嘘の箱庭

宿木翠

Side→S 1話

 ここはどこなんだろうか。

 頭がぼうっとしている。まるで思考に靄がかかっているような。

 不快さは感じなかった。心地良い微睡のようにそれを受け入れれば、救われる気がして――。


 疲労が限界だ。

 脚に力が入らずその場に倒れ込んだ。

 地面に倒れ伏すと、爪の中に湿った土が入り込んだ。

 痛い、痛い。

 脚も頭も、腕も……。

 泥が髪につくのも厭わず仰向けになると、景色が映り込んだ。


 鬱蒼と茂る森の中。

 風通しが悪く日当たりも悪いそこは、さながら人目を忍んでいるよう。

――心地いいんだ、それが。

 ずっと此処にいてもいいくらいだと青年は瞳を閉じた。

 疲労も限界、それでもお腹は空く。

 一歩も歩けなくても後悔はないんだ――。


 サクサクと土を踏む音が聞こえる。

 それはどんどん大きくなっているようだ。

 確かな足取りで迷いなく此方に近づいてくる様子に、青年は瞳を開けた。


 視線がぶつかる。

 目の前にいたのは、眼鏡をかけた青年だ。

 天然パーマの灰色の髪に、黒縁眼鏡。年の頃は30代に見えるが、詳しい年齢は読み取れなかった。

 若者のような軽さはないし、中年と言うには顔が若すぎる。

「…………」

「大丈夫かい?」

 喉がカラカラで声も出ないのだ。音もなく見つめていると、彼の方から声を掛けてきた。

 何やら考えた様子で彼はしゃがみ込むと、小さなリュックから水筒を取り出した。

 やがて手を差し伸べ、ゆっくりと抱き起してくれる。

 助け起こされた青年も眼鏡を掛けている。

 ずれたレンズの隙間から助けてくれた彼の顔を見た。

 悪意はないように見える。優しい面持ちをしていた。


 力なく座り込む様子に何も言わず、水筒から蓋を取り外し、水を注ぎ入れた。

「どうぞ」

「………」

 軽く目を伏せたことで感謝の気持ちが伝わると嬉しいのだが……。

 力の入らない両手で受け取り、水を飲み干す。

 冷たさが気持ち良かった。

 最後の一滴まで飲み干すと、生気が戻った気がした。


「どうぞ、それだと足りないだろうから。家は近いからいくらでも飲んで大丈夫だよ」

「………ありが………」

 ありがとうございます、と告げたつもりだった。

 しかしまだ声になり切らずに途中で途切れた。

 優しさを与えてくれる彼と意思の疎通を図らなければ。

 言葉に甘えて水を貰い続ける事数回。


「……は……」

 唇の隙間から伝い落ちる水を拭い、彼を真っすぐと見つめた。

「うん、さっきより元気が戻っているようだ。ちゃんと座れるようになったね」

「ここは……?」

 改めてあたりを見回す。

 どこを見ても木、木、木。どこも同じような風景で目印の一つもない。

 ひんやりとした空気が肌を撫でた。

 冷え切った身体は何も感じなかったはずだが、ようやく寒さを実感した。

「僕の私有地の敷地内の森だよ」

「私有地……。俺、人の私有地に入り込んでたんですね……。すみません」

「気にしないで。迷い込んだんでしょ。

 実際どこ見ても同じような光景だから、迷っちゃうのは仕方ないよ。

 ほら、手を貸して」

 言われる儘に右手を出すと、彼はしっかりと掴んだ。

 立ち上がる彼に、促される儘立ち上がった。

 そのまま肩を貸してくれる、移動させようとしているのだろうか。

「あの……」

「所謂行き倒れだよね。このまま死なれると目覚め悪いんだ。

 とりあえず家に来なよ。温かい食事が必要だよ。

 あと汚れているからお風呂にも入って。部屋の中でゆっくり眠るといい」

「そんな……。悪いです、そんなご厚意を貰って…」

 恐縮してしまう。

 目の前の彼からは悪意は全く感じない。優しさと善意が沁み込んで心地良かった。

 だからこそ、彼に大きな迷惑はかけたくない。

「気にしないで。僕は寂しがり屋なんだ。

 そうだ、名前を聞いてなかったね。僕の事はグレイと呼んで」

「グレイさん……?」

 ハーフか外国人だろうか。

 オウム返しに声に出した青年に、グレイは微笑みを返した。

「変わっているようだけど、これが僕の名前だよ」

「そうなんですね。……俺は……、……」

――俺は……誰なんだろうか。

「……どうしたの?」

「ああ、えっと……すみません……。

 名前が、思い出せないんです……」

「名前が思い出せない?」

 思い出そうとすると頭痛が酷いのだ。

 頭を押さえる彼に、グレイはその部分を覗き込んでいる。

 見た感じ外傷はなさそうだが……。


「そう。分かった。落ち着くまで家にいるといいよ。

