#HAVEN (ハッシュタグ ヘイヴン)

@AqiraTX

第1話


第一話: プロローグ及び二人の警官と第一の自殺願望者


第一話の登場人物/犬

【マモル】三本足の若い野良犬。自殺者が後を絶たない浜で、ジョージというホームレスの青年と出会い意気投合。ジョージの入水を必死に止め、続けて二組の自殺も阻止した。そして、生まれて初めて人間と共に生きることになる。


【ジョージ】荒川河川敷でホームレスをしていたが、34年のまだ短い人生を畳むつもりで浜に来た。マモルに入水を止められ、マモルと共に生きることを決める。


【ブチョー】定年を控えた巡査部長。地元ハーレーチームのリーダーで、ジュンSirの親代わり。三組の自殺未遂者たちの社会復帰を精力的に応援する。


【ジュンSir】地元警察の若い巡査。ブチョーが定年退職すると、自分も警察官を辞めてプロジェクトに加わる。




プロローグ


 朝陽に輝く静かな浜に、今朝もニンゲンの溺死体が一つ打ち上げられた。

 この浜を繩張にしている若いオスの野良犬は、浜に打ち上げられた土左衛門から四、五メートル離れて、ソレを見護るかのように伏せている。

もちろんこの浜には、魚や水鳥、猫などの死骸も打ち上げられるが、一番多いのはやはりニンゲンである。ニンゲン以外の生き物は、この浜から沖を目指すようなバカはやらない。

他の場所で病死したり襲われたりした生き物の死骸は、時間をかけてここに流れ着くので無残なまでに腐敗しているが、ニンゲン達はこの浜から海に入り、早ければ翌日には戻り流で浜に打ち上げられるから、皮膚が白くなり少しむくんではいるがさほどひどい状態にはまだなっていない。

生きている時は怖いニンゲンも、死んでしまえばカラスやカモメや魚達にとっては格好の朝ごはんでしかない。

 この浜にはこの野良犬しかいない。ここに来る野良犬達は、ニンゲンに見つかると数日のうちに捕らえられ、どこかに連れて行かれて二度と戻る事はない。

 車に轢かれ前足を一本失ったこの野良犬は、ほかの犬たちよりずっと逃げ足が遅い。だから彼はこの浜に流れ着いてから、日中はニンゲン達に見つからないようなるべく潜んでいて、陽が落ちてから餌探しに出ていたのでこれまで何とか捕まらずに済んだ。

 この浜に来て間もないある明け方、この浜で初めてニンゲンの死体を見つけた時は、死体を餌にしようと集まって来るカラスやカモメ達を、ただ自分の縄張りの主張のため追い払おうと走り回っただけで、どうしたらいいかわからずボーッと伏せをしたままソレを見ていた。

 やがて日が昇り、ニンゲン達がパラパラと浜に集まり始め、死体に近付いたり当巻きに見たりしていた。その時の朝陽の中に佇む野良犬の様子が、あたかも死体を拝んでいるような、あるいは群がる鳥達から死体が荒らされないように護っているような、何か感動的な印象をニンゲン達に与えたのか、誰も彼を追い払おうとはしなかった。その後、何回か溺死体を見つけるたびに同じ行動を取っていたら、ニンゲン達が優しくしてくれ、有り難いことに喰い物さえくれるようになった。

 この野良犬も何となく自分のやるべきことを理解し、この浜に定着することを認めてもらったと思い始めた。そしていつしか、ニンゲン達はこの野良犬を“護り犬”そして“マモル”と呼ぶようになった。

 マモルには腑に落ちない事が一つある。

(ニンゲンというやつは、頭がおかしいんじゃないのか?オレ達と違って天敵もいないし、喰いものにも困らないのに、なんで自分から海に入って死のうとするのか?)

今朝見つけた死体は、やはり昨夜遅く海に入って行った男だった。

 その男は浜辺に坐ってじっと海を見つめていた。マモルは少し離れた所から男の様子を見ていたが、その男は“くっくっ”と肩を上下に揺らして苦しそうに泣いていた。

 ニンゲンだけが目から涙を溢れさせ、泣くという行動を見せるのをマモルは知っている。そして、泣くニンゲンは決して攻撃的ではないので、近付いても安全だということも経験上知っている。

 マモルは泣いている男との距離をもっと詰めようと思い、相手を驚かさないようにゆっくりと彼の視野に入るよう遠回りして、男の視線が自分を捉えるのを待って地面に伏せた。幸い男は少しも驚かず、むしろ全く敵意のない涙に濡れた顔でマモルに微笑んだ。マモルが男まで二メートル程まで近付くと、男は両手を前に出し(側まで来い)と誘った。マモルが男の横まで近付くと、男はマモルの頭を愛おしく撫でてにっこり笑った。

 男はしばらく無言でマモルと見つめ合った後、立ち上がってふらふらと海に入り、ずんずんと岸から遠ざかりそのままふっと消えてしまった。今、目の前に横たわる男は、着ている物も同じだし昨夜嗅いだ男の匂いがまだしっかりと記憶に残っている。

 夜にこの浜に来るニンゲン達は、皆決まって海に入って行く。マモルはそういうニンゲンを何人も見送ってきた。自ら死んで行くニンゲンの気持ちなんて犬には分かるはずもなく、別に止める理由もない。全ての生き物が怖れるニンゲンには、彼等なりの苦難があるのだろうが、ニンゲンの限界などほかの生き物にとっては屁でもないとマモルは思う。

