第一章 被災 4.無線 --2日目--

 ご老人を局長と呼ぶことにした。アマチュア無線局のオーナーだから。この呼び方、アマチュア無線では普通だ。っていうか、法律上もそうだったはずだ。

 局長に席をお譲りいただく。椅子にキャスターが付いているので、ヘッドホンを外して机から体を起こし、リクライニングさせようと座面下のレバーを操作したら、局長の液体で手が汚れた…… 厳しい。局長の体を支えながら椅子をコロコロ移動して部屋の隅まで行き、角に肩と頭をつけて気道を確保した。

 洗面所で手を洗った。ついでに洗面台の下の棚を覗くと除菌消臭スプレーとぞうきんがあったので拝借する。それと、リビングからクッションを持ってきた。

 局長が床に作ったシミに除菌消臭スプレーを大量に拭きかけ、その上にクッションを置く。机の上もスプレーしてぞうきんでさっと拭く。無礼を承知で局長の下半身に消臭スプレーをかけさせていただいた。これで良し。

 別の部屋から椅子を持ってきて準備完了だ。


 目の前の壁には世界地図と日本地図が貼ってあり、その周囲に様々な絵はがきが貼られていた。QSLカードだ。アマチュア無線家1人ひとりがオリジナルのQSLカードを作っていて、通信をした証として交換するやつだ。これを集めたかったんだよな。

 天井近くには局長のコールサインの立派なプレートが貼られていた。


「JA1**って…… 昭和か!?」


 コールサインは総務省がすべての無線局に発行する記号だ。昭和の頃は日本を示すJと地方を示す数とアルファベットでJA1AAから申請順に振られていた。関東地方が1だ。

 そのうち全部のアルファベットを使い切って、末尾の英字が3桁に増えたり、J以外の文字を使うなどして体系が崩れた。平成も後半になるとJで始まるコールサインはベテランだけだったはずだ。大学のアマチュア無線部は昔からあるからJA1の2桁だったが、友人たちは7Lとかで始まる全然違うコールサインだったな。俺は開局できなかったからコールサイン持ってないけど。


 局長のヘッドホンを借りて装着するとノイズが聞こえてきた。アナログだな。デジタルだったら無音になるはずだ。

 我慢できるまでボリュームを上げてノイズに埋もれた人の声が聞こえないか確認する。しばらく耳を澄ませたがノイズだけだ。入門書を見ながらチューニングダイアルを回して呼出周波数まで周波数を変えてみる。


 アマチュア無線は見知らぬ人が会話を楽しむものだ。見知らぬ人がどうやって出会うのかっていうと、呼出周波数というものが世界共通で決まっていて、そこで呼びかけたり、遠くから呼びかけてくる人を待ち受けたりするのだ。そこで出会ったら示し合わせて空いているべつの周波数に移動するっていうやり方なんだ。

 周波数を変えている途中、ビーコンのような機械的な信号音とデジタル信号らしき音が聞こえる周波数がいくつかあったが、こちらはアナログだ。意味がわからないし応答することもできない。

 呼出周波数でしばらく耳を澄ませたが、誰も呼出をしていない。意を決して局長のコールサインを使ってこちらから呼びかけることにした。


「ハロー、CQ、CQ。こちらはJA1**。どなたか聞こえますか?」


 耳を澄ませてしばらく待つが、何も聞こえない。3回繰り返した。アンテナの向きを変えるローテータを操作して電波の方向を変えて試した。やっぱり誰も応答しない。


 電波の出力を確認すると 50Wだった。あ!

 壁に掛けられている額縁入りの局長の免許証を見ると『第1級アマチュア無線技士』とある。入門書を見ると、この周波数帯では1級は 50Wまで出して良いとある。ところが俺は4級だ。4級は 20Wまでしか出せないのだ。うっかり違法行為をしてしまった。

 だが待てよ。この非常事態で少々の違法行為が何だって言うんだ?

