2(図書室の彼女)

 その日のお昼休み、わたしは図書室のカウンターに座っていた。

 こう見えて、わたしは図書委員なのだ。ちなみに、文芸部員でもある。今日はカウンターの当番の日なので、こうやって業務にあたっている。業務といっても、貸出と返却の受付がほとんどで、そんなに忙しいわけでも難しいわけでもなかったけれど。

 うちの高校には専属の学校司書さんがいて、図書室の様子はけっこう賑やかだった。新着図書のコーナーをきれいに飾りつけたり、ポップを作っておすすめの本を紹介したりしている。図書委員でそれを手伝ったり、自分たちで何かの企画を考えたりすることもあった。

 中学校時代に比べるとずいぶん広々した図書室には、ぱっと見でも十人くらいの生徒がいて、本を読んだり、ノートを広げて何か調べものをしたりしている。閲覧用の机は六角形のちょっとしゃれた感じのもので、それを適当にくっつけて配置してあった。わたしたちはそのテーブルのことをひそかに、ミツバチテーブルと呼んでいる。

 室内は当たり前のように静かで、本棚の本といっしょに物音まで整理整頓されているみたいだった。でもその静かさは密度が濃くて、中にいろんなものが溶け込んでいそうでもある。

 わたしはペアになった二年生の先輩といっしょに、返却された本のチェックにあたっていた。本に問題がないか、一応見ておくのだ。あんまり酷いようなら直前の借り主に問いただすこともあるし、簡単な傷だったらその場で修理してしまう。

「これ、ちょっと破れてるね」

 と、二年生女子の先輩が言ったのは、単行本の小説だった。とりあえず、聞いたことのない題名だ。でも表紙が気になるから、今度読んでみようかな――

 わたしがそんな埒もないことを考えているあいだに、先輩は本の損傷具合をチェックしている。横からのぞいてみると、ページ下部に人さし指の先くらいの破れがあった。人によっては気にしないかもしれない。わたしなら、気にしない。

 先輩は一年の時から図書委員で、こういうことには慣れている。カウンターの引き出しから修理用のテープを取りだした。もちろんそれは、セロテープみたいな野蛮なやつじゃなくて、本に優しい専用のやつだ。

「私、これやっとくから、吉村さんはハイカのほうをお願いね」

 ハイカ――配架のことだ。要するに、返却された本を元の棚に戻すこと。

「合点です」

 わたしはそう、ちょっと戯けて言ってから立ちあがる。もう何度か組んだことのある先輩なので、そのくらいの軽口は許容範囲だ。

 台車に乗っけた本を、わたしはえっちらおっちら運んでいく。全部で十冊くらいだろうか。途中、迷子にされた本だとかもついでに回収しておく。

 本を元に戻すのは、けっこう面倒な作業でもあった。うちの図書は一般的な日本十進法分類と同じやりかたで分けてある。だから番号にしたがって返せばいいのだけど、慣れてないとこれが難しい。そしてわたしは、まだそれに慣れていない。

 でも先輩に配架を頼まれたのは、実は好都合だった。内心では、わたしはちょっと喜んでさえいた。

 何故なら――

 わたしは台車を押して、図書室のはしっこへ向かう。全集だとか、古典文学だとかが置かれた暗い谷間みたいな棚を抜けて、何かの建築資材みたいに、本が壁いっぱいに並べられたところまでやって来る。

 この辺は、図書室でもあまり人気ひとけのないところだった。地震でも起きたら崩れてきた本で生き埋めになってしまうから、みんなそれを心配しているのかもしれない。あるいは、ぶ厚い本が殺人事件の凶器に利用されることを怖れているのかも。

 地震や撲殺の心配はともかくとして、わたしは台車をその辺に置いて、本の返却と整理をはじめることにする。

 ――本当は、そのをしているだけだったけど。

 わたしはそうやって、本の位置を直したり、意味もなく本を出し入れしながら、そっと背後の様子をうかがってみた。

 そこには、誰かが置き忘れていった傘みたいな格好で、閲覧用の机が一つ置かれている。窓際に近くて、本棚がすぐそばまで迫った、ごくごく限られた空間だった。

 何だか、小さな箱みたいに――

 奥まったところにあるし、狭いしで、いつも利用者はほとんどいない。窓からは学校の前庭がのぞけて、その席には意外なほどの明るさと温かさで光が注いでいる。

 大抵の時間は無人のその席に、でも今は一人の女の子が座っていた。

 その子は机に本を広げて、ごく落ち着いた様子でそこに目を落としている。それは音のない、とても静かなまなざしだった。まるで鏡でも使ったみたいに、その瞳にきれいに本の文字が写しとられていくのがわかる。