 薄暗く人気のない海岸で野良犬に出会ったら、普通の人間ならびっくりして、石や棒切れなどを投げて追い払おうとするか、襲われないように逃げるかである。しかし、ここに来るニンゲン達は、例外なく野犬さえも怖れる気力もないほど憔悴していた。

 入水しようとするニンゲンは、死の直前に出会ったのが自殺を引き止めようとする人間ではなく、同じく不遇の三本足の野良犬であったことに安堵し、決心が揺るぐことなく、まるで“見送ってくれてありがとう”と言わんばかりに最後の微笑みを見せたりする。あるいは海に入る直前まで、たかが野良犬に何かを託すように話しかけて来る。もちろんマモルには彼等の言うことは分からないが、寂しげな表情を見せられるとつい神妙な態度で聞くことにしている。

 波間に消えて行くニンゲン達の中には、遠くに流されて二度とこの浜には戻って来れない者もいる。マモルには数の概念がないが、海に消えていったうちの誰が浜に打ち上げられたかは、見送った時の匂いで思い出せるのだ。

 こうしてニンゲンの死体を護ってさえいれば、喰い物には困らないし、逃げ隠れしなくてもいい。だけど……何かむなしい、とマモルは思い始めていた。

(これがオレのやるべきことなのか?海に消えるニンゲン達をただ見送り、打ち上げられた死体を見つけて護るだけ……。とは言え、この浜に死体が上がらなくなると、オレはここに居させてもらえないかもしれない。また知らない土地に流れるのも面倒だ)

 マモルは海に入っていくニンゲン達を、これまで一度も止めようとしなかった。吠えるなり服を引っ張るなりしたら、もしかして自殺を思いとどまらせる事が出来たかも知れない。

(そうだ!ニンゲン達が海に消えるのを止めさせる方がもっと喜ばれるのかも知れない。よし、今度ここから海に入ろうとするやつが来たら邪魔をしてみよう。そこからどういう展開になるのか試してみるのもいいだろう。これからは死体の護り神から、生きたニンゲンの護り神って訳だ)


 太平洋に面したこの海岸は、地形のせいか離岸流が非常に強く、これまで多くの犠牲者を出して来た。死ぬ気なら確実に遠くまで流してくれるので、途中でためらっても戻ることは出来ない。

入水自殺者が後を絶たないため、ソーシャルメディアで話題になると、次第に“確実に死ねる海岸”として一層自殺希望者が集まるようになった。SNS上では皮肉を込めて、行列のできる自殺スポットとか、しょっちゅう土左衛門が上がるので、DO-ZAEMONビーチとさえ呼ばれるようになって、肝試しに来る若者達さえ現れた。

地元の役場や警察・消防は、後を絶たない自殺者に頭を悩まし、地区のイメージダウンを食い止めようと躍起になるが、これと言って有効な方法が浮かばない。せいぜいパトカーの巡回をいくらか増やしたくらいである。そもそも自殺願望者は誰にも見つからないように隠れたりするので、自殺者を事前に発見することは困難である。


二人の警察官

 

 まばらな街灯だけの薄暗い海岸沿いの道を、パトカーが速度を落として走って来る。自殺願望者がパトカーを見て身を潜めることのないように回転灯は点けていない。しかし車内の警官二人は海岸の人影を見つけようと目を凝らしている。

「ブチョー、あれってキャンピングカーですかね?」

運転している若い巡査が、フロントガラスに顔を近付け前方を見ながら相棒である中年の巡査部長に聞いた。少し先に一台の中型キャンピングカーが停まっている。

「そうだな、しかし何でこんな呪われた所にわざわざ来るのかね?」

ブチョーが抑えた声で言う。

「キャンピングカーを持つくらいなら暮らしにゆとりもあるだろうし、自殺しに来たとも思えんが……」

「取り敢えず降りて見てみますか?」

(そうしよう)とブチョーが応え、二人パトカーから降りてキャンピングカーに近づいて行った。車には灯りが点いておらず、弱い月明かりの下でもフロントシートには誰も座っていないのがわかる。巡査が懐中電灯で照らそうと構えた時に、ブチョーが止めた。

「やめとけ、中に人がいたら眩しいし、おたのしみ中だったら興醒めするからな」

「それもそうですよね、へへ!」

巡査がニタリと笑って答えた。

「オイ、ジュンSir、何だその助平そうな返事は?」

「やめて下さいよ!ブチョーが先にお楽しみ中って言ったんじゃないですか」

「別に珍しい事じゃないだろう。一晩に何台もそれらしいクルマを見かけるからな……ジュンSirはヤッタことないのか?」

「ナ、ないっすよ、そんなこと!警察官になってから彼女さえ出来ないんですから……情けないっす、ったく!」

ジュンSirは悔しそうな顔をした。

「そういうブチョーはあるんですか」

「あるさ、何度も」

「何度もって……」

「羨ましいだろう?別れたカミさんとデートしてた頃、ホテル代を浮かすためにな」

「で、今はどうなんです?」

「ある訳ないだろう。だけど、定年退職したらまたチャンスが出来るかもな」

ブチョーは期待するように言った。

 巡査の名前は淳だが、仲間内では巡査との語呂合わせで敬称のSirを付けてジュンSir で通っている。そう呼び始めたのは、勿論ブチョーである。

 外観には特に不審な点もないので、ジュンSirがキャンピングカーのナンバーを控えるのを待って二人はパトカーに戻り、車を廃業したレストランの駐車場に入れ、海岸が見渡せるように停めた。