 部屋は余っているから気にしないで」

「え、いいんですか……。でも……」

 いくらなんでも迷惑になってしまう。

「でも決まりごとはお願いするけど。

 僕の家族と仲良くすること」

「それは勿論です……」


 いいのだろうか、ここまでお世話になってしまって。

 でも、グレイは嫌がるそぶりは微塵もなく……

――寧ろ俺にいてほしいみたいに見えるんだけど……。

 なんでだろうか。

――流石に気のせいだよな。俺の都合の良い夢だ。

 記憶喪失になって、運良く好意のある人に拾われてずっと親切にされるなんて。

 とはいえ、行く宛もない。荷物もない。記憶もない。

 このまま落ち着いて考えるのが最良の判断だと言えるだろう。


「当面の間、名前がないと不便だよね。僕が名前をつけていいかい?」

「あ、はい」

「……シュウと。柊と書いてシュウ」

「……柊、ですか。ありがとうございます。素敵な名前ですね」

 優しいテノールで紡がれる新しい名前の響きが心地良い。

 それに、懐かしさも覚えるのだ。

 嫌なんかじゃなかった。

「ほら、着いたよ。ようこそ、僕の屋敷へ」


 気が付けば、目の前に大きな屋敷があった。

 古びた洋館と聞いてぱっと思いつくものを体現化しているような建物だった。

 大きな正門をくぐると、花の香りが鼻をくすぐった。


「……これは……」

「ふふ、綺麗だろう?」

 庭の石垣から超えて顔を覗かせている花。

 花壇のそこらかしこに咲き誇っている色とりどりの薔薇。

「…………見事ですね」

 きちんと手入れされている薔薇の花園。

 強めの香りだが、決して不快になるようなものではなかった。

 

 庭を見渡して大輪を眺めていると、ふと一人の人影が目に入った。


「ただいま、ロゼッタ、お客さんだよ」

 グレイが優しく声を掛けると、しゃがみ込んで薔薇をチェックしていた娘が立ち上がってから振り向いた。

「お父さん!おかえりなさい!お客さんもいらっしゃいませ」

 年の頃は17,8あたりだろうか。

 無邪気な笑顔はそれよりも年下を思わせる。

 プラチナブロンドの腰までのストレートロングに、青い瞳。

 やっぱり外国人だろうか。

 ぱたぱたと駆け寄ってくる娘に、会釈で挨拶を返す。

「初めまして……。柊です…。ちょっと、道に迷って、その……」

「ロゼッタ。柊はね、森の中で行き倒れていてね。しかも記憶がないんだ」

「記憶喪失……!?それは大変……!

 初めまして、グレイの娘のロゼッタです。記憶がないのは大変ですよね。

 どうかゆっくりしていってください」

「すみません……。ご迷惑をおかけするつもりはないんですけど……。

 俺も途方に暮れていて……」

 なんだか押しの強い家族だと思う。いいんだろうかこのままお世話になって。

 しかも家族の中に入るのに迷惑なんて微塵も思わせないし。それだけ人間が出来ているのだろうか。

 それよりも一つ気になることが。


「グレイさん、あの……。何歳で子供作ったんですか?」

 目の前の男が年齢不詳過ぎて思わず突っ込んだ。

「あはは、気になるよねえ。まあ本当の娘じゃないんだけどね。

 僕は実の娘のように思っているよ」

「はあ……そうですか……」

 実の娘じゃないのか。養女?連れ子?

 気になったがまだ初対面、人の事情に詳しく突っ込むべきではないだろう。

「わたしもお父さんの事は本当のお父さんと思っているよ!

 お母さんもいるんだけどね。

 わたし達、血は繋がらないんだけど本当の家族として暮らしているの」

「え……?」

 突っ込まずにいようと思ったが、娘の方から説明された。

 グレイといい、ロゼッタといい、距離感近すぎではないだろうか。

「そういうこと。風変わりな家だけど、暫く家にいていいよ。

 お父さんって呼んでもいいんだよ?」

「え、えっと、あの……」

 話の展開が早すぎてしどろもどろだ。

「あなた。お客人が困っていますよ。あまり困らせないであげてくださいな」

「ごめんごめん」

 玄関から一人の婦人が出てきた。

 茶色の肩までの髪を揺らし、藍色の瞳には知性を宿している。

 年の頃はグレイと同じくらいに見えた。

 グレイは出てきた女性の肩を抱き寄せる。

「妻のカスミです」

「初めまして。どうぞ中へお入りください。

 知り合ったのも何かの縁でしょうから…。どうか遠慮なくお寛ぎくださいね」

「ありがとう、ございます……」


 ひどく懐かしい想いだ。

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