 風に流れるみたいに癖がかった、でも柔らかな金属線を思わせる長い髪。長袖とはいえ、影まで薄くなりそうな、ほっそりとした体つき。その横顔は、まだ形のはっきりしない朝の光を集めたみたいに繊細だった。

 そして彼女の瞳は、ほんの少しだけ灰色がかっている。

 何故だかその灰色は、わたしにピエタを連想させた。中学校の美術の教科書に載っていた、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロのピエタ。あの大理石の、その色を――

 彼女は本に目を落としたまま、わたしのことに気づいた様子なんて少しもない。というより、そこにはまわりにあるものすべてが一時的に存在するのをやめたみたいな、そんな静けさがあった。

 もちろんそれは、わたしがまひろに言ったところの〝気になる子〟だった。

 初めて彼女を見かけたのは、偶然だった。お昼休みに本棚をうろうろしているとき、その場所に彼女が座っていたのだ。今と同じ位置、同じ格好で。

 以来、わたしはことあるごとに彼女の姿を観察している。お昼休みには、彼女は必ずそこに座っていた。そこに座って、いつも一人で本を読んでいる。とても静かに、とてもひっそりと、それこそ幽霊みたいに。

 ――今日も、それは同じだった。

 わたしはしばらく本の整理のふりをしてから、その場を離れた。それでもやっぱり、彼女の様子に変化はない。まるでこれからも、これまでも、永遠に近い時間ずっとそうだったみたいに。

 そしてやっぱり、わたしは彼女の名前さえわからないままなのだった。スカーフの色から、同じ一年生だということがわかるくらいで。

 まあ、まひろが呆れてしまうのも無理のない話ではある。

 わたしはできるだけ急いで、先輩に怪しまれないように本を片づけてしまう。そうして空の台車を押してカウンターまで戻ると、先輩は男子生徒を相手にして本のリクエスト票の書きかたを説明しているところだった。

 十二時前に舞踏会から帰ったシンデレラみたいに澄ました顔で、わたしはカウンターの席に着く。それから何食わぬ顔のまま、まわりにある細々したものの整理にとりかかった。

「――すみません、これお願いします」

 と声をかけられたのは、その時だった。

 顔を上げて、わたしは一瞬だけ心臓の鼓動がおかしくなってしまう。うっかり時計を落っことして、ゼンマイや歯車や文字盤なんかがばらばらになってしまったみたいに。

 何しろそこには、〝彼女〟が立っていたから。

 彼女はカウンターに、本を一冊置いていた。その本を借りたい、ということだろう。――うん、それで間違いない。わたしについて何か言いにきたわけでも、その本が面白いからわたしに推薦しているわけでもない。

 わたしは海の底で酸素ボンベを使うみたいにして、深呼吸する。心臓には電気ショックを当てて、壊れた時計は全部組みたてなおしてしまう。

「――貸出ですね」

 わたしは笑顔を浮かべて、あくまで愛想のいいただの図書委員として本を受けとる。熱湯に手をつっこんでも、炭火の上を歩かされても、それを顔に出したりはしない。

 図書カードと本のバーコードをスキャナーで読みとって、わたしは滞りなく貸出処理を完了した。それこそ、くまのプーさんみたいに無邪気な目つきをしたままで。

 彼女は儀礼的な会釈だけ残して、そのまま行ってしまう。やっぱり、わたしのことに気づいた様子はない。ほんの少しの関心みたいなものも。その歩きかたは本を読んでいたときと同じように、とても静かでひっそりとしていた。

 そうして彼女の気配と笑顔を残したままで、わたしはパソコンの画面を見つめる。

「…………」

 そこには、彼女の借りた本(ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』)と彼女の名前(1ーD、清島一花きよしまいちか)が表示されていた。

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