 ジュンSirがコンビニ弁当や惣菜パンなどが入ったポリ袋を膝に置いて、中身を再確認しながら何から食べるか選んでいる。

 ポリ袋の中身はパトロールの立ち寄り所であるコンビニで、廃棄時間が迫った弁当や総菜を分けてもらったものだ。コンビニのオーナーはどうせ廃棄するものだからお金はいらないと言ってくれるが、公務員である以上タダというわけにもいかず、弁当でもサンドイッチでも一個100円ということでコンビニも警官も納得のルールが定着した。

 今日もワンコインで弁当三個とサンドイッチ二個、おまけでおにぎり、おかずなどを分けて貰った。もちろんいつものように、浜の護り神であるマモルへのお土産も含めてである。

 二人ともパトロールに出る前に軽く食べてはいたが、若いジュンSirは体格が良く食欲も旺盛で、缶コーヒーを飲みながら弁当一つをさっさと平らげ、さらに焼きそばパンとサンドイッチを数切れ食べた。ブチョーの方は弁当のおかずを少しとおにぎり一個で十分だった。残ったものは全部マモルの餌となる。

 パトロール中の楽しみであるおやつタイムを終えると、短いくつろぎの時間となる。

「もうすぐですね、ブチョーの定年退職……」

「あゝ、一般人に戻って再出発できるのが待ちきれないよ」

「オレはブチョーがいたからこれまでやって来られたようなもんですよ。田舎町の警察官なんて、惰性で続けるのがやっとですからね」

「そうかも知れないな。治安維持と言う大義名分はあっても、振り返ってみればオレも仕事を楽しんだ事はほとんどなかったなぁ」

「ブチョーにはいろいろ教えてもらったし、ミスした時に庇ってもらった事も何度もあるし……」

「お前のオヤジには世話になりっぱなしだったんで、恩返ししただけさ。警察辞めても面倒見てやるから心配すんな」

ブチョーはそう言ってジュンSirの肩を軽く叩いた。

 ジュンSirの父親は、ブチョーとは苦楽を共にした同僚警官だったが、四十を過ぎたばかりの働き盛りに心不全で急死した。父親の代わりと思ってジュンSirは地元の警察官になった。それ以来、ブチョーには何から何まで、特に数年後母親までも病気で亡くしてからは、一人っ子のジュンSirにとっては唯一の身内みたいな存在だった。

 自分が尊敬できる人も信頼できる人も管内には一人もいないし、ブチョーが定年退職したら、こんな田舎町で定年までオマワリを続けるのは耐え難いに違いないとジュンSirは思い始めていた。

 盛り上がらない話題はすぐにしぼみ、二人でしばらく無言で浜辺を監視していると、右手の方から自転車がヨタヨタと走って来た。

「自転車が来ますよ。無灯火だしチョット怪しいですね。前にあった日本一周を装った指名手配者だったりして、ハハ……」

「それにしては荷物が少なすぎるな。見た感じ、日に何キロも走れるような自転車じゃないようだし……。もっと近くに来たらバンカケしてみるか」

「了解!」

退屈しているジュンSirが嬉しそうに応える。警察官にとって職務質問、彼らの隠語でバンカケは、水戸黄門の印籠同様に権威があり退屈しのぎにはもってこいである。しかも運よく何か嗅ぎ出せれば昇進のポイントになる。


第一の入水自殺願望者


 不快な機械音を軋ませながらぎこちなく走るサビだらけの自転車には、ポリ袋や古びたバッグがいくつもくくりつけてある。乗っている三十代前半位の男は、ボサボサの髪に無精ヒゲ、着ている物はボロに近い。どう見てもホームレスである。そんな外見ではあるが、男は上機嫌な表情で微かに口笛を吹いている。

 潮騒が心地よく、子供の頃から大好きだった浜の匂いに包まれ、いよいよ今夜は大して長くもなかった人生をたたむつもりで、この男はやっとの思いで東京からこの浜に辿り着いたのだ。

(今日はまさに自殺日和だ)

男はそう自分に言い聞かせた。

 若い男はこれまで根城にしていた荒川河川敷のホームレス仲間からこの海岸のことを聞いた時から、ここを人生の終着点にしようと目指してきたのだ。どうせ死ぬなら、汚い都会の川ではなく子供の頃遊んだような綺麗な海で死のうと決めていた。

 このポンコツ自転車でここまで来れたのは上出来だった。途中、何回かパンクしたが、別れ際にホームレス仲間からプレゼントされた百均のパンク修理セットと空気入れが大いに役に立った。

 まともに食事を取っていない体はもう限界に近かった。それでももうすぐ全てが終わると思うと妙に達成感が込み上げて来る。

 うらびれた海岸沿いの道路にはポツンポツンと街灯があるだけで、廃業したレストラン以外は建物もない。月明りだけの薄暗い路上に、まるで場違いなクリーム色の立派なキャンピングカーが男の目に入った。若い男はそれを横目に見ながら一旦通り過ぎ、十メートルほど離れて自転車を停めた。背中を伸ばしたり屈伸したりしているが、目はキャンピングカーを何度も見ている。そしてゆっくりと車に近づいて行き、興味ありげに眺めながらゆっくり一周した。

(こんな立派なキャンピングカーで気ままに行きたいところに行って、くそっ、結構な身分だよな!)