 開き直った俺は構わずに電波を出しまくった。そして解った。今、この周波数帯は誰も使っていないようだ。

 無線機を切り替えて他の周波数帯を試すが、やっぱり何も聞こえないし応答もしてくれない。全滅の二文字で視界が塞がれる気分だ。


 他に使える周波数帯は無いものか? 入門書を見ると最後の方に不穏な文字を見つけた。


『非常通信用周波数』


 慌てて説明を読んだ。いくつかの周波数帯に非常通信周波数が設定されている。中でも 4630kHzは政府が定めた非常通信用周波数だ。警察庁、自衛隊、海上保安庁などと直接交信が可能だと!

 そう言えば、そんな話をどこかで聞いたっけ。一度も使ったことがないから忘れてたわ。


 使ったことがないのは当たり前だ。こいつは3級以上を取らないと使えないCWという電波形式だからだ。いわゆるモールス符号で通信する奴だ。

 俺はモールス符号は全く知らない。だから送信はできないが、受信はできる。受信したところで通信内容は解らないのだが、誰かが通信しているということが解れば心強いじゃないか。それに、毎時0分と30分から10分間、必ず聞けって書いてある。何のことか解らんが、とにかく聞いてみよう。


 局長の機材を探して対応する無線機を引っ張り出して、アンテナと電源、ヘッドホンを接続して、ボリューム最大にしてみた。

 何も聞こえない。そう簡単にはいかないか。取りあえずスピーカーに切り替えて、これはこれで受信しっ放しにしよう。


「どうやらアマチュア無線は期待薄だな。さてどうしたものか……」


 周りを見渡すとBCLラジオがあった。世界中のラジオ放送を聞くための高性能ラジオだ。アンテナは繋がっている。電源を入れる。中波にして関東のAM放送に周波数を合わせる。ほとんどの局も無音だ。一部でCMとか録音番組らしい放送は聞こえるが、この緊急事態につまらないトーク番組を放送しているなんておかしいよな。

 短波に切り替えて信号レベルのメータを見ながらゆっくりダイヤルを回していく。ノイズしか聞こえない。


「お手上げか」


 電波は昼間よりも夜の方が良く飛ぶ。夜になったらもう一度試してみよう。

 無線雑誌を取り出してISSとの通信方法を確認する。普通の音声通信もしているだろうが、その情報は公開していないのかな。

 子供達に夢を与えるためだろうか、学校向けの交信はやってるみたいだ。ただし、事前に日時を調整する必要があるらしい。

 ARISSという団体のサイトに通信方法が載っているそうなので、早速スマホで見てみる。なるほど。ARはアマチュア無線、ISSは国際宇宙ステーションのことか。

 周波数は一般的だな。交信は英語か。自信ないな。今、日本人宇宙飛行士が滞在してたっけ?

 なになに、アマチュア無線の免許を持った宇宙飛行士が余暇で一般交信も希にやるのか。ひょっとしたら向こうも意識のある人間を探しているかもしれないしな。って言うか、地上の様子がわからなくて困ってるんじゃないのか? ダメ元で交信してみよう。

 スマホでISSの現在位置を確認する。


「あ、通過したばかりか。次は1時間以上先か」


 雑誌にはリピーターという実験用の仕組みの利用方法も書いてあった。アップリンクという所定の周波数でISSに特定の信号を送ると、ダウンリンクという別の周波数でこちらから送った信号がそのまま返ってくるそうだ。宇宙ステーションと信号のやりとりができる。それだけで嬉しいのがアマチュア無線家だ。うらやましい。

 この周波数帯も一般交信で使うものと同じだ。ココの設備で十分に可能だ。


 まだ時間がある。とりあえず食事にしよう。バッグからカップ麺を取り出し、キッチンを借用してお湯を沸かす。

 振り返るとご婦人がこちらを見ている気がした。落ち着かない。ダイニングテーブルを借りようかと思ったが、ご婦人から死角になるキッチンの隅で立ったままカップ麺をすすった。


