第9話 逃げ

「えと…否定するとかじゃなくて単純な疑問なんだけどさ、何でトライアスロンやろうと思ったの?」


「んー、大層な理由じゃないけど、自分を追い込めるスポーツだなって思ってさ」


「もしかして相楽ってMなの?」


「いや違う違うw 全力で走った後ってめっちゃ疲れるけど、それと同時にすげえ爽快感を感じるじゃん?だから泳いでチャリ漕いで走った後に感じる爽快感とか絶対やばいからそれを味わってみたくてさ!泳ぐのは得意とは言えないけど、チャリとランは好きだし」


「苦を物ともしない快楽主義者とか矛盾してるし、そんな奴初めて見たわ!そのメンタル凄いよ」


「どーも。そういやお前は何部入るか決めた?」


「俺は…アニメラノベ美少女同好会かな」


「そんな遠慮して言わなくていいよ。あのオタク同好会の会長さん絶対優しい人だし、俺は萌えアニメっていうのを見たことがないから良さをまだ理解できてないけど、それが好きな人なら絶対楽しめそうな場所だしな。あ、でも兼部OKだしさ、良ければトライアスロン部も入ろうよ!」


「いや、水泳部ほどではないけど、そんなノリで入れるような部活じゃないからトライアスロンとか」


「まあまあ、そう早計に決め付けんなって。お前ガタイ良いしさ」


「そんなことないと思うが」


「分かってるくせして~」


おだてるために言ってるのだろうが、身長168cm体重58キロの可もなく不可もない体型の俺からガタイの良さを見出せるはずがない


そんな感じで楽しそうに会話をしながら体育館を後にした


でも…ごめんよ相楽、俺はお前のいう爽快感を理解できなかった… 


練習で全力で走っても設定タイムに1秒でも遅れると「遅い!!」と大声で怒鳴られ、無いも同然の休憩や100~200Mの僅かなジョグを挟んでまた全力疾走。レースで自己ベストを出したときは勿論嬉しかったが、そんな喜びも束の間。帰って次の日になったらまた練習練習練習。勝つために必要だったこととはいえ、身体の何かが壊れてしまっていたのか、癒しを求める心すら存在せず、そこにあったのは“無”だけだった。何の混じりけもない、努力するにはぴったりの精神状態に見えるが、そんな心は負荷に耐え切れず、儚く打ち砕かれあのレースで負けて以来、俺は長距離走を辞めた


彼は楽しい世界で勝負してきて、失敗したことなど無いんだろう。それで良いんだ…

失敗や挫折は人を強くするというが、それは苦難を乗り越えられた人に限った話で全員に当てはまる話ではない。その困難を前に屈して、誰にも取り上げられることなく一人で苦しさを抱え込んだまま埋もれていく人だって何人もいる


これを甘えや逃げだと世間では言われるが、失敗したら立ち上がるのが当然のような風潮は嫌いだ


「おーい千条」


また気づかぬうちに一人で鬱モードに入ってしまっていた。友達がいる前で何をやっているのだろう…高校には過去を持ち込まないと決めていたのに。先ほどまでの楽しかった雰囲気が台無しだ


「あーごめんごめん。何話してたっけ?」


「いやお前がぼーっとしてる間は何も話してないけど、いきなり思いつめたような顔になったから何かあったのか心配になって…」


「いや全然大丈夫だよ!楽しかったけどずっと椅子座ってたから疲れちゃってさ ハハ…」

咄嗟に言い訳が思いつかず、明らかに不自然な話し方をしてしまった。絶対何かあることはバレてる


「なら良いけど… 嫌なことがあったら俺に相談しろよな」


「ありがとう!!」


相楽はなんて良いやつなんだろう。彼とはずっと友達でいたい


この後はミニ部活体験会があるのでお互い教室で分かれて、気になった部活の場所へ移動した。さてと、シアタールームで上映会をやってるらしいから観に行くか


翌日、相楽がトライアスロン部に体験に行ってきた様子を話してきた


「体験行ってきたんだけど、まさかの俺だけだったw なんかもう行っただけで重宝されて嬉しかったけど困惑したよ」


(入部希望者が少ないことは分かっていたが、まさか相楽だけだとは思わなかった。でも競技に必要なものを全部揃えると20万以上かかるらしいし、レース代も陸上とは違って馬鹿にならない金額で、しかも過酷なスポーツだから金銭の面でも体力的な面でも進んでやりたいと思う人がいないんだろうな)


「一人だけで寂しくないのか?」


「俺はまだ諦めねえぜ。やっぱり同学年に切磋琢磨する仲間は欲しいから俺の友達を誘ってみるわ。お前も気が向いたらいつでも来いよな!」


「まあ、前向きに検討しとく」


正直この言葉は嘘ではない。この学校では過去の俺を知る人はいないし、長距離界では新たなスーパースターが続々と登場して、過去に中学生男子1500m走で全国ランキング3位のタイムを持っていた俺を注目する人など、とうにいなくなった。たまたま中学時代に高校生と同じくらいのタイムで走れただけの早熟な人間として認識されたのだろう。だから手を抜こうと全力で走ろうと誰も注目する人はおらず、他人の期待を背負わずに競技をできる貴重なチャンスなのだ。それに万が一、過去の俺のことがバレてしまったとしても水泳やバイクが得意なわけではないのでトップでゴールできないことに言い訳が付く


最初から速いタイムで走らなければ、他人に期待されることなんてないし、承認欲求自体が発生しない。


しかし自問自答するように自分の中で当然1つの疑問が浮かぶ。なぜこのように言い訳をしてまで自分はスポーツの世界で勝負することから逃れられないのか、と。もう苦しい思いをしてまでトップを目指したくない、そのために陸上部の無い高校を選んだ、この呪いのようなものを断ち切りたかった。もうスポーツの世界で競争することを辞めたかった


なのに、どうして自分の中ではまだ走りたいと、上を目指したいと思ってしまうのだろうか…

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