夜の部 六杯目

       夜の部 六杯目

   


 今頃、太一とサキコはレストランでディナーを楽しんでいるのだろう。上手くプレゼントは渡されたのか、太一の告白はどうなったのか。そして夕飯のあとは──。

 宇蘭も翼もそんなことを考えながら、どこか集中できない状態で本日の『夜の部』の営業を終えた。

 

 


 キッチンの片付けを終え、駆がホールに出ると、翼が掃除用のモップを抱えてぼう、と天井を眺めていた。

 

「おい、ツバサ。サボんないで早く掃除しろ。帰れないだろ」

 

駆が口を尖らせると、翼はでもさあ、と甘ったるい声で答えるのだった。

 

「今頃は太一さんとサキコさん、上手くいってるのかなあ、って気になって手につかなくて」

 

「上手くいくだろ。サキコさん、人間になるんだし」

 

 口裂け女、だったサキコは裂けた口を縫って今夜、人間となったはずだ。それならば最早そのサキコと太一を止めることは誰にもできない。

 

「そうよ、きっと幸せな結末が待っているんですもの」

 

宇蘭も手洗い場の掃除を終えてホールに出てきた。彼女もやはりサキコと太一が上手くいくと信じて疑っていない。

 我が純喫茶URANの裏メニュー・恋愛相談。今回はこれにて完了。新たな常連客を増やせて良かったわ、とクールぶって宇蘭は鼻を鳴らした。その内心は激しく二人を祝福している。

 


 三人がのんびりと店内掃除を行い、時刻が深夜の一時前に差し掛かったところだった。

 

 ──突然、店の入り口、来店を告げる呼び鈴が音をカランカランと鳴らした。


「ああ、今日はもう店じまいで」

 

 駆がそう言いかけて、黙った。

 来店してきたのはサキコだったからだ。いつもの真っ赤なコートを着ている。

 

 だが、様子がおかしい。

 髪の毛は濡れてびしょびしょ、激しく乱れている。じっと、入口で黙って立っていた。まるで何かの許しを待つかのようだ。

 翼はその異様な雰囲気を察してすぐに指示を出した。

 

「駆、タオルを持ってきて、早く。宇蘭ちゃんはお湯沸かしてもらっていい?」

 

 翼の指示に、呆然としていた駆も宇蘭も我に帰って動き出した。翼もすぐにサキコに駆け寄る。

 そして、優しくその肩を抱いてあげた。

 

「何だかよく分からないけど、もう大丈夫だよサキコさん。寒いから、お店入って。いまカケルがタオル持ってきて、暖かいもの淹れるから」

 

 サキコは俯いたまま黙ってうなづく。

 背中を撫でられながら、ゆっくりと店内に入った。

 

 

       


          ◯

        

 いつものカウンター席に腰掛け、その隣には翼が座った。そしてタオルで濡れた頭を拭いてあげるのだった。

 「ありがとうございます」サキコが言いながら顔を上げる、その顔を見た時、全員が一瞬だけ驚きで黙ってしまった。

 

 縫ったはずのサキコの口が再び裂けていたからだ。その唇の端から耳の下までくっきりと切れ込みが入っている。

 

「サキコさん、何があったの」

 

宇蘭はカウンターを挟んでサキコの真向かいに台を置くと、その上に乗った。サキコと丁度目線の高さが合う。二人は目を合わせた。

 サキコは今にも泣き出しそうに、なんとか声を発する。

 

「宇蘭さん、私、私──」


そしてついに、サキコは声を上げて泣いてしまった。

 

 

 

 

          ◯

       

 太一が車に轢かれた。

 

 待ち合わせ場所、例の出会いの十字路だ。そこに向かう途中に公園があり、サキコもその前を通りかかった。そのとき、公園を挟んで反対側の歩道に太一を見つけた。まだこちら側には気づいていないようだ。彼は公園で遊ぶ子供たちを見ている。

 待ち合わせ時間よりまだかなり早いというのに、太一も同じように早く来てしまったのだな、そう思うと愛おしく感じられた。

 

 

 その時、蹴り出されたサッカーボールが宙を舞い、公園を出て車道に転がった。それを追う太一。子供たちにボールを取ってあげようとしているのだろう。

 

 なんて、優しい人。

 サキコはまたうっとりとしてしまう。

 

 駆け寄って声をかけようかしら、サキコはそんなふうに幸せな迷いに囚われていた。そして、そのせいでやはり気がつくのが遅れたのだ。脇見運転をしていた乗用車が太一に迫っていたということに。

 

 サキコが迫る車に気がつき、太一の名前を叫んだ時には遅すぎた。太一は、そのまま通過する車に攫われた。

 

 ──。





 サキコが駆け寄ってしゃがみ込み、倒れる太一を抱き抱えた時、太一は目を開けてはいたが、意識が朦朧としてその焦点は合っていなかった。

 太一を轢いていった車は走り去っている。完全な轢き逃げだ。だが、今はそんなことはどうでもいい。額から出血していたのだ。どこか打ったのか切ったのか。しかし、放置していたらまずいというのは分かる。

 公園で遊んでいた子供たちのうちの一人が「救急車呼びました」とサキコに声をかけてくれた。だが、やはりそれも耳には聞いたが頭に入っていない。

 

 救急車の到着までどれくらいだ? 太一の今の状況は? もしとても危険な状態で、救急車を待っている間に取り返しがつかなくなってしまったら?

 

 では、太一を抱えて走って病院に行くか?