 男はキャンピングカーを見かけるたびに、自分もいつかはキャンピングカーで日本中を巡ってみたいと、叶うことのない思いを持っていた。

(今夜この海に入って死のうとするオレに、追い討ちをかけるように自分の不幸な生い立ちを思い知らせてくれるとはな……)

男はいまいましく思った。同時に今夜のこの最後の瞬間に、自分の夢であるキャンピングカーを見せてくれたことをせめてもの餞別と思うことにした。

 自転車の男がキャンピングカーを物色するようにぐるりと回るのを、パトカーの中から(怪しいやつ)と決めつけていたジュンSirが呟いた。

「あいつ、車上狙いでもするつもりですかね?」

「そうは見えんな……。車上狙いなら、盗品の入れ物や道具類を持ってるもんだ。あれは車上狙いの動きじゃないよ。ただ珍しいものを見ているって感じだな」

「なるほど、長年の勘ですね!」

ジュンSirはブチョーに尊敬の眼差しを向けた。

 警官達に見られているとは知る由もなく、男は人生最後の日に憧れのキャンピングカーを見せられ、嫉妬と興奮を交えた妙な気持ちで車から離れ、自転車の方に戻って行った。

「では、バンカケに行きますか?」

ジュンSirが意気込んで言う。

「いや、もう少し様子を見よう。このあと海岸に降りたら、自殺願望者かも知れない。バンカケはそれを見極めてからでいいだろう」

ブチョーはそう言って手にした缶コーヒーを一口飲んだ。

 男は自転車に積んだ荷物から、毛布のような物とビニール袋を一つ取って、コンクリート塀の切れ間から海岸へ降りて行った。それを見届けると警官達は音を立てないように車外に出て、浜が見える位置まで移動した。浜に降りた男を観察しながら、男が乗ってきた自転車を簡単に調べた。

 自転車旅行はとても無理そうなくたびれた錆だらけの車体に、寝袋らしきものと少しばかりの荷物が載せてある。勿論防犯登録は見当たらない。特にこれといった犯罪性もなさそうなので、二人の警官は足音を立てないように海岸へと降りていった。

 先に浜に降りた若い男は、今日で最後になる地球の空気を味わうように磯の匂いたっぷりの風を胸いっぱいに取り込んだ。

 近くに大きな流木が横たわっていた。男は疲れ切った体を休めようと、穴だらけの毛布を体に巻いて、流木に背中を預けるように座り込んだ。空を見上げ、深呼吸すると見事な星空が広がっていた。

 今日という日は、つくづく自殺日和だと思えて嬉しくなった。

(ここまで来たら急ぐことはない、先ずは少し休んでからだ)

そう自分に言い聞かせると、ゆっくり目を閉じた。

 疲れていたのでそのまま目を閉じていたら眠ってしまったかも知れない。だが、目を閉じて間も無く、砂利を踏み込む音が聞こえてきた。男は振り返らずともどうせオマワリに違いないと確信していた。

 中学の時から今に至るまで、警官にはしょっちゅう呼び止められる対象だった。自分に声をかけて来るのは警官くらいで、バーの呼び込みさえ相手にされず、道を聞かれることさえなかった。

 松ヤニで固めたようなボサボサ頭、グリスを塗ったようにテカる服、拾って来たような(実際そうだが)ボロ靴、滅多に洗わない顔に無精髭、これでは無理もない、と自分でも納得している。

「こんばんは」

少し離れたところから、ブチョーが男にゆっくり穏やかに声をかけた。相手になるべく威圧感を与えないようにすると、職務質問を上手くこなせると日頃からジュンSirに言っている。

 声をかけられて、男は座ったまま落ち着いて振り返った。ブチョーとジュンSirはゆっくり近付いて来て男の前に回り込んだ。ブチョーは歳相応の笑顔で優しい目を向けている。ジュンSirは男の履いている穴が開いてボロボロの、しかも左右が同じでないスニーカーを見て、すでに軽蔑の目を向け始めた。

「県警の近藤と山口です。ここで何をしてるんですか?今日はお一人かな?」

ブチョーは名乗ってからお決まりの職質を始めた。若いジュンSirは職業剥き出しの目を男に向けている。それも無理はない。いかにも路上生活者と思える身なりの男が一人、人気の全くない夜のDO-ZAEMONビーチに、それも自分達の当番の夜に出没するのはいい迷惑なのだ。ましてやこの後自殺でもされては、事後処理や報告書作成が面倒臭い。

(もし死ぬんだったら明日にしてくんないか)

ジュンSir はそう思っていた。

「あっ、オレ?これからここでお一人様パーティだよ!」

男はそう言うと、コンビニの袋を持ち上げてゆするように見せた。

「こんな寂しい海岸で、しかも一人で何のパーティなの?何かいいことがあったのかな?」

ブチョーの口調が少しずつ上から目線になってくる。

「今日はオレの誕生日なんだよ」

「あっそう、誕生日なんだ?でもこんな所じゃなくて、もっと賑やかな所で、友達とか呼んでさ」

ジュンSirが言った。

 男はその皮肉を込めた口調から‘路上生活者仲間と祝ったらどうだい’と言われていると思い、

「一人で生まれて来たんだから一人で祝って何が悪い!」

ムッとして言い返し、さらに吐き捨てるように続けた。

「見たら分かるだろう……住所不定無職、身寄り無し、ガキの頃からいつもこうさ。良かったら、あんたらをパーティに招待してもいいぜ、プレゼントはいいからハッピーバースデーくらい歌ってくれるかな、ガハハ」

