第18話
母が現れたということは…。
階段を登ろうと踏み出した瞬間、頭上から父の死体が降ってきて、僕の目の前でだらん…とぶら下がった。
悲鳴こそ上げなかったが、僕は小さく跳び上がり、その拍子に足を滑らせた。
「ホタル!」
咄嗟に、充希が腕を掴んで支えてくれた。
引っ張って立たせると、赤くなった僕の頬を、愛おしそうに撫でた。少し転びそうになっただけで、この騒ぎ様だ。真琴ならきっと、「どんくさいのね」と言ったことだろう。
「しっかりしてくれよ。雪は滑りやすいんだ」
「…うん」
父の亡霊の横を通り過ぎ、二階に辿り着く。
早く栄養剤を飲むために歩き出そうとしたが、僕の部屋の目の前に、口から血を垂れ流す老婆が立っているのが見えた。
まるで、待ち構えているかのようだった。
「…ごめん、充希。お願いがあるんだ」
「うん? どうした?」
「僕の部屋から、栄養剤を一本、持ってきてくれ」
「はあ?」
充希は当たり前の反応を見せた。
「なんでだよ。外で飲む必要があるのか?」
「…うん」
「中で飲んだっていいじゃないか」
「…そういうわけには、いかないんだ…」
栄養剤を飲まないと、この亡者どもは消えない。
そうしないと、部屋に入ることが、できないんだ。
「…頼む」
「…わかったよ」
充希は腑に落ちないような顔をしていたが、僕の頼みを聞き入れて、栄養剤を取りに部屋に戻っていった。
その間、僕は何も見ないで済むように、通路の壁際に蹲り、顔を埋めて静かに待った。
「持ってきたよ」
充希の声がして顔を上げた。
彼女は部屋からとってきた栄養剤を僕の手に握らせる。
その後ろには、焦げた母と、首を吊った父、そして、血を吐く老婆が立っていた。
「冷えたのか?」
「そう言うわけじゃないんだけど…」
きっと充希は、「飲み過ぎはよくないよ」と咎めるだろうから、それよりも先に栄養剤を開けて、一気に飲んだ。冷たい液体が喉を滑り落ちた瞬間、後頭部が、かき氷を食べた時のように、キーンと痛くなった。
思わず頭を押さえた僕を見て、充希は小さなため息をついた。
「…痛いのか? 一気に飲むからそうなるんだ。大体、ホタルは少し栄養剤を飲み過ぎるから」
「…大丈夫」
目を開けると、亡者たちは消えていた。
一度だけ考えたことがある。「栄養剤の飲みすぎで死ぬ」のと、「一生、この亡者を見続ける」のとでは、どっちがマシなのか? と。答えはすぐに出た。前者だ。
神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世は、「生まれたばかりの子供を何も話しかけずに育てると、どんな言葉を話すのだろう?」と疑問に思い、従者に命じて、その実験を遂行した。従者たちは、何も話しかけない。スキンシップを取らない。能面のような顔をして、工場作業のように子供を育てた。すると、半分の赤子が、二歳にならないうちに死んだ。生き残った子供も、言語障害や知能障害を負った。この実験の被害者に比べたら、僕の境遇は幸せな方なのだろう。だが、死んでいった赤子に近いことに代わりは無かった。
愛情を受けなかった。覚えているのは、痛みと、耳を塞ぎたくなる罵詈雑言。そんな、肥溜めの糞のようなものを浴び続けた僕が大人になった。当然、まともな人間になれたはずがない。
そうだ、まともじゃないんだ。
まともに生きてこられなかったから、この先も生きていけるはずがない。良いことなんてなかったから、この先、生きていたって良いことがあるはずがない。つまり、早死にしたって、なんら問題は無いのだ。「じゃあ、今すぐ首を吊って死ね」と言われるかもしれないが、それは少し違う。やっぱり、苦しいのは嫌だった。
生きることも、死ぬことも億劫なんだ。
だったら、こうやって栄養剤を飲んで身体を蝕み続け、現れる亡者たちを見ないようにしながら、腐るように死んでいくのが、僕にとっての最善解だった。
そうだ…、これで良いんだ…。
「冷えたね。ほら、早く部屋に入ろう」
充希が僕の腕を掴んで立たせる。
「あ、そうだ、コーヒー飲もうよ。インスタントってまだ残っていたっけ?」
「…うん」
充希の冷えた手が、僕の冷えた手を握って引っ張った。お互いの指は冷えていたはずなのに、その薄い皮の奥、さらに骨の奥に、布団で眠るときのような温もりを感じずにはいられない。
本当に、変な感じだよ。悪霊の癖に。
真琴とは、大違いだ…。
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