八部衆第八番・慈安
カン、カラ、カン。
カラン、カラン、カン、カン。
空き缶が転がるような、軽いアルミの筒が蹴飛ばされたような音。
薄暗い廃劇場——それを模した〈庭場〉に響き渡る。
「私はかつて女優だった。舞台に上がって、演技をして、歌って、踊って、美を振りまいた」
天井に穴が空いており、そこから降り注ぐ月明かりが劇場に上がっている女を照らす。イブニングドレスを着込んだ、ウェーブヘアのブロンド美女。
「けれど私に嫉妬したライバルに蹴落とされた。路地裏で強姦され、その様子をばら撒かれ、私のキャリアは終わった」
ヒールを、ガンッと鳴らす。
「死の恐怖——男どもに犯されていた時に感じたあれが、私の脳幹を変えた。そしてこの目をもらった——虚ろから!」
両手を大きく広げ、歌うように叫んだ。
「
女の名は不明。実の名を、己がいた世界を滅ぼした時に捨て去った。今はただ、
椿姫は背負っていた太刀を抜いた。刃渡二尺七寸五分、月の妖魔を封じたと言われる妖刀、輝夜嬢月姫。
「影法師八部衆第八番、慈安!」
「常闇之神社蘇桜隊総長、稲尾椿姫」
この時をどれほど待ったか——。
椿姫が客席から駆け出した。縮地による歩法。相手は素早く瞳術・〈
相手の視線にかちあわぬようジグザグに走行し、回避。いよいよ舞台上に上がり、椿姫は太刀を振るう。
ギンッ、と見えない何かに太刀が防がれた。結界だ。
「ズブの素人が、私の舞台に上がるな!」
「こっちのセリフよ阿婆擦れ。私たちの家を踏み荒らしてくれやがって!」
息子には聞かせられない獰猛な声音。椿姫は視線を合わせられる前——振り返られる前に斜めに飛び退いて尻尾を硬化。それを素早く振って、自切した毛を幾重にも飛ばした。
毛針千本——獣妖怪の基礎術の一つだ。
無数の毛針が飛翔するが、慈安は全てひと睨みで叩き落とす。
椿姫は左手に火球を形成した。彼女の瞳と同じ、紫紺の火。渦巻く火球を打ち出し、相手の視界を奪った。
爆発。
ビリビリと震える空気が、熱風を孕んで駆け抜ける。
「此度の大攻勢の原因が八部衆クラスだとはわかってた。あんたたちが何か行動を起こすことくらい、わかりきってた」
「その通り。武闘派の首を奪るために来た!」
目潰しの突き。人差し指と中指を開いて繰り出されたそれを椿姫は噛み付いて受け止めた。
そのまま剛力を込めて噛み潰し、鈍い音と共に肉と骨を断ち切り、噛みちぎる。
べっ、と指を吐き出し、血に塗れた口元に獰猛な笑みを浮かべた。己と最愛の人を現世で殺した怨敵の血の味——悪くない。
「ぎっ——、ぃ」
慈安は妖力による治癒を行い、指を再生させた。流石に八部衆ともなればそのくらいの芸当はできるようだ。
逆さの五芒星が浮かんだ目が、その視線が素早く飛び退いた椿姫の肩をかすめた。
直後、椿姫の右肩が銃弾に穿たれたように抉れ、吹っ飛んだ。血肉が飛び、激痛のあまり歯を強く噛み締める。
「くそっ……」
「首を落とすつもりだったんだけどね」
椿姫は噛みすぎて砕いてしまった奥歯を吐き出し、震える右手を見つつ走った。止まれば睨まれる。慈安の目で睨まれればおしまいだ。
〈
だがあのイかれた女にとっては、なにも難しくない。拷問好きの気が狂ったあいつは、殺す相手に慈愛を抱くことなど日常茶飯事。本当に愛しているのは、影法師頭領の東雲嶺慈ただ一人だ。
(仕方ない)
椿姫は太刀を手放し、変化を解いた。
狼並みの大きさを誇る、五本尻尾の白狐が顕現し、絹を裂くような声で吠えた。紫紺の目、耳と尾の先端は紫色という由緒ある稲尾一族の証。
この世で最も美しく、もっとも恐ろしい妖狐。
「犬畜生が、くびり殺してくれる」
「喉笛食いちぎってやるわよ」
椿姫が駆けた。人であった形態の倍は速い。
「!」
不発に終わった瞳術がベンチをまとめてぶっ飛ばす。椿姫は左前足を振りかぶり、慈安の頭を叩き潰そうとした。
咄嗟に屈んだ慈安が素早く椿姫を睨み、しかし椿姫はそれを瞬時に発生させた狐火を盾に防ぐ。
苦手な狐火も、ある程度は扱えるようになった。
着地と同時に、掻き消える前の炎を目眩しに飛びかかる。慈安が真正面から睨んできて、椿姫の毛皮に赤いものが滲んだが、かまわない。
