第37話 メイクって楽しい!
口紅が固まるまでの待ち時間は、二階のリビングに移動してお茶を楽しんでいた。
今日のお茶は、リリーが摘んで来てくれたローズヒップに似た植物を使ったハーブティー。ロイヤルなお育ちのアリアに、ごく普通のローズヒップティーを出すのは恐れ多かったが、何食わぬ顔で飲んでくれた。
お茶をしながらガールズトークに花を咲かせていると、あっという間に一時間が経過。みんなで再びアトリエに戻った。
「そろそろ口紅が固まった頃合いだね。そしたら繰り出し式の容器に差し込もうか」
「ええ。容器もちゃんとご用意しましたよ」
ロミはシルバーとゴールドの容器を取り出した。
「どちらの色が良いのか分からなかったので、2種類ご用意しました」
「ありがとう、ロミちゃん。2色から選べるのもワクワクするね!」
スタイリッシュなシルバーとゴージャスなゴールドから選べるのは胸が躍る。容器は十分な量を用意してくれていたから、みんなに色を選んでもらうことにした。
「容器を選んだら、固まった口紅を折れないように差し込しこんでくださいね」
みんなは慎重に口紅を容器に差し込んでいく。すると口紅が完成した。
「完成ですね! みなさん初めてなのに完璧な出来栄えです!」
各々完成した口紅に見入っていた。容器がしっかりしていることもあり、売り物と遜色ない出来栄えだ。
「これを唇に付けるんですの?」
「そうだよ! あっ、カラーサンドは石鹸で落ちることも検証済みだから」
「そうなんですね。そしたら唇がずっとこの色ということはないんですね」
「うん。ちゃんと落ちるから安心して」
ちゃんと落ちると知ると、みんなは安心したように口紅を繰り出した。そして鏡の前に移動して口紅を塗っていく。
「唇からはみ出さないように気を付けてくださいね。輪郭を塗る時は口紅のエッジを使うと綺麗なラインが引けますよ。全体に塗ったら上下の唇を合わせて馴染ませてくださいね」
各々はみ出さないように注意しながら鏡と睨めっこして口紅を塗っていた。最初に塗り終わったのはロミだった。
「出来ました」
「おおー! 可愛い色! 思った通り、ロミちゃんによく似合ってるね」
「ヒマリさんの言う通り、お顔が明るくなった気がします」
「でしょう! 口紅の役割が伝わって良かったぁ」
「だけど、それだけじゃありません」
ロミは鏡の中の自分をじーっと見ている。どうしたのかな、と様子を窺っているとパッとこちらに顔を向けた。
「私、いまとっても楽しいんです!」
ロミは花が綻ぶように笑っていた。すると口紅を塗り終わったアリアも賛同する。
「その気持ち分かるわ。なんだか楽しいし、元気が出る」
アリアの言葉に同意するように、セラとリリーも頷いた。
「アリア様の仰る通りです。唇の色が変わっただけで不思議と高揚感に包まれます」
「いつもと違う自分になれたようで、ワクワクしますねっ」
陽葵はティナの反応も伺う。ティナは依然として鏡の前で固まっていた。
陽葵はティナの背中に手を添えて、後ろから鏡を覗き込む。
「お気に召しましたか、魔女様」
「ああ、お前の言った通りだったな」
「ん?」
バーガンディの口紅を引いたティナは、鏡から視線を逸らして陽葵と目を合わせる。
「楽しいな」
ティナは目を細めながら笑っていた。その瞬間、陽葵の心は満たされていく。
楽しい。それは一番伝えたかった感情だ。
顔色を明るくすることよりも、メイクをして楽しい思う感覚をみんなに知ってもらいたかった。それは理屈で説明しても伝わらない感覚的なものだから、実際に体験してもらうしかない。
口紅を使ってもらった結果、楽しいと言ってくれた。それは一番の収穫だった。
「楽しいっていう気持ちが伝わって、とっても嬉しい」
言葉にした瞬間、陽葵は初めて口紅を塗った日のことを思い出した。
あれは小学生の頃だ。近所の男の子から、ガリ勉地味子と揶揄われて泣きながら帰った日、10歳年上のお姉ちゃんが手招きしながら陽葵に言った。
『いまから楽しくなる魔法をかけてあげる。じっとしててね』
