第11話 どうする…

「これで全部さ。やっとパスワードが特定できる。ありさ、考えてみて」


 パニがウキウキした様子でこう言った。集まった文字は【あ】【さ】【り】【の】【み】【そ】【しる】【 、、】。このままで良いんじゃない?


「ありさ。正しいパスワードをとなえると、自動的にしょうのいる場所に移動できることになってるから。思いついたら声に出して言ってみて」


 パニにうながされて、私は口に出して言ってみた。翔くん、待っててね。


「アサリの味噌汁みそしる、、」  …何も起きない。じゃあ、これは?

「ありさの味噌汁みそしる、、」  …やっぱり何も起きない。


 不満気ふまんげに押し黙ってうつむいている私に向かって、パニが声を掛けてきた。


「ありさ。文末の【 、、】って、どういう意味なの?」

「だからぁ、感嘆する様子を表わしているの。味噌汁が好き過ぎて胸がいっぱい…みたいな」

「へぇ…。翔って、そんなに味噌汁が好きなんだ。でも、何も起こらないんだから、正しいパスワードじゃないってことだね」


 翔くんは、味噌汁が特に好きという訳ではない。嫌いではないと思うし、味噌汁がそこにあれば美味しく頂くけれども、別に味噌汁がないからといってがっかりしたりしない。だから、このパスワードは正しくないとわかっていた。でも、他に思いつかないんだもの。


「ありさ、ヒントをあげる。【 、、】は文末に置かないよ。感情を表現している訳じゃないから。文字にからめるんだ。もう一度考え直してみて」

「パニ、あなた、ひょっとしてパスワードを知っているの?だったら教えてよ」

「教えられない。ありさが自分で探し出さないと。彼氏なんだからさ、自分で助けたいでしょ」


 パニの言う通りね。翔くんは、私の手で救出したい。

 …本当に?

 本当に、私は翔くんを助け出したいの?。


「………ありさのみる」


 私がこうとなえるや否や、パニと私は洞窟どうくつの中に移動していた。

 この場所を、私は知らない。

 目の前にはガラスのピラミッドが建っていた。そして、その中にいたのは…。


「翔くん!」


 ピラミッドの中に、翔くんはいた。ぐったりと倒れている。無事でいて…!


「大丈夫だよ、ありさ。翔は眠っているだけだから。さっきのパスワードをこのタッチパネルに入力すると扉が開いて、翔が中から出て来られるよ。さあ、入力して」

 私は、ピラミッドの前にあるタッチパネルに近づいた。そして、パスワードを入力するために手を伸ばした。


 あ り さ の み ぞ  る


 これがパスワード。これを入力すれば、翔くんをピラミッドの中から出してあげられる。

 でも、私は伸ばした手を引っ込めてしまった。


「どうしたの、ありさ?早く入力しなよ」


 パニが不思議そうな表情をして、私の方を見つめている。

 そうよね。私たちが色々な人に会って、話を聞いて、言葉を少しずつ集めてきたのは、パスワードを特定するため。翔くんを救うため。でも、私は…。


「いやよ。だって、ここから出たら翔くんはきっと…」


 パニは、私の目をじっと見つめながらうなずいた。そして、静かな声で私に尋ねた。

「…やっぱり。翔をここに閉じ込めたのは、ありさだったんだね。一体どうしてそんなことを?」


 私の記憶の奥底に閉じ込めておいた出来事が、鮮やかに脳裏によみがえってくる。

 もう2度と思い出したくなくて、封印していた私の嫌な記憶。不愉快な出来事…。


「鉢合わせ、しちゃったの…」


 お盆が過ぎたばかりの、まだまだ残暑が厳しかった頃。今年の話よ。




 翔くんは、初めて本を出版する企画を任されて張り切っていた。自分が担当していた、まだデビューして間もない作家さんの初めての単行本に関わることになったのだ。その業務がとても忙しくて、私とのデートもままならなくなってしまった。私はとても寂しいと思っていたけれど、翔くんが生き生きと仕事に熱中している様は素敵で、心から応援していた。


 ある土曜日、翔くんは仕事があるというので、私は大学時代のバイト仲間の梨絵なしえと一緒に映画を観に行った。彼女とは、大学は違うが同じシフトで働くことが多かったので仲良くなった(私たちは、英会話学校の受付のバイトで知り合った)。


 映画を観終わった後、その作品がとても気に入ってテンションが上がってしまった私たち。久しぶりに会ったことだし、話したいことがたくさんあるよね…ということで、今夜は私の家でお泊まり会をすることになった。


 だったらデパ地下でお惣菜やお酒を調達しようじゃないか…と、喜び勇んで映画館から近い某有名デパートに向かった。


 「まだまだ暑いからしっかりした物を食べなきゃ」とか「美味しいお酒も飲まなきゃ」とか言いながら、幾分はしゃいで店内を物色していたら…。私たちは、左側から曲がってきた人たちとぶつかりそうになった。


