メイズラントヤード魔法捜査課

塚原ハルト

下院議員殺人事件

(1)事件

『これは、僕たちだけが知る物語だ。人々は新聞記事で数々の事件が起きた事は知っていても、その活字の裏側で何があったのかは、永遠に知ることはない。それは僕たちだけの、まさしく魔法にかけられたような日々だった。』

 ―アドニス・ブルーウィンドの手記より抜粋




◆メイズラントヤード魔法捜査課/ローバー下院議員殺人事件◆


<プロローグ>


 男は、正面の小さな跳ね窓以外明かりの差さない狭い部屋の中で一人、銃を持ち上げた。空は明るいが、まだ朝靄と湿気のある冷気がその場を包んでいる。

 験担ぎか、男は銃のグリップに、一本の万年筆で呪文のようなものを書きつけた。これが成功しますよう、とでも思ったのであろうか。

 男は引き金に指をかけ、望遠鏡で窓の向こうを確認した。レンズの向こうには、それほど大きくはないが小綺麗な庭付きの邸宅の、二階の窓が見える。

 窓には、椅子に座った人物の影が見えた。この人物は毎朝、この時間にその書斎で新聞を読み、立ち上がって左にあるカレンダーを見るのが習慣になっている事を、望遠鏡を覗く男は知っていた。今日もまた例にもれず、予想するまでもなく同じように立ち上がり、左側の壁に貼り付けてあるカレンダーを確認する。左側頭部が、窓からの明かりに照らされて見えていた。

「物語には終わりがある。私はただエピローグを引き受けるだけだ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、震える手で引き金を引く。

 弾丸は朝の冷たい空気を裂き、窓ガラスを貫いて、哀れな標的の左側頭部を眼鏡の弦をへし折って直撃し、真っ赤な飛沫を作り出した。


 聖暦1878年、3月16日朝の出来事だった。


(1) 事件


 その狙撃を朝刊の一面で報じる事ができた新聞は、事件が起きたメイズラント首都リンドンには一紙もなかった。下院議員ジミー・ローバー氏が自宅の二階にある書斎で撃たれた時は、すでに朝刊の配達が始まっていたからである。

「主人が…なぜこんな事にならなくてはいけないのでしょうか」

 ローバーの妻キャスリンは、美人だが細面で、長年の心労のあとが見える人物であった。それでも政治家の妻を30年務めてきただけあってか、涙と動揺を見せながらも、事件現場を捜査する警察官たちの前では一定の毅然さを失わなかった。

「お察しいたします」

 メイズラントヤード重犯罪部門の警部デイモンはハットを脱ぎ、白髪の割合の方が多い頭を夫人に深々と下げた。

「ご主人の無念は、我々メイズラントヤードの誇りと正義にかけて晴らして差し上げます 」

 警部の言葉に飾りはなかった。ローバー議員と近い年齢の彼は、この国の発展を一人の警察官として見続けてきたのである。ガス灯の数が日ごとに増え、電報だけだったものが、今や電話という遠距離で会話ができる機械まで登場した。ローバー議員もまた、その発展を支えた功労者の一人であっただろう。

「はい…頼りにしております」

 被害者ジミー・ローバー下院議員の遺体は速やかに検死部門に引き渡され、氏が殺害された部屋には遺体が倒れていたことを示すラインと、被害者の血痕と弦が折れて壊れた眼鏡、弾丸によって割られた窓ガラスの破片が残されていた。

 窓は書斎の机の背後にあり、ローバー氏は立ち上がって窓に横顔を向けた所を、狙撃されたのだ。

「銃弾は一発だな?」

「はい。即死です」

 現場を入念に調べた警官は断言した。死体は東側に向かって倒れており、衣服や家具が特段乱れている様子はなかった。凄惨ではあるが、こうした狙撃自体は過去にも例がある。銃弾はローバー氏の頭蓋骨左側面に眼鏡の弦をへし折って突き刺さり、反対側に5センチほどの穴を創って、飾ってあった絵画を台無しにし、壁にめり込んで止まっていた。

 まずは狙撃銃の特定と、狙撃地点の割り出し、その近辺で不審な人物の目撃情報はないかを調べるのが正道であろう、とデイモン警部は堅実に考えた。

「夫人、最近不審な人物がこの邸宅に出入りしていたという事はありませんか」

「いいえ、そのような…そうですね、ここ一か月ほどで言うのなら、いつものごみ収集業者と、主人の同じ党の方々や、わたくしの友人達と…あとは1週間ほど前に主人が買った絵画の画商くらいです」

「画商?」

「はい、ちょうどその、弾丸がめり込んだ壁の所にかけてあった…」

 夫を貫いた弾丸の痕を見るのが辛いのであろう、キャスリン夫人は一瞬壁を見たのち目を逸らした。

「なるほど…では、お聞きづらい事ではありますが…ご主人が誰かとトラブルになっていたとか、そのような話はありますか」

 これは間抜けな質問だが、形式的なものなので我慢しなくてはならない、とデイモンは思った。何しろ国政の中枢にいる、30年以上の経歴を持つ政治家である。政敵の10人や20人いるだろうし、不満を持ち過激な行動に出る国民だって現れても不思議はない。

