第47話 聖女様の涙

 待ちに待ったリハーサルメイク当日。陽葵ひまりは楽しみ過ぎて朝からテンションが高かった。アトリエに行って、何度もメイク道具を確認して、完璧に仕上げられるようにイメージを膨らませていた。


 ちなみに今日は定休日。つまりじっくりルナのメイクに集中できるというわけだ。


「楽しみだなぁ。ルナさん早く来ないかなぁ」


 期待に胸を膨らませながらソワソワしていると、ティナはやれやれと呆れた表情を浮かべた。


「花嫁よりヒマリがはしゃいでどうするんだ」

「そうだよね。今日の主役はルナさんだもんね。私は冷静でいないと」


 平常心を取り戻すように陽葵は深呼吸する。それでも高揚感は簡単には抑えられなかった。


 そうこうしているうちにルナがやってくる時間になる。店の中で落ち着きなくうろうろしていると、チリンチリンと音を立てて扉が開いた。


「お邪魔します……」


 ルナの声が聞こえて、陽葵は急いで入り口に駆け寄る。


「ルナさん、待ってました……ってどうしたんですか? その大荷物……」


 ルナは大きな鞄を持って店の入り口に立っていた。リハーサルメイクにしては荷物が多すぎる。


 視線を上げた時、別の異変に気が付いた。ルナの目元は、泣いた後のように赤く腫れていた。


「どうしたんですか!? 何かあったんですか?」


 陽葵は笑顔を引っ込めてルナの様子を窺う。店の奥にいたティナも、驚いたように固まっていた。


 二人から注目されたルナは、スンと洟を啜る。それから糸が切れたようにボロボロと泣き始めた。大粒の涙が真っ白な頬に伝う。その光景を見て、陽葵はパニックになった。


「わわわわっ! ルナさん、どうしたんですか?」

「ごめ……なさい……急に……泣き出して……」

「と、とりあえず、ハンカチををを……」

「落ち着けヒマリ。お前が慌ててどうする?」


 ティナはルナのもとに駆け寄ると、真っ白なハンカチを差し出した。なんて気の利く魔女さんだ。


 ルナはハンカチを受け取ると、そっと目元を拭った。


「ありがとうございます……魔女様……。ご迷惑かけてしまって……すいません」

「とりあえず落ち着け。無理に喋ろうとしなくていい。いま温かいお茶を用意するから待ってろ」


 そう告げると、ティナは2階に走って行った。その背中を見つめながら、陽葵も声をかける。


「とりあえず、私たちも2階に行きましょうか」

「はい……」


 陽葵はルナの背中をさすりながら、階段を登った。


~*~*~


 リビングはカモミール、もといカーミルの香りで包まれている。カーミルには緊張緩和の作用があるため、落ち着きたいときにもぴったりだ。


 ティナはカーミルティーにミルクと蜂蜜を加えてまろやかにアレンジしてからルナに差し出した。


「ほら、これを飲んで落ち着け」

「ありがとうございます、魔女様」


 涙は収まったが、依然として浮かない表情をしている。ルナがカーミルティーを一口含んでほっと一息をついてから、事情を尋ねてみた。


「ルナさん、一体何があったんですか?」


 陽葵が尋ねると、ルナは視線を落とす。しばらくは沈黙が続いたが、静かに事情を明かした。


「結婚式の日が近付くにつれて、これまで感じていた不安がどんどん大きくなったんです。それで勢い余って家を飛び出してしまって」

「そんなっ……どうして……」

「私はネロの花嫁には相応しくないのではと思うようになって……」


 チャラ勇者に愛想を尽かしたというならまだ分かるが、相応しくないというのは理解に苦しむ。


「相応しくないなんて、どうしてそんな風に思うんですか?」


 ルナの抱えているものが知りたかった。お節介と知りつつも、彼女の事情に踏み入った。


 ルナはカーミルティーを含んでから、ゆっくりと話を続ける。


「私はとても心の狭い人間なのです。今日もネロが他の女性と楽しそうに会話をしているだけで物凄く嫉妬してしまいました」

「またあのチャラ勇者はっ」


 つい先日、フラフラしていると逃げられちゃいますよと忠告したばかりなのに、性懲りもなく他の女性を口説いていたということか。勇者への憤りが沸々と湧きあがってきた。


 怒りに支配される陽葵とは裏腹に、ルナは大きくかぶりを振る。


「違うんです。今日は口説いていたわけではありません。ただ、お話をしていただけなんです。それなのに私は嫉妬してしまって」


 ルナは視線を落としながら話を続ける。


「こんな自分が情けなくて……。ネロの立場や生い立ちを考えれば、ほかの女性に言い寄るのは仕方ないと分かっているんですけど、私はどうしてもそれが受け入れられなくて。このままではいつか、ネロを縛り付けてしまいそうで」