「ご招待はありがたいが、歌はどうも苦手でね、それにまだパトロールが残っているんで今日は遠慮しときます。ところで、ここで一晩中パーティっていうわけじゃないよね?」

ブチョーが続けて聞いた。

「ああ、十二時を回ったらもう誕生日ではないから、それまでにちゃんとケリをつけるさ。ところで今何時かな?」

「十時四十五分だね」

ジュンSirが腕時計を見て答えた後、続けて聞いた。

「ところで、上に停めてあるあの自転車はおたくの?」

「あ~アレ?アレは拾い物!捨ててあったんだ。見りゃわかるだろう、あんなガラクタじゃ盗難届け出す奴もいないよね。盗品かどうか、勝手に調べてくれ。何なら持って行ってもいいよ、もう要らないから」

男は面倒臭そうに答えた。

(オマワリって奴は、みすぼらしい格好をした不審者への職質は一段と上から目線になる。まっいいさ、いつもの事だ)

「一応確認のために聞いただけなんで……」

(あんなオンボロチャリの後始末を押し付けるなよ)

ジュンSirは苦笑いした。

「ケリをつけるとか、もう自転車は要らないからとか言っているけど、まさかここで自殺する気じゃないよね……」

ブチョーがズバリ聞くと、ジュンSirも注意深く男の反応を探った。

「めでたい誕生日に何で自殺しなきゃいけないんだ?第一オレはカナヅチで、水に入るのが大嫌いなんだぜ!」

男はそう言って質問をかわした。

「いやっ、そうじゃなきゃいいんだ。こっちもその方が後始末しなくていいから助かるからね。夜にこの海岸に来る人たちは自殺願望者ばかりなもんで」

ブチョーはそう言って帽子を取って頭をポリポリ掻いた。

 ブチョーはこの男もその目的で来たとはにらんだが、様子からして確信が持てない。この男には何とも"追い詰められた感"がないのだ。いずれにせよ本人が否定しているので今の段階では保護する事もできない。

「ちなみに、名前とか教えて貰ってもいいかな?」

ジュンSirが少しばかり穏やかな顔で聞いた。

男は「ムラカミ」とボソッと答えた。

「村上さんか、下の名前もいいかな?」

そう聞かれたので、男は面倒くさそうに「ハルキ」と続けると、二人の警官は顔を見合わせて苦笑いをした。当然本名じゃないとお互い思ったからだ。

 男は偽名を使い慣れていて、最近はムラカミハルキやヤザワエイキチなどがお気に入りである。ムラカミハルキが相当有名な小説家だとは知っているが、もちろん本は読んだこともなければハルキの漢字さえ知らない。

男の名は譲司だが、長い間、本名を使う事も聞かれる事もなかった。このジョージという外人っぽい名前のせいでよくからかわれもした。警官に本名を言ったとしてもそれを証明できるものは何も持っていないし、偽名だって一応質問には答えたことになる。案の定、次の質問が続いた。

「身分を証明できるもの、何か持ってる?」

ジュンSirは無駄だと思いながらもマニュアル通り聞いた。

「ないよ、そんなもん!免許は持ってないし、健康保険もないよ。名前も生年月日も忘れちゃってさ。ほら、あれ、個人番号だかマイナンバーだかってのも知らない。よく"自称住所不定無職"ってニュースでやるけど、オレは自称じゃなく本物だからね!」

男はやや自慢気に答えた。

 警官達は男が職質に慣れていると思いながらも、なるべく情報を得ようとした。

「生年月日を忘れたって言うけど、さっき今日が誕生日って言ったでしょう?」

「あっ、そうだった!うん、今日が誕生日なんだ。でもさ、誕生年が思い出せなくて……昭和だったか、平成だったか、もしかして令和?」

「くッ、令和生まれならせいぜい五歳ですよ。五歳がホームレ、あ、失礼、住所不定無職ってあり得ないし……」

ジュンSirが呆れたように言った。

「ガハハッ、五歳のホームレスがいたらギネスもんだな、ハハ!」

ジョージが大笑いした。ブチョーとジュンSirは笑うどころかウンザリしている。

 路上生活者が世間から忌み嫌われるのは当然で、ジョージはそれに文句を言うつもりはない。むしろ”良識ある人々”が近付こうとしないので、不要なトラブルが避けられる。しかし警官はホームレスにも接触しなければならない。路上生活者の中には指名手配者もいれば、捜索願いが出されている者、あるいは犯罪予備軍もいるだろう。

しかし、職質をくらう側はたまらない。街中で職質されると、何もやましい事がなくても、周りに犯罪者のようにジロジロ見られる。何よりも警察官の自分達を見下した態度が我慢ならない。今、目の前にいる若い巡査もそうだ。背が高く筋肉質でやや端正な顔をした若者は、職権と制服の威厳を剥き出しにしている。

 しかしジョージには強力な武器があった。そろそろこの小生意気な若い巡査の上から目線をヘナヘナにしてやる頃合いだ。ジョージはゆっくりと立ち上がり、二人の警官に自信ありげに対面した。

「お二人はオレがこんな風体だから,そうやって上から目線になってるんだね」

ジョージがこれまでのふてぶてしい顔付きから、急に知的な真顔に移ったのを見て警官達は一瞬戸惑った。

ジョージは、ゆっくりとやや重い声で言った。

「日本国憲法第十三条、すべて国民は、個人として尊重される。同第十四条、すべて国民は、法の下において平等であって……、以下省略!」

(本当はこの後をよく覚えていない)

