのだけど。

 ほかの利用者も、そのグループには辟易してるみたいだった。けど、面と向かって公然と非難しようとする人間はいない。何しろ人数が多いし、柄も悪い。下手に手を出すとどうなるものか、わかったもんじゃない。いや、たぶん宝くじなんて目じゃないくらいの高確率で、ろくでもない目にあうのは間違いない。

 あいにく、司書の先生は不在みたいだし、カウンターの図書当番もだんまりを決めこんでいるみたいだった――まあ、無理もないけど。

 かくいうわたしにしても、そんな高度な対人スキルは持っていない。腕力も、ついでにいうと勇気も、たぶん。

 二年生グループは誰も文句を言ってこないのを幸いに、好き勝手に騒ぎまわっていた。その傍若無人ぶりは目にあまるし、許せないし、怒りは涌出量の多い温泉みたいにふつふつと湧いてくるけど、かといってどうしようもない。

 そうやってわたしが役にも立たない殺意を念波にして送っていると、不意に人影がすぐそばを通り抜けていった。

 その人影が二年生グループの横に立ってようやく、わたしはそれが誰なのかに気づいている。

 ――清島さんだった。

 彼女は白い月の光を思わせるような温度のない目線で二年生グループを一瞥すると、輪郭のはっきりした声で言った。

「静かにしてもらえますか?」

 それは怒鳴り声でも、嘲弄でも、冷ややかでもなかった。それは静かだけどよく徹る、澄んだピアノの一音みたいな声だった。

 二年生グループはその声を聞くと、ぴたっとしゃべるのをやめた。図書室にいるほかの生徒たちも、沈黙の段階をもう一つ下げた。世界が一瞬だけ、一時停止状態になったみたいだった。

 緊張が、段々高まっていくのがわかる。風船に空気を入れすぎたら、あとは破裂するしかない。問題は、そうなったときにどうなるか、なのだけど――

 二年生グループが、一瞬目配せした。それがどういう意味か、わたしにはわからない。〝生意気な一年生の女子を黙らせてやろう〟だったかもしれないし、〝興醒めだからもう行っちまおうぜ〟だったかもしれない。

 でも、その時――

 わたしは気づいたら立ちあがって、彼女のすぐ隣まで行っていた。そして、頭の中で言葉を用意する暇もなく、口を開いている。

「――すみませんが、図書委員の者です」

 まずそう言ってから、わたしは続けた。

「図書室はみんなで利用するものです。だから、大声で騒ぐのも、何かを食べたり飲んだりするのも禁止されてます。もしそれが守れないなら、別の場所に行ってもらわなくちゃいけません」

 わたしが言うと、二年生グループはまた口を閉ざした。それから簡単な目配せがあって、三々五々立ちあがる。挨拶もお詫びもなかったけど、全員そのまま図書室をあとにした。

 ドアが音を立てて閉まると、図書室には乱暴にひっかきまわされた引き出しの中みたいな、落ち着かない静けさが残っている。でもそれも、たいした時間はかからず元通りに戻っていった。

 みんながそれぞれの時間と場所に戻っていくなかで、わたしたちはまだ同じところに立ったままだった。今はもう誰もいなくなった、テーブルのすぐそばに。

 それから――

 不意に、清島さんがわたしのほうを見る。彼女はほんの少しだけ、微笑っているみたいだった。感謝と、称賛と、親愛を込めて。

 何だかそれは、きれいな雪がまっすぐ落ちてくる光景に似ているみたいだった。


 ――わたしたちが何となく話をするようになったのは、それからのことだ。

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