「縛り付けるって」

「手足を縛り付けて、地下室に閉じ込めてしまったり……」


 それはマズい。一気に事件の香りがしてきた。陽葵が冷や汗をかいていると、ティナがボソッと。


「縛り付けておけばいいんじゃないか? その方が町が平穏になりそうだ」

「ティナちゃん! そこは賛同しちゃダメ!」


 陽葵が窘めると、ティナはフッと鼻で笑いながら「冗談だ」と言った。こんな時に冗談を言わないでほしい。まったくもうっと溜息をつくと、ルナが俯きながら言葉を続けた。


「こんな風に考えてしまうなんて花嫁失格ですよね。私と一緒にいたら、ネロを不幸にしてしまいそうで怖いんです」


 膝の上で握られた拳は僅かに震えていた。


 聖女様の愛は、陽葵が想像していた以上に深くて重いらしい。一歩間違えば破綻に繋がりかねないほどに。


 そんな自分の一面に気付いてしまったからこそ、不安に駆りたてられているのだろう。真面目過ぎるルナの性格も、深刻に考えてしまう原因なのかもしれない。


 陽葵には、ルナのように誰かを深く愛した経験がない。だから本当の意味でルナの悩みに寄り添ってあげることはできそうにない。それでもルナの心に潜む不安を、ほんの少しでも振り払ってあげたかった。


「ルナさんは、本当にネロさんのことが大好きなんですね。正直羨ましいです。そこまで深く誰かのことを愛せるなんて」


 ルナは顔を上げる。不安そうなルナを励ますように、陽葵は伝えた。


「ルナさんが悩んでいるのは、ネロさんの幸せを心から願っているからだと思います。だから、自分の存在が幸せの妨げにならないか不安になってしまったんですよね」

「そう……だと思います」


 ルナは躊躇いがちに頷く。


 恋愛経験の乏しい陽葵では確かなことは分からない。想像でしか補えないことだけど、ルナの心の内に潜む不安がぼんやりと見えてきた。


 大好きだからこそ、幸せになってもらいたい。だけど自分が幸せを与えられる存在なのか分からない。自分の至らない点は、自分が一番よく分かっているから。


 きっとルナは理想と現実の狭間で揺らいでいるのだろう。そこでふと、過去のやりとりを思い出した。


『こんな私でいいのかな?』


 結婚式を挙げる直前、お姉ちゃんがふと呟いた。いつもは自信に満ち溢れたお姉ちゃんが、そんな後ろ向きな発言をするのは意外だった。


『マリッジブルーね』


 お母さんは達観した口調で言い当てる。そのまま三人分のコーヒーをテーブルに置いた。


 確かあの時、お母さんはこんな風に言っていた気がする。


「なるようになるわよ」


 陽葵の言葉に、ルナとティナは驚いたように目を見開く。先に口を開いたのはティナだった。


「随分適当なことを言うんだな……」


 確かにその通りだ。もっと具体的なアドバイスをした方がルナのためになるだろう。


 だけど、恋愛経験の乏しい陽葵には建設的なアドバイスなんてできないし、夫婦関係のアドバイスなんてもっとできない。そもそも未来のことなんて誰にも分からないのだから。


 上手く行くと確信していたのに、思いもよらない場所で躓いてしまうこともある。反対に、先行きが不透明だったのに、いつの間にか上手くいっていることもある。かつての陽葵がそうだったように。


 何も起こっていないうちから思い悩むのはナンセンスだ。考えすぎて前に進めなくなるよりは、なるようになるとドンと構えながら前に進んでみたっていい。


 こんなアドバイスが役に立つのかは分からないが、陽葵は自分なりの考えを伝えた。


「不安になってしまう気持ちも分かります。結婚って人生を左右する大きな出来事ですからね。だけど、ルナさんがネロさんの幸せを心から願っているのであれば、きっとなるようになると思います」

「いい意味で、なるようになる」


 ルナは陽葵の言葉を繰り返す。ルナの瞳に光が宿ったような気がした。

 心の中に渦巻いた不安が、ほんの少しでも晴れればいい。陽葵はそう願っていた。


「でも、監禁はダメですよ! お巡りさんが来ちゃいます」


 陽葵はへらっと笑いながら冗談めかしく伝える。するとルナはふふっと吹き出すように笑った。


「そうですね。どんなに嫉妬しても監禁はやめておきます」


 笑ってもらえて良かった。空気が和らいだところで陽葵は椅子から立ち上がる。


「ルナさん、お腹空いていませんか? 泣くとお腹空きますよね?」

「ああ、そういえば……」


 ルナは少し恥じらいながらお腹を押さえる。やっぱりお腹を空かせていたらしい。もしかしたら朝から何も食べずにここまでやって来たのかもしれない。


 陽葵は急いでキッチンに走る。


「待っててください! 昨日作ったラタトゥイユが余っているので出しますね。バケットに乗せて食べたら美味しいですよ!」


 トマト、ズッキーニ、ナス、パプリカを入れた具沢山ラタトゥイユを、スライスしたバケットに乗せて食べたら美味しいに決まっている。チーズを乗せて焼いたらもっと美味しくなりそうだ。陽葵はいそいそと準備を始めた。

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