「わかりません…ええもちろん、主人は国政に関わってきた人物でありますし、私には知り得ないような方々との関わり合いがあったでしょう。しかし、国民の支持は決して薄くはございませんでしたわ」

 デイモン警部は頷いた。ローバー議員はメイズラント議会下院において、平民の味方として親しまれてきたのだ。その報が知れ渡った時に起こる、国民の動揺は小さいものではないだろう。

 だが、だからこそ敵がいたとも言える。民の側につく者は、権威の側にとっては障害となるからだ。その線からも、今回の事件の犯人を追及しなければならない。


 メイズラント警視庁では、早急にローバー議員暗殺事件の捜査班が編成された。班長はデイモン警部であり、警部が信頼する捜査官が配置された。その布陣を見て、凄惨な事件ではあったが犯人はほどなく、その両手首に手錠をかけられる事になるだろうと、誰もがそう考えた。


 前日の夕刊に衝撃の事件が報じられ、その朝のメイズラント首都リンドンは騒然となっていた。すでに昨夜から上院・下院議員たちは、新聞社の取材を避けるためにあらゆる方策を講じねばならなかった。

 ことに取材の対象となったのは、ローバー氏の所属するメイズラント議会下院の議員たち、そして上院でローバー氏に噛み付く事が多かった、貴族の若手であるヘイウッド子爵グレン・ヘンフリー議員である。

 ヘンフリーは奴隷制度の復活を掲げるなど「急進的な保守」という奇妙な名称で知られており、貴族制の廃止や大胆な減税政策などを提案するローバー議員に対して、王国を衰退させる愚策であると、常日頃から強烈に批判を加えていた。ローバー氏にとっては、個人としては経験の浅い若手政治家ではあったが、時代とともに威光を失いつつある上院において、声の大きい噛ませ犬として妙に重宝されている側面もあった。

「私は何も知らん!どけ!」

 いつもの、新聞記者には聞き慣れたヘンフリーの恫喝が石畳に響いた。

「子爵、ローバー議員暗殺についてご感想は!?」

「感想とはなんだ!私はこれから、そのローバー夫人の所へ弔問に訪れようというのだぞ!」

「ローバー議員はあなたの最も大きな政敵でした。その政敵に対して―――」

「きさま、どこの新聞社だ!!あまりに無礼な質問を続けるなら、それなりの処置が待っていると思え!!」

 まだ30代前半ではあるが、爵位の威光をかさに着たその様は、まるで尊大な壮年のそれであった。ヘンフリーは護衛に守られながら、黒塗りの馬車に乗り込んで走り出した。

「議員!!」

 記者たちの怒号をよそに、馬車は石畳を蹴って走り去った。

「ふん」

 揺れる馬車の中で、ヘンフリーは鼻息を荒くした。

「これだから民主主義というのは好きになれん。時代は500年前に戻るべきなのだ。愚民に権力を握らせるなど、亡国の道に他ならない。醜い科学技術も好きになれん。かつて、教会がその権威を保っていた、あの魔法の時代こそがこの国の立ち戻るべき道だ」

 ヘンフリーは若いが、それなりに矜持を持っている人間であった。しかし、いささか自分の知識や信条にのめり込みすぎるきらいがあった。

「御意にございます」

 白髪の目立ち始めた秘書が、うやうやしく頷いた。

 すると、何やら馬車の外が騒がしかった。

「なんだ!まだ記者どもが群がっているのか、民主主義のハエどもめ」

「いえ、違いますな」

「ん?」

 見ると、群衆であった。何やら、手持ち看板やら垂れ幕やらを掲げているデモ集団のようだった。書かれている文字を見ると、「貴族院の復権!」「下院から権力を奪え!」といった文言が見て取れる。ローバーの死にかこつけて騒ぎを起こした、特殊な運動家たちのようであった。

「奴らは、なんだ。貴族でもないのに貴族の肩を持っているのか」

「民衆の考える事はわかりません」

「ふん。下賤のものどもに政治の何がわかるものか」

 ヘンフリーは吐き捨てた。彼の信条は「自分達と彼ら」であり、支持者などは必要なかった。しかし、とヘンフリー卿は言った。

「いまは数がものをいう時代か。奴らのような存在も、使い道はあるのかも知れん」

「御意」

 ちらりと窓の外を見ると、群衆たちの顔がよく見えた。目は血走り、笑みとも怒りともつかぬ禍々しい表情をしている。しかしその群衆の中にも、あまり騒ぎに乗り切れない一群がいるようで、仕方なく手持ち看板を掲げている者、明らかに馬鹿馬鹿しいと思いながら、付き合いで参加しているような者もいた。左端には、デモ隊とは距離を置いて冷ややかに見ている警官も立っている。暴動が起きないよう、配備されているのだろう。

 ヘンフリーの馬車はデモ隊を尻目に、ローバー邸へと向かった。

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