「ごちそうさまでした」


 カップはシンクに置かせてもらった。申し訳ない。


 無線室に戻ってISSとの通信準備をする。そろそろ地平線から登ってくる頃だ。

 送信を開始する。一般の通信と同じだ。宇宙飛行士が聞いているかもしれない周波数で『CQ』で呼びかける。

 受信機から聞こえる音に耳を澄ませる。なにも聞こえない。ISSアマチュア無線局のコールサインを直接呼び出してみる。やっぱり応答がない。


 リピーターを使ってみる。信号を送信しながら受信機に耳を澄ませる。やっぱり聞こえない。送信機や受信機をいろいろ調整したがだめだ。

 そうこうしているうちにISSが地平線の先に沈む時間になった。


「1時間後にもう一度やろう」


 それまで雑誌をよく読み直すことにした。機械が応答してくれないということは、こちらのやり方が間違っている可能性が高い。何しろ、地上のシステムは大概動いているからな。ISSの乗組員がどうなっているか解らないが、常時動いている機材はそのまま使えると思うんだよな。


 1時間後、今度はうまくいった。リピーターを使って受信機から信号が聞こえてくる。ISSのアマチュア無線機は生きている。


「クルーが気がついてくれたら呼びかけてくれるかもしれない」


 待ち受け周波数でじっと聞き耳を立てるが、何も聞こえない。こちらからCQを呼びかける。ISSのコールサインも呼び出してみる。

 何の反応もない。虚しい。


 夜、もう一度、地上向けの各周波数で聞き耳を立てたり、呼び出したり、ラジオ放送を探したりしてみた。だが聞こえるのはノイズ音か機械の信号音ばかりだ。人の声はCMと録音番組らしきものだけ。外国の放送がよく聞こえる短波ラジオも同じだ。少なくとも日本の周辺は同じような状況なのだろう。西アジア・ヨーロッパ・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアはどうだろうか?


「停電だ! 発電所が停まったのか?」


 突然照明が消えた。スマホのライトを使って足下を照らして窓際に行く。昨日は点いていた街灯が消えている。外は真っ暗だ。

 スマホを見る。まだアンテナアイコンは立っている。基地局はバッテリーで動いているようだ。

 とはいえ、数時間しか保たないだろうな。もうじきネットとあらゆるシステムが使えなくなる。ネットという生命線から切り離される。何とも言えぬ恐怖がこみ上げてきた。


 今日のところは諦めて家に帰ることにしよう。念のため、無線機の電源をオフにして、アンテナをアースに接続しておく。落雷があったときに無線機が壊れないようにするためだ。この常識は入門書で思い出した。

 棚にあったハンディ無線機を2台、144MHzと430MHzを借用することにした。バッテリーの充電器も借用する。これで別の場所に行って通信してみよう。充電方法は考えなきゃな。


「局長、今日はありがとうございました。ハンディ機お借りします。また来るかもしれません。お大事に」


 ご婦人にも挨拶して外に出ると初夏とはいえ少し肌寒かった。いや、震えは恐怖によるモノかも知れない。


 広い庭から空を見上げると満天の星だった。街灯やほとんどの照明が消えたからだ。ああ、多摩の夜空にはこんなにもたくさんの星があったんだな。

 東の空は少し赤かった。都心ではまだ火災が続いているようだ。こっちまで来ませんように。


 スマホでISSの現在位置を確認する。ちょうど南の空に見えるはずだ。しばらく眺めていると動いている光がある。あれだ。あれがISSだ。今日、俺が通信した唯一の相手だ。感無量だ。


 星明かりは明るかった。街灯と変わらないほど周囲の状況が見える。自転車のライトだけで移動は十分にできる。星明かりがこんなにも明るいものだとは知らなかった。

 なんの成果も得られなかったにもかかわらず、停電の恐怖も薄らいで、なんとなくほっこりした気持ちで団地の部屋に帰った。


"""

 彼の想像通り、残念ながらISSも地上と同じような状況であった。

 ラジオ放送局もアマチュア無線家も、自動送信だけだった。それは日本国内に限らず、全世界で同じ状況であった。

 だが彼はそのことを知らない。意識のある人を探そうという彼の努力は今後も続くのであった。実際、ほんの少しだが意識を保っている人もいるのだ。彼は一人ではないのだ。ただ、無線の知識を持った人はほとんどいないのであるが。


なお、本作はフィクションである。実在のISSや無線通信規格などとは一切関係がないことをお断りしておく。

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