勇者は世界を裏切った
紳士やつはし
プロローグ
第1話 知らせ
——勇者レインが魔王の手に堕ちた。
勇者を除く一行と魔物たちの衝突で、戦場と化していた魔王城裏門。
雪の混じった北方の冷たい風が吹き、その場に残された三人の体温を奪った。
その知らせを受けた時、武闘家のギンは呆然としている最中だった。
一人魔王城に突入した勇者レイン。それを追おうとしていたはずの魔物たちが、一斉に活動を停止したからだ。
その知らせを受けたことによって、彼の頭の中は混沌を極めることとなる。
「ウソだろ……?」
静寂を取り戻したその白銀の平地に、ギンのくぐもった声が吸い込まれていった。
伝令の水晶を握った今、この場で幾千もの魔物を足止めしていたその拳が、初めて震えた。
ギンをはじめとした勇者一行は、勇者ひとりに世界の命運を託し、魔物の足止めに専念していた。
それは、勇者レインの意向と指示であった。
彼女らがその気になれば、ここ一帯の魔物を殲滅するのにそう時間はかからないだろう。
しかし、勇者レインは一行に不殺を呼びかけた。勇者はそういう人間だった。
その理由は、魔物が元人間だからという極めて単純なものだった。
彼女は「魔王を倒せば魔物は人間に戻る」というなんの根拠もない説を信じていた。いや、信じていたと言うより、賭けていたと言った方が正しいだろう。わずかな可能性。あるいは一抹すらあるかどうかわからない希望に欠け、勇者は一人で世界の命運を背負ったのだ。
それほどに、勇者レインは
あいつが魔王の手に堕ちただって……?
故にギンは信じなかった。あるはずのないことなのだ。
ギンはその知らせの真実として考えられる、あらゆる可能性を脳内で模索しようとした。しかし、わからない。ギンは頭がよくないが、もはやそう言う問題ではない。
ギンは動揺した。戦慄したと言っていい。それはあるいは、この世界が初めて魔法を認識した時に負けずとも劣らないくらいの、それほどの衝撃なのかも知れなかった。
彼の肩に、ゴツゴツした大きな手が置かれた。
「ギンちゃん。落ち着いて」
ギンが振り向くと、僧侶の装束を身に纏った筋骨隆々の男がそこにいた。
「グリザ姉さん……」
「レインちゃんがそう簡単に手懐けられるとは思えないわ」
グリザ姉さんことグリザノスは、ギンよりもずっと古くから勇者のことを知っていた。
故に知らせを受けた際の衝撃はギンよりも遥かに強く、またそれ故に、動揺はすぐに否定へと
変化した。
レインちゃん。一体何があったっていうの。
彼、あるいは彼女は、勇者レインを信頼している。
「確かめに行きましょう」
グリザはそう言ってギンと視線を合わせ、次いで視線を下げてもう一人のパーティーメンバーを見た。フード付きのローブを着た少女、魔法使いのリディアだ。
ギンは「そうだな……!」と言っていつもの調子を取り戻し始めたが、リディアは普段の無表情ではなく、まだ明らかに動揺していた。
リディアは最後にこのパーティーに加わったが、ルマニス屈指の魔法使いである彼女は幼い見た目の割りに極めて頭がいい。
だからこそギンやグリザよりも論理的で鮮明な、「ありえない」という否定が彼女を動揺させた。
ギンの頭では厳しかったが、リディアは知らせにあったことの真実について、あらゆる可能性を並べることができた。
人質。精神魔法。トラップ。洗脳。
だがすぐに、彼女の頭脳が言うのだ。
そんなの、レインに通用するはず無い。
例えば魔王が勇者の精神を掌握するような魔法や罠を用意していたとしよう。リディアにとって、そのような手段が全人類史上最も通じない人間が勇者レインだった。
「考えても仕方ねえだろ」
リディアの小さい背中を遠慮なく叩いたのは、ギンだった。
「本人に聞けばいいんだ」
馬鹿なギンにそう言われたことに腹を立てたのか、リディアは一瞬ムッとしてギンを睨む。
だがギンは睨まれたことに気づかず、彼女の隣に並んだ。
リディアはため息をついたが、そのあとはいつもの無表情に戻っていた。
グリザがその顔を見て、安堵の息を漏らす。
直後、遠方で爆発音がした。魔王城正門橋がある方角。それは大量のルマニス連合軍が、囮として攻め込んでいるはずの場所だった。
それは、単なる魔力の放出だった。魔王城側から放たれた魔力の波が、魔王城の城下にある森から巨大なカーテンのように顔を出し、地平線の彼方へ伸びていった。
三人は驚愕した。魔力の色が暗い赤。勇者レイン特有の色だったからである。
「行こうぜ」
「ええ」
ギンの言葉にグリザはずっしりと決意のこもった返事で返し、リディアは我先にと必死に小さな足を動かして答えた。
驚愕し、戦慄し、しかしだからこそ確かめなければならなかった。
三人は等しい信頼とともに、それぞれの思いを胸に抱く。
あいつを苦しめる奴は、俺が全部ぶっ壊す。
私たちがいるってこと、また忘れてるなら思い出させてあげなきゃね。そしたら思う存分抱きしめてあげるんだから。
私はまだレインを解明し切れてない。だから勝手に私の元を離れるなんて許さない。
三人の魔力が混ざり合い、絡み合い、一つの白い巨大な魔力となって、天空を覆う雲を貫いた。
それに気づいた連合軍の生き残りや魔物、
勇者レインもまたその内の一人だった。ただし彼女が抱いた感情に恐れや慄きはなく、とりわけ強い感嘆が一つあるだけであった。
三人が正門橋の前にたどり着くと、そこには地獄のような風景が広がっていた。
どこまで続いているのかもわからない、抉れた大きな一本道。
その両脇に原型のわからない肉の塊や血が大量に散乱し、それらが道を沿うようにして、白をかぶった森に赤いラインを描いていた。
そこかしこからうめき声が聞こえてくる。
人の焦げた匂いが、抉れた地面から立ち登る蒸気に乗って漂っていた。
正門橋の入り口をくぐって少しした地点に、抉れた道の出発点があった。そしてそこには、一人の女があぐらをかいて座していた。
雪はまだ降り続いている。
「やあ、みんな」
レザーのベストに、重要部分を守る純白の鎧。
なんの価値もないもののように傍に放ってある聖剣。
薄く赤みがかった短い髪。そして太陽のように輝きを失わない琥珀色の瞳。
三人が感じた異変はせいぜい、大切にしていた聖剣が雑に扱われていることくらいだった。
彼女は紛れもなく、三人が知るままの勇者レインだったのだ。
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