第47話

沙耶香に負けた。気付けば試合が終わっていて、わけがわからなかった。

呆然とした私に田辺美奈子が教えてくれた。


「前田さんお疲れ様。あと2秒、もうちょっとだったのにね」

「あの、試合どうなったんですか?」

「え、聞こえてなかったの?レフェリーストップだよ。最後宮崎さんがめちゃくちゃ激しく決めた時に、前田さん、完全に身体伸ばされてて。レフェリーがギブアップの確認したのも応えなくて、それで…」


絶対負けたくなくて、せめて引き分けで終わらせようと思ったのに。

アルゼンチンバックブリーカーで仰向けにされてからはとにかく苦しくて、思い返そうとしてもうまく思い出せない。特に最後に揺さぶられたあたりからは完全に極められていたのだろう。意識も飛びかけていたのかもしれない。


とにかくここから出ていきたかった。ふらふらと会場を出ようとすると咲来が駆け寄ってきた。「大丈夫?」と問いかける咲来に、私は「うん」と言っただけだった。咲来は何も言わずにそっと横を歩いてくれた。何かを聞かれても答えられなかっただろうから、何も聞かれないことが救いだった。


体育館のエントランスの壁際にへたり込んでぼんやりと前を見つめる。これから試合の人、試合の合間に近くのコンビニに行こうとする人、いろんな人たちが行き交っていた。アップ会場で感じたのと同じ、緊張感のない雰囲気だった。そんな中、試合結果に一喜一憂して私一人だけが呆然としていることが、異質な存在であるように思えてくる。


咲来が自販機で買ってきた飲み物を、座り込んだままどこに焦点があっているかもわからない私に手渡してくれた。

「ありがとう」と無意識に言葉が出た。でも飲む気分にはなれなかった。


「負けたんだ」


しばらくしてようやく自分の意思で言葉が出た。自分で口にすると現実のこととして、すっと胸に入ってきた。咲来はそれにただ短く「うん」と応えた。


強い相手に負けることはある。これまでにもあった。でも今まで負けたことのない相手に負けることはまた違ったものだった。自分が成長した以上に相手が成長したということだし、今はもう自分より強いということでもある。


「あんなに練習したのにね。足りなかったのかな。もっと、帰ったらもっと練習しなきゃ」

「うん」


でも、と咲来も私の隣に座り込んで、エントランスを行き交う人の方を見ながら言った。


「私たちはたくさん練習したよ。きっと宮崎さんも」

「じゃあ沙耶香よりたくさん練習する」


沙耶香が強くなる以上に私も強くなる。そうするしかない。シンプルなことだ。


「もう十分、たくさん練習してるよ。中西さんもほどほどにしろってよく言ってるし」

「沙耶香も練習してるんだから、それ以上にやらないと追いつけないじゃん」


「宮崎さんってめちゃくちゃ攻めていくタイプだったね。私、前田ちゃんがセコンドやってた試合もちょっとだけ見たんだ。力強い攻撃で、がーっと攻めて」


沙耶香と田辺美奈子の試合のことだ。咲来も私のセコンドの番までこっちに来ていたんだ。

「がーっと」と言いながら両手で拳を作ってぐるぐる回している。咲来なりのがんがん攻めているイメージのジェスチャーなんだということだけは伝わった。


「私それ見て、高山さんみたいだなって思ったの。だから、前田ちゃんまた押されちゃうのかなって思っちゃって。でもそうじゃなかった。外から見てるとパワー負けしてる感じもなくて、宮崎さんも攻めあぐねてるように見えて。宮崎さんの攻撃をちゃんと防いで、牽制してた。それってこの夏まさに前田ちゃんが頑張って練習してきたことだって思ったの」


咲来は社交辞令や思っていないことは言わない。もうちょっと空気読んでくれたらいいのにって時もありのままを言ってしまう。だからこれはきっと励ましではない。咲来は本当にそう思っているのだ。


「今までの前田ちゃんならもっとあっさり負けてたと思う。だから私、見ていてすごいなって思ったの。やってきたことの成果がちゃんと出てるって思って。一生懸命やってきたことは間違ってなかったんだって」


防御がガバガバだって言われてからこの3ヵ月。ガードや牽制、カウンターの練習を嫌というほど重点的にやってきた。正直、防御は地味で退屈だった。たとえ技を食らったとしても、倍返しするつもりでもっと派手に技を決めて勝ちたいと思っていた。

でも、これまでみたいにノーガードで好き放題やられていては、沙耶香の技であっという間に消耗させられていただろう。

それに、これまでは弱点補強に時間を使っていたけど、攻撃だってまだまだ改善の余地がある。そうして矛と盾、両方揃えて沙耶香にリベンジできたらいいな。いや、やってやる。


試合の反省点からやることは明確になった。でも…


「でも悔しい。やっぱり勝ちたかったよぉ…」


目が熱くなり視界がぼやけた。滾々と湧いてくるものが頬を伝って静かに落ちた。

咲来が言ってくれたことは理解できる。でも理屈じゃないことだってある。

やれることはやった。次にやるべきことも見つかった。それだけで片付かない私の感情に、咲来は「うん」と応えてくれた。

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