束の間、時間が止まった。二人の警官は職質でこういう風に切り返されると、一筋縄では行かないことを何度も経験している。

 路上生活者の中には、高学歴を持つ者や、昔はそれなりの地位にいた人が少なくない事を警官達はもちろん知っている。

程度の差はあれ、法律の知識を持つ一般人も少なくないので、憲法十三条や十四条を突き付けられることはよくあることで、それだけでは何とも思わない。しかし住所不定無職の輩に言われると、いささか構えざるを得ない。

「その“すべて国民は”についてだけど、あなたが身分を証明してくれないから本当に日本国民かどうか確認できないじゃないですか」

ブチョーも負けてはいない。

「オッ、さすがベテランだね。そいじゃ、こっちも反論させてもらうけど、憲法でいう人権は性質上可能な限り日本にいる外国人にも及ぶとされている。オレが日本国民かどうか関係ないんじゃね~の?」

(こいつ、下手に扱えないな)

ブチョーもジュンSirも次の句が出ない。

「まっ、それは置いといて……、オレって結構怪しいよね。それじゃ~さ、警察署で取り調べしてくんない?出るんでしょう、ほらあれ、カツ丼?嬉しいね、アッタかいカツ丼なんてもう何年も食ってないから」

「取り調べでカツ丼なんて出ませんよ。そんなの都市伝説です。警察でカツ丼なら、その上の検察なら鰻重ですか?」

ジュンSirが皮肉を込めて行った。

「それ、いいね!。その上の裁判所ではステーキに格上げだな、クックッ!」

ジョージは職質を自分なりに楽しんでいる。

「もうコントはそれくらいにして……、取り調べ中は、飲食やタバコとかの嗜好品の提供は禁止されているんですよ」

ブチョーが諭すように答える。

「へ~そうなんだ、残念。どうして禁止なの?」

知らなかったふりをしてジョージが聞いた。

「自白への誘導と見られるからですよ」

今度はジュンSirが投げ槍に答えた。

「それじゃ~、保護でもいいよ。行き倒れとか、酔っ払いとかで留置場に一晩、朝飯くらいは出るでしょうが。確か……ソクジキョウセイって言うんだよね。」

「もう勘弁してくださいよ、あなたを保護する理由が何もないんで……」

迷惑そうにブチョーが言った。

「ンなもん、アンタらお得意の冤罪とかでっち上げればいいじゃないか。さっ、手錠かけて!」

ジョージはそう言って両手をジュンSirに向けて差し出した。

「この位でいちいち手錠をかけていたら、クビになっちゃいますよ」

ジュンSirは手で制するように言った。 

「あっ、そう。じゃ、これでバンカケは終了って事かな?そうだよね、十分な嫌疑がなけりゃ根掘り葉掘り聞けないもんな。警察官職務シッコウ法第一条の2、公権力のランヨウにわたるようなことがあってはならない、だよね]

「いやぁ、参ったな」

(コイツ、バンカケっていう隠語まで知ってるんだから、下手に扱えないぞ)

ジュンSirが帽子を取ってどうしたものかと頭を搔いた。

「はい、パトロールご苦労様でした!」

そう言ってジョージはオーバーに姿勢を正し二人に敬礼した。警官二人も反射的に返礼してしまった。

 自分を守れるだけの最低限の法律知識を、ホームレス仲間から〝博士”と呼ばれていた先輩に叩き込まれたおかげでこれまで何度も職質を切り抜けて来た。もっとましな境遇にさえ生まれていたらもっと学も身に付いたんだろうなと思うと、今更ながらやり残した感が湧いてくる。

 二人の警官には男に自殺願望があるかどうか見極めきれないが、放浪者というだけで特に不審なところがなく、だらだらと職質を続けるわけには行かないし隠れて見張る訳にも行かない。ジュンSirもこれ以上聞いても無駄だと諦めて、ブチョーを見た。先輩はうなずいて、

「どうもご協力ありがとうございました。我々、これで失礼します。後でまた巡回に来ますから……」

男の反応を探るように言った。

(その時は、オレはもうこの世にいないよ)

ジョージはかすかにほほ笑んだ。

「これ、余った弁当なんだけど、後で犬が一匹近くまで来ると思うので、そいつにあげてもらえます?」

ジュンSirが持っていた弁当をジョージに差し出しながら言った。

「何だ?そいつ野良犬か?吠えたり噛み付いたりするんじゃないだろうな?」

ジョージはこの意外な依頼に怪訝な顔で応えてから、ぐるりと周囲を見回したがそれらしい犬はどこにも見当たらない。しかし、警官達はマモルがとっくに自分達を見張っているのを知っている。

「その犬はね、この浜の護り神でね、いい奴なんだ。別に汚くもないし大人しいから。それに、万一の場合はあなたを護ってくれるからね」

ジュンSirが意味ありげに言うと、ブチョーも横でかすかな笑みを浮かべて頷いた。ジュンSirはアンタと言おうとしたが、“あなた”に改めた。憲法を持ち出されたことが心理的に働いたようだ。

「そんなもん、そこいらに置いときゃいいじゃね〜か、何でオレがオマワリに貰った弁当を持って、野良犬を待ってなきゃいけないんだよ!」

「まあ、そう言わずに。折角だからパーティの仲間に入れてあげて下さいよ」

ジュンSirは笑ってポリ袋を押し付けた。

「そいつさぁ、他の野犬や路上生活者狩りのガキどもからオレを護ってくれるってか?」

そう言ってジョージはその袋を奪うように取った。

「ま〜そんなもんですね。とにかくその犬はあなたを癒してくれるから、ひとつ仲良くして貰えませんか」

ジュンSirは早くこの面倒な男への職質を切り上げたかった。

「ちなみに犬の名前はマモルって言います。よろしく!」

ジュンSirが付け加え、軽く頭を下げた。

「どうもお世話様でした」

そう言ってブチョーが半端な敬礼を返した。ジュンSirはむっつりとして敬礼はしない。二人は踵を返すと戻って行った。途中、思い出したようにブチョーが振り返り、

「今夜はずっとここにいるんでしょう?だったら海に入ろうって人を見かけたら止めてくれませんか。自殺者が多くて困っているんです」

そう言い終わると、二人の警官は上の道路に消えていった。

(何だ?オレに浜の番をしろってか?へっ、自分たちの仕事をオレに押し付けやがって。野良犬なんか知った事か!マモル?一体オレの何を守ってくれるってんだよ!)

ジョージは厄払いをするかのように、石を拾い前方に投げつけた。

 道路に戻ったブチョーとジュンSirは、もう一度自転車に目をやった。次に巡回で戻ってきた時に、もし浜に男が見当たらず自転車が残っていたら男は入水したと思えるし、自転車が消えていたら、どこか別の所に移動してくれたことになる。

(管轄外に出てくれれば一番ありがたい)

ジュンSirは心の中で願った。

「あいつ、自殺するつもりでしょうか?何かこう、どん底感とか感じられないんですけどね……」

ジュンSirが声を落として呟いた。

「分からんな〜、陽気に振舞って、笑顔で命を断つ人もいるからな~」

ブチョーはそう答えるしかなかった。

 ブチョーは何故か微笑んでいた。おそらく自分と同じように、この青年に言いようのない魅力を感じたのだろうとジュンSirは思った。

 二人はキャンピングカーの方も見たが、相変わらず灯りが点いておらず、人が乗っている気配がないので、そのままパトカーに戻りまたパトロールに出た。


 ジョージは警官達が立ち去ると、人生最後の誕生日を祝うためキャンドル代わりに流木を集めて焚き火をすることにした。自転車のある所へ戻り、マッチと古新聞を持って来ると小さな焚火を起こした。

いわくのある浜で焚火をすれば、ここに自殺願望者がいることを知らせるようなものだが、はたして近所の住人は引き止めようと降りて来るだろうか、とジョージは思った。

もし他の自殺願望者が来たとしたら、焚火を見て自殺をためらうだろうか?あるいは追い詰められた者同士、少しばかり身の上話をして、

(ではお先にどうぞとか、イヤイヤそちらからお先に)

とか話したりするのもありか、と想像すると可笑しくなった。

 しかし、誕生日にあの世に旅立つ神聖な儀式だから、ジョージは今夜はこの浜を貸し切りにし誰にも邪魔されないことを願った。警官達はまた見廻りに戻って来ると言っていたが、多分一時間半や二時間後だろう。それまでに"それ"を実行しなければならない。日付が変わるまでまだ一時間ほどある。

(取り敢えず最後の誕生パーティだ)

そう思って、コンビニで買って来た缶ビール二本、おにぎり一個と焼き鳥が入ったビニール袋を側に引き寄せた。この浜への途中にあったコンビニに寄り、最後まで取っておいた、ラップにくるんだ千円札とありったけの小銭使い果たしてきた。

 コンビニのアルバイトの青年はジョージを見て、あからさまではないが迷惑そうな顔をした。ジョージのほうも気が引けるのでさっさと会計をすました。それでも小銭が残ったので、全部レジ横の募金箱に入れるとバイトに笑顔を向けた。それを見て、バイトの青年も初めて笑ってくれた。

 ジョージはもともとアルコールには強くもないので、たまに酒を飲む事があっても缶ビール一本で十分だが、今日は奮発して二本も買って来た。先ずビールを取り出して砂利に押し付けるように置き、続けて食べ物も前に並べた。しかし、それよりも若い警官がよこした"犬のエサ"の方が気になった。

 警官から渡されたビニール袋を開けてみると、手を付けていない弁当が二つ入っている。いくら犬にやるにしても、あまり時間の経ったものを喰わせるほど警官達は悪い奴らではないはずだ、とジョージは思った。

 ふたを開けて臭いを嗅いでも傷んでいる気配はない。長年の貧困生活で残り物を食べても大丈夫かどうか見分けられるし、残り物にかなりの耐性もできている。

 弁当の中身は鳥の唐揚げや玉子焼き、シャケなどジョージの好物ばかりである。

(こんな美味そうな弁当を、そっくり犬にくれてやるのは勿体ない)

コンビニ弁当さえしばらく食べていない路上生活者にとっては、横取りしたくなるほど魅力的である。

 ほぼ無神論者のジョージはこの世に神様がいるとは思わないが、これは天からの最初で最後の誕生日プレゼントに思える。

 ジョージは我慢しきれずに、まず玉子焼きを口に入れた。

(あ〜うンま〜い!)

一口噛んだ途端、ジワッと日本人のソールフードの優しい美味さが口いっぱいに広がった。味覚の優れた人間は、辛い時も泣きたい時も、美味いものが口に入っている時は誰でも幸せになるものだ。

 続いて口に入れた鳥の唐揚げは、泣きそうになるほどジョージを感激させた。たかがコンビニで買える弁当や焼鳥だが、ろくな物を食べていない身には十分にグルメなのだ。

 そんなジョージをマモルは少し離れた暗がりから観察していた。離れていても、この男からはすえたような体臭が漂ってくる。これまでこの浜で出会った人間達にはなかった臭いだ。

(こいつもノラなのか?)

そう思うと、警戒心を持たざるを得ない。その厭な体臭とは別に、ニンゲンの喰い物の旨そうな匂いもする。自分で漁るエサに比べ、ニンゲンから分けて貰う喰い物は格段に旨く元気が湧く。

 今夜もマモルは、いつも来るニンゲン達が自分のために喰い物を持って来たのを見ていた。だがそれは今、この若い男に手渡されて彼の膝の上に乗せてある。男がその中身を確かめ、美味そうにつまみ食いを始めたので、マモルは反射的に“ウフッ!”と軽く吠えた。

(それ、オレんだろう!)

その吠え声はジョージの耳に届いたが、犬に吠えられる事に慣れているので別に驚かなかった。

 声の主は警官が言っていた野良犬に違いないと思い、声が聞こえた方向に目を凝らした。やっと薄暗い中で獣らしい輪郭を認めたので、誘うように焼鳥を振ってみせた。犬は鼻がいいから喰い物がある事には気付いているだろうが、一気に近付こうとはしない。それでも少しずつ間合いを詰めて来ており、やがてその影が薄汚れた茶色の毛並みをした中型犬である事が分かる位置にまで近付いた。

 同時にそいつの歩き方がおかしいのにジョージは気が付いた。歩く度に上体を大きく上下させている。

(こいつ、前足が一本無いんだ)

警官達が話していた犬だから大して警戒心は持たなかった。むしろ障害がある事を知って、ある種の仲間意識が湧き上がった。

 警官の頼み事などどうでもいいが、喰い物を分けてやるのは当然だ。人間じゃないとは言え、人生締めくくりの誕生パーティ唯一のゲストだ。

 ジョージは自分が残しても良いと思うものから取って弁当の蓋に乗せ、マモルの方に差し出した。マモルがそれ以上近寄って来ないので、

「おい、野良公、えっと……マモルだっけ!今夜は俺の最後の誕生日だ、一緒に祝ってくれ」

そう言って、顎を何度も引いて近くに来るように促した。すると、少しずつ警戒心を緩めたのか、マモルがゆっくりと頭を低くしてにじり寄って来て伏せた。ジョージはこのゲストに見せつけるように、大げさに唐揚げを食って見せた。マモルはゴクッと唾を飲み込んで、

(こいつ、オレを焦らしてやがるな。それにしても、ニンゲンって器用なのかバカなのか、細い木の棒でエサ喰って、何が美味いんだ?)

と不思議に思った。

 これまでこの浜で出会ったニンゲン達同様、この男も自分に危害を加えそうにないと判断し、

(遠慮なんかしね~ぞ!そもそもオレんだからな)

と差し出された餌に口を付けた。

(うまっ!ニンゲンの喰い物はどれも美味い。一体何処で見つけて来るんだろう)

とマモルはいつも思う。

 一人と一匹は暫らくお互いを意識ぜずに夢中で喰った。やがてジョージが缶ビールに手を伸ばし、プルトップを開けて二口ほど一気に飲んだ。そして、プハ〜と息を吐きながら顔をしかめて空を仰いだ。

(ク〜……うめ〜!今夜のビールは格別だぜ、天国天国!アレっ、もしかしてオレって地獄行き?ま、どっちでもいいか)

ビールを開ける音はマモルを興奮させた。

(あの泡の出る黄色い水だ!)

マモルは何度かそれをニンゲンから飲ませてもらったことがある。少し苦いが、飲むと口の中がスッキリする。しかも、飲んでしばらくすると気持ちが良くなる。これもニンゲンだけが持って来る不思議な飲み物だ。プシュ〜という音を聞いた途端、尻尾を最大限に振って、体も左右に揺らしジョージにアピールした。

(よ〜、一口でいいから飲ませろよ!)

マモルはヨダレを出しながら口をパクパクさせ、ジョージとビールを交互に見ている。

(こいつ、ビールが欲しいのかな?)

と思ってビールをマモルの方に差し出すと、マモルは身体中で嬉しさを伝えようとする。ジョージは面白がってビールを少しだけ弁当の蓋にあけ、マモルの餌の横に置いた。それを見たマモルは警戒心を完全に忘れ、ペチャペチャと一気に飲んだ。ジョージは嬉しくなって、

「お~兄弟、いけるクチだねぇ!」

とマモルに声を掛けた。ジョージは缶を軽く振ってビールの残り具合を確かめ、

「さ、ガンガンやってくれ!」

と言って相棒に注ぎ足した。この世の最後のビールとなる二本目を開けてまた一口飲むと、またしかめっ面を作った。そして、再びマモルにも継ぎ足した。マモルは気持ちが良くなったのか、一層大げさに尻尾を振ってジョージに感謝の意を見せて、ピチャピチャと音を立てて飲んだ。

(ニンゲンって、何でこんな美味い水を飲んで顔をしかめるのか?)

と、また不思議に思った。

 缶ビールを一本と少し飲んだジョージは、酔うほどではなかったが久々に清々しい気分になった。隣の相棒に目をやると、身体がゆらゆらしていて目がトロンとしている。喰って飲んで、満足そうである。その様子にジョージは笑い出し、

「おい、マモル、酔っ払い!こっちへ来い!」

と声をかけ手招きした。言葉が分かった訳ではないだろうが、マモルはジョージの明るい言葉に引き寄せられるように、幾分だらしない足取りで近付き、ほとんど倒れるようにジョージの太ももに体を押し付けた。