力技で、ゴリ押しする。
「この——っ、女狐ぇええええええええええ!」
椿姫の毛皮のところどころが剥がれ、大量に出血。なおも全身し、そしてとうとうその前足が慈安の顔面を押さえつけた。
力任せに左前足を引き、顔面を——両目を抉る。
「がっ、ぎゃぁああああああああああああ!」
「いい声で鳴くじゃん。でも、あんたはいじめても楽しくなさそうだから、生かす気はない」
「ぐぅっ、ぐ……私だって、嶺慈様以外の手でっ、触れられる気はない! 離せぇええっ!」
「大した忠誠心ね。なら、尊厳くらいは持っていかせてあげるわ」
冷淡に言い、椿姫は宣言通り慈安の喉笛に食らいつき、噛み潰して抉った。
妖力を練る丹田と、術式を保有する脳を分断すればあらゆる術師は無力化できる。術師を捕縛する際に首輪をつけるのもそれが理由だ。もちろん、妖力治癒もできない。
椿姫は血まみれのまま人の姿に戻った。付着した血液といい負傷と言い、完全には消えない。
燈真ほどではないが痛みには強い——その自覚はあるが、皮膚が吹っ飛ぶ痛みは流石に答える。
——短期決戦じゃなければ負けていた。
「万里恵、迎えにきて」
〈庭場〉が崩壊を始め、元の路地裏に戻る。そこへ、一体どこに潜んでいたのか万里恵が着地し、椿姫を軽々抱えた。
「お疲れだねえ椿姫。八部衆を奪ったから、この攻勢は終わるかな」
「わかってるくせに。元凶は他にあるんでしょ」
「まあね。でも大丈夫、そっちはもう手を打ったから」
×
「なんだこりゃ」
大瀧蓮が眉根を寄せ、鼻を押さえた。
酷い臭いだ。例えるのは難しいが——腐乱死体を凝縮させた下水道の臭いとでも言えばいいだろうか。
「瘴気の臭いでしょう。ここまで強い瘴気……この瘤からだろう」
電襲隊総長の大瀧蓮と、副長の尾張秋唯は下水に来ていた。影法師が巧みに隠れる中、万里恵の
一つが、不正な電子アクセス痕跡のあった路地裏。そしてもう一つが、やけに澱んだ下水だ。
「破壊した方がいい、とは思うが……」
「こんなもんぶっ壊したらどれだけの瘴気が充満するかわかんねえな」
蓮はわずかに考え、念話である
程なくして、空間に亀裂が入り、そいつがやってくる。
「な、なんだよ。非番で寝てたのに」
「蕾花、お前の術でこれを分解できるか?」
蕾花のぼやきを無視し、蓮がそういった。蕾花が怪訝な顔をしつつその、人の頭ほどもある瘤を見る。
「なんだこりゃ。禁忌指定級でもここまで濃い瘴気じゃないだろ」
「私の勘でよければ話すが、いいか?」
「秋唯さんの勘? 何?」
蕾花が問うと、秋唯は言った。
「負の感情が魍魎を生む。だから、災害があったりした年は魍魎がゴミのように湧くし、人心や治世が荒れると呼応したように魍魎は増える。ならば、その負の感情を仕向けるようにしたらどうだ?」
「……巨大な瘴気瘤で、幽世の民の心を乱すというわけか」
蓮がその結論に達した。
「最近多かった不正アクセスもそれが理由か? ネットモフリックスを妨害したり、ミーチューブで変な広告流したりってのも」
「おそらく。さあ、燃やしてくれ。お前の術なら瘴気ごと分解できるからな」
「秋唯さんは光希ほど優しくないんだな」
「何か言ったか」
「なんでもないでーす」
藍色の狐火が巨大な瘴気瘤を包んだ。蕾花の術は概念を含むあらゆるものを分解する狐火だ。藍色に見える火も、実際は妖力で空気を分解するときに発生する反応に過ぎない。
「終わったぞ。でも、これで攻勢は止むってことだろ」
「残党狩りもあるだろうが、楽にはなるだろうな」
「少し、肩の荷が降りたかな。狐春のやつが口には出さんが、明らかに疲れている顔をしていたしな……」
秋唯の旦那馬鹿が出て、蓮と蕾花は笑った。
「せっかくだし、俺が送ってくぜ。でも下水にいたから風呂場直行な」
「おい、私は女だ」
「わかってるよ、脱衣所の隅っこで背中向けてるって」
そう言って、蕾花は空間に穴を開けた。
——八部衆を一人討ち取り、敵の計画を阻止したが、まだまだ影法師との戦いは始まったばかりに過ぎないのだった。
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