そう言って取り出したのは、ピンクにほんのりオレンジを混ぜたコーラルピンクの口紅。当時は『幸せリップ』と呼ばれる人気カラーだった。
陽葵は言われた通り、じっとしながら口紅を塗り終わるのを待つ。お姉ちゃんはブラシを使って丁寧に色を乗せてくれた。
塗り終わると、手鏡を差し出される。
『どう? 可愛くなったでしょ?』
お姉ちゃんに促されるように鏡を見た時、陽葵はハッとした。
鏡に映っているのは、むくれっ面の地味な女の子ではない。唇に幸せの色を添えた華やかな女の子だった。
『凄い……本当に魔法がかかったみたい……』
心が躍る。楽しいという感情が身体の奥底から湧きあがってくる。先ほど揶揄われたことなんてどうでもよくなった。
地味で可愛くない自分のことが、ほんの少しだけ好きになった瞬間だった。
お姉ちゃんは陽葵の肩に手を添えながら微笑む。
『女の子はね、みんな可愛いの。だから自信を持って』
お姉ちゃんは、ぱちんとチャーミングにウインクした。
ここからだ。陽葵が化粧品を好きになったのは。楽しいという感情をもっと味わいたくて、色々な化粧品を試してみた。
それだけではない。化粧品は作るのも楽しかった。キッチンで初めて化粧水を作った時も、胸の内に占めていたのは楽しいという感情だった。
社会人になってからは、忙しすぎて忘れていた。だけど、ようやく思い出した。
それもこれも、異世界に住む彼女たちのおかげだ。彼女達が楽しいという感情を思い出させてくれた。
「ありがとう、みんな」
言葉にした瞬間、じわりと視界が滲む。泣くつもりなんてなかったのにおかしい。急に泣き始めたら、みんなから心配されるに決まっている。
陽葵は慌てて涙を拭った。深く息を吸い込んでから、とびきりの笑顔を浮かべた。
「よしっ、試作品も上手くできたことだし、商品化に向かって動き出そう! 色数はいくつにしようか。せっかくだし、20色くらい作っちゃう?」
その言葉にすぐさまティナが反応する。
「そんなに作ったら手間がかかって仕方ない。初めは3色くらいが妥当だろう」
「えー、そんなにちょっとー? まあ、初めは仕方ないかぁ」
まずは3色ということで妥協すると、ティナは商品化とは別のことを気にし始めた。
「そういえば、お前の分の口紅は作らなくて良かったのか?」
「ああ、そういえば」
みんなに教えるので一生懸命になっていたから、自分の分を作るのをすっかり忘れていた。だけど自分の分がなくたって構わない。
「みんなに喜んでもらえただけで私は十分だよ!」
「そうか」
端的な返事と共に、ティナはそっぽを向いた。相変わらずクールな魔女さんだ。
「いや、今日はクールでミステリアスな魔女さんだね」
その言葉にティナはぴくっと反応する。
「ミステリアス……」
そう呟いたティナは、ぎゅっと口元に力を込めた。にやけないように堪えているのかもしれない。そう考えると微笑ましい。
「なりたい自分になれたようで、何よりだよ」
しみじみとそう伝えると、ティナは再び陽葵と視線を合わせた。
「ありがとう、ヒマリ」
うんっと返事をしようとした時、ロミに呼びかけられた。
「ヒマリさん! セラさんが大人の女って感じで素敵です!」
「ロミ様っ……いちいち騒がなくても……」
「ロミの言う通りだわ。セラ、大人っぽくて素敵よ。これからは普段から口紅をしていればいいじゃない」
「アリア様まで……揶揄わないでください!」
楽しそうなやりとりをする彼女達を見て、陽葵はクスっと笑う。そのまま輪の中に飛び込んだ。
「セラさん、私にもよく見せてくださいよ!」
ティナとヒマリのコスメ工房は、今日も楽しそうな笑い声が響き渡っていた。
◇◇◇
ここまでお読みいただきありがとうございます。
「続きが気になる」「楽しいという気持ちを思い出して良かった」と思っていただけたら、★★★で応援いただけると嬉しいです!
次回はコスメ工房の定休日。ティナちゃんはお休みの日はのんびりお風呂に入るのがお好きなようで……。
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