 それは無理だ。太一は大柄ではないが、成人男性を抱えて走り回るなんて普通の女性には出来ない。

 

そう、「普通」なら無理だ。しかし普通でないならどうか。

 その考えはすぐにサキコの頭に浮かんだ。しかし、それをすれば、全て終わってしまうかも知れない。


 せっかく人間になれるのに。

 人間になれば、太一と共に在れるのに。

 愛されるのに──。

 

 

「サキコ、さん」

 

 その時だった。

 太一は朦朧とする意識の中で、自分を抱き抱えるサキコを見つけた。彼は無意識なのか、優しく笑っている。

 

 太一とサキコ、二人の目が合う。瞬間、迷っていたのが嘘だったかのように、サキコは答えを出すことができた。

 

「太一さんが、生きていることが、一番大事だもの」


そう言いながら、サキコは集まってきた子供たちに大人の人を呼んできて、とお願いし、太一と二人きりの状況を作った。

 

「ここには私だけ、です。太一さん、私のことを嫌いになってもいい。どうか、生きていて、夢を、お爺さんの民宿を守って」

 

サキコは独り言のように呟くと。太一を優しくコンクリートに寝かせ、両手で自らの左右の頬を力任せに引っ掻いた。何度も何度も。痛い、でも、太一を救えなかった時の方がきっと、もっと痛い。それを思えば我慢できた。

 血を撒き散らしながら頬を引っ掻き続けると、指先に触れる「糸」の感触があった。これだ、頬を縫い付けてある糸だ。この糸で口を縫ってあるから人間になれた。反対に、この糸を抜き、また口を引き裂けば「口裂け女」に戻る。

 

 もはや、迷いはない。

 サキコはさらなる激しい痛みに耐えながら、声を殺し、糸を無理やり引き抜いていく。

 そして、口を縫い付けていた全ての糸を外し終えると、サキコの口は再び裂けた。綺麗にリップを塗っていた唇はその端から耳の下まで切れ込みが入り、雪のように白かった両頬は血で染まっていた。

 しかし、その瞳だけは、太一を優しく見つめる。

 

「太一さん、もう、大丈夫ですよ。私が助けますから」


「く、口裂け、女」


 太一がサキコの顔を見てそう呟くと、胸がずきりと痛んだ。誰より見てほしくなかったのに。

 サキコはそんな感傷を振り払うように息を吸い込み、軽々と太一を抱えて持ち上げてしまう。そして裂けた口を歪め、優しく笑いかけた。


「そうですよ、太一さん。知っていますか、口裂け女は怪力で、とても足が早くて、空も飛べるんです。そういう設定の妖怪なんです。すぐに、病院へ連れて行きますからね」

 

 




 助けを呼びに、大人を連れてきた子供たちは呆然とした。

 

 車に轢かれた青年も、それを介抱していた女性も、二人とも綺麗さっぱりいなくなっていたからだ。

 ただ、生垣のところには、先程まで遊んでいたサッカーボールが置かれているだけだった。

 

 

 

   

          ◯

 

 語り終え、サキコはまた泣きじゃくった。翼はひたすらにそんなサキコの背中を撫でてやっている。

 

「悲劇だわ」

 

宇蘭は思わず呟いていた。

 こんなことがあって良いのか。上手くいっていたじゃないか。太一のために、そうやって尽くした。どうしてその結末としてサキコがこんな目に遭わねばならないのか。

 

 駆は激しく動揺する宇蘭の頭の上に、そっと手を乗せた。

 

「これが“人間”だ。時には理不尽に幸せを摘み取られてしまう。なす術なくな。弱いんだよ、そうなったら無力なんだ」

 

「分かってる、けれど、あんまりだわ」

 

 宇蘭には辛くて堪らなかった。

 処理し切れない、そんな悲しみを感じている。

 駆はそんな宇蘭の頭を撫でてから、今度はサキコに聞いてみることにした。

 

「太一さんはどうなったんだ」

 

 聞かれたサキコは、泣きながら途切れ途切れに答えていく。

 

「太一、さんは、病院の入口に、寝かせてきました。血も出ていたし、人が集まっているのを確認したので、多分、無事なんじゃないかと、きっと治療をしてもらえたはず」

 

さらにサキコは言葉を続けた。

 

「もう私、自分が嫌になって、どうしたらいいか分からなくて、血は目立つし、公園に戻って、頭から水を被りました。冷たくて、痛くて、もう嫌に、なりました」

 

そこまで話したところで、背中を撫でていた翼はサキコを抱きしめた。えらい、えらいよ、と繰り返しサキコを誉めている。

 

 


 ──しかし、どうしたものか。

「口裂け女」だというサキコの正体は太一にばれてしまっているのか。まずは太一の無事を確かめない限り、どうにもならない。

 駆は宇蘭の背中を少しだけ強く叩いた。



「宇蘭、しっかりしろ。オーナーだろ。恋愛相談、これで終わりでいいのかよ」

 

駆の言うことは分かる。


 宇蘭は目を閉じ、脳内に保存されている太一、サキコ、それぞれとのやり取りを引き出した。そしてやはり確信する。


 これで終わりでいいはずない。

 二人の関係に結論を出すことはできない。しかし、相談にならいくらでも乗れる。

 

 こんな理不尽な、中途半端な、自然消滅なんて許されるべきでない。

 宇蘭は目を開けた。

 

 



────夜の部 六杯目 完



次回、「お会計」に続く

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