自殺志願者は線路上で唄う

鼻唄工房

雨と猫

 車のルーフを、雨が叩きだした。楽しげだが、どこか憂鬱なリズムだ。運転手は急いで窓を閉め、まだ吸い始めたばかりの煙草を名残惜しそうに灰皿へ押しつけた。  


 そしてそっと、ラジオのダイアルを回す。ノイズの奥から声が聞こえてきた。


「みなさんこんばんは。今週も始まりました『オールナイトジャパン』。パーソナリティは私──」


 運転手はリクライニングを少し倒し、窓の外を眺めた。がら空きの駐車場。でこぼこのアスファルトの上を、コーラの空き缶が転がっていく。運転手はそれを目で追いかけていった。ぐるっと前を通って、助手席側へ。そこで彼は「おお、」と呟いた。


 その目線の先には、野良猫がいた。黄色い目をした黒猫だった。


「雨降ってきたな」


 運転手は、窓の外に話しかけた。が、黒猫はそっぽを向いて、視界の外へ行ってしまった。仕方なく、その手前に張り付いている雨粒を見つめる。流されまいとしがみつくその雨粒は、新しい雨粒に袖を引かれ、あっけなく落ちていってしまった。それを見て、運転手は自嘲気味に笑った。


 ラジオはやかましく鳴っている。


『そうそう、この前な──』


 関西弁のお笑い芸人が話しだした。


『家の近所のコンビニに相方と行ってきたんよ。俺は別に買う物無かったからさ、相方がレジに並んでいる間にふらっと商品見てたわけ』


 女の声が相槌を打った。


『それでさ、美味しそうなカルパスが置いてあったのよ。だから美味しそうやな~相方のカゴに勝手に入れたろかな~って思ってて』


 ダメですよ~と、女が言う。


『ほんで何となく手に取ったらさ、それ猫用やってん!』


 女が笑った。


『誰が見てた訳でもないけど、なんか恥ずかしくなってもうて。早足で店出たわ!』


 運転手は表情を変えず、駐車場を眺めている。話の主導権が女に移り、流す曲の紹介に入った。


『それでは、今のエピソードに関連した曲です。クレイジーキャッツで、『猫メタル』です!』


 女の選曲なのだろうか、嬉しそうな声だった。その声の背中にぴったりとくっついて、メタル調のひび割れた音が、運転手の耳に飛び込んできた。ドラムの振動が、車を揺らす。


 運転手はしかめ面をしながら体勢を起こし、ラジオのチャンネルを変えた。夜雨にロックは似合わない。それに、頭を振るような気分ではなかった。

 変えた先のチャンネルはニュースだったようで、整った声が聞こえてきた。


「緊急速報です。女優でタレントの葦名流さんの娘、西木冴さんが、昨夜から行方不明になっているとのことです。葦名さんは警察に捜索願を提出しており、警察は誘拐事件も視野に入れて今も捜索にあたっています」


 アナウンサーの声は、過剰な緊張感を纏っている。


「葦名さんのツイートによると、冴さんの髪型は首元ほどのショートカットで茶髪。服装は学生服で、身長は百六十センチ、目元のホクロが特徴のようです。警察は積極的な情報提供を呼びかけています」


 そこでニュースは変わり、株価の難しい話になってしまった。


──葦名流。


 運転手は、その名前を頭の中で反芻した。日本であれば、彼女を知らない人はいないだろう。おそらく三本の指には入る、人気の女優だ。確か会社も経営しており、才色兼備という言葉がよく似合う。結婚していて娘もいるとは初耳だったが、それもそうだろう。あんな美女が、放っておかれる訳がない。


 運転手はそこで考えるのを止め、ちらりと助手席を一瞥し、「さあ、行こうか」と独り言ちた。ゆっくりとアクセルを踏み込む。所々凹んだアスファルトには、もう水たまりが出来ていた。


 『個人』の標識を乗せたタクシーは、大通りを出てオフィス街へと向かう。運転手は表示板を『回送』から『空車』に切り替えて、白い手袋をはめた。

 

 十分も走ると、ワイパーと雨の向こうに、多くのビルが見えてきた。周りの建物が、だんだんと大きく、そしてシンプルな四角になってくる。ふと腕時計を覗くと、午後九時を回っていた。こんな時間まで、ビルの明かりは絶えない。資本主義が、雨に滲んでいた。


 この時間帯のオフィス街は、稼ぎ時らしい。そこらの飲み屋で飲んで、帰路に就くサラリーマンがうじゃうじゃいる。たまにどうしようもない酔っ払いが乗り込んでくるようだが、仕事なのだから仕方がない。


「まあ、俺には関係ないけどな」


 運転手はそう呟いて、下げたまま忘れていたリクライニングを上げた。


 タクシーは、ビルとビルの谷間を行く。雨が、水たまりが、街の光を反射して、くたびれた顔のサラリーマンを照らしていた。そんな顔にも、色々な種類がある。

 楽しそうに仲間と歩く千鳥足のサラリーマン、ピチッと決めたスーツを着こなす、一匹狼のサラリーマン。逆にだらしなくネクタイを緩め、下を向くサラリーマン、サラリーマン、サラリーマン。


 そんな海の中、タクシーの直進方向に、一人の女子高生が漂っていた。どうやら傘も持っておらず、全身が濡れている。それに加えて、彼女は手を挙げていた。


「さあ、仕事だ」

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