「あっ、すみません」


 そうお詫びをした相手は、2人連れだった。私の知っている顔と知らない顔の男女。

 翔くんと、私の知らないひと

 土曜日の午後に一体何をしているの?デパ地下の惣菜売り場に2人でいるなんて。


 驚きのあまり、何も言えずに2人を凝視し続けた私。そんな私に向かって、翔くんは慌てた様子でこう言った。


「ありさ。まだ打ち合わせ中だよ。長引きそうなんで、夕食を買いに来たんだ。この後、この近くのデザイン事務所に戻らなきゃ。こちらはイラストレーターの伊藤さん。事務所では、作家さんとデザイナーさんが装丁の相談をしてる」


 翔くんがイラストレーターに私を紹介すると、彼女は余裕のある微笑みを浮かべて言った。


「伊藤と申します。八田さんにはお世話になっております。…八田さん、こんなに素敵な方とお付き合いされていたんですね。お似合いです」


 「また連絡するから」と言い残して翔くんとイラストレーターの女が去った後も、私の動揺は続いた。しばらくの間は梨絵に向ける笑顔も引きつったままで、彼女には申し訳ないことをした。


 翌週の土曜日、翔くんと私は、何事もなかったかのようにデートをした。翔くんは、デパ地下でのことを一言も言わなかったから、『本当に仕事だけなんだ』と私も納得し、彼を責めたりしなかった。本音を言えば、あのひとの不敵な笑みが心に引っ掛かっていたけれど。


 ところが、事態はこれで収まらなかったのだ。


 翔くんは、週末は、私と会うための時間にあててくれている。だから、なかなか気付けなかったのだ。翔くんとあのイラストレーターが平日の夜に、頻繁に会っていることに。


 平日に私が翔くんに連絡しても、返信が来なかったり、遅れたりすることが続いた。始めは「仕事が忙しいのかな」と思っていたが、連絡がつかないことがあまりにも増えてきたので、ある日、私は彼を問い詰めた。


 すると、翔くんはさらりと「伊藤さんの恋愛相談に乗っている」と言ったのだ。何でも、彼氏と上手くいってないとかで、男性側の気持ちを知りたいから翔くんと会って話を聞きたいらしい…って、何やそれ。


 男性に恋愛相談なんて、彼氏と別れそうなひとが、次の彼氏候補として狙った相手に仕掛けていく、恋愛の常套じょうとう手段しゅだんやん。しつこく相談し続けるなんて、絶対そうに決まっとるやんか。


 私は、翔くんに彼女の手の内を暴露してやりたい衝動に駆られた。でも、そんなことをして翔くんが彼女の想いを知ったら、かえって変に意識するようになってしまうのではないかと考えた。それは、マズい。


 それでも、このまま見過ごすことは出来ないので「仕事以外で彼女と会わないで欲しい」と言った。それで丸く収まると思ったのだ。「心配させてごめん」とか言われて。

 でも、そうはならなかった。翔くんは怖い顔をして、低い声でつぶやいた。


「…友だちと会っちゃいけないわけ?」


 彼女の方が友だちのつもりじゃないんだ…と、説明したかった。翔くんに言いたいことはたくさんあったのに、私は一言も発することができなかった。翔くんが納得できるように話せる自信が全く無くて、私は言葉を飲み込んでしまった。


 この日以来、翔くんと私は1度も会っていない。電話もメールもしていない。

 だから、およそ2ヶ月ぶりに翔くんから連絡があった時、私は嬉しかったと同時に恐れを感じた。翔くんの言う「大事な話」を聞くのが怖かった。…何も聞きたくなかった。




「だから翔を閉じ込めたの?何でピラミッドの中に?」  パニは穏やかに私に尋ねた。

「ピラミッドパワーよ。知らない?ピラミッドの中では物は腐らないって。あの中に翔くんを入れたら、私のことを好きだと思う気持ちが保たれるんじゃないかって…」


「ありさ。これからずっと、翔のことを閉じ込めておくつもりなの?そうしたら、もう翔には会えなくなるんだよ。たとえ、翔の気持ちがありさに向いてもピラミッドから出られないのなら、あいつは行方不明のままだよ。それでも良いの?」


 翔くんがピラミッドの中に居る限り、イラストレーターのあのひとは彼と会うことは出来ない。

 でも、翔くんがこの中に居続けたら、私だって彼に会えない。

 翔くんの仕事も人生も無くなってしまう。ピラミッドの中に居続ける限り。


 他人ヒトの人生を台無しにするなんて、そんなことして良い訳がない。

 でも、ここから出たら、翔くんはきっとイラストレーターのもとに行ってしまう。

 そんなの、絶対に、いや。


 私は、タッチパネルにパスワードを入力して、翔くんをここから出すべき?

 私は、どうすれば良いの?


 どうする…。

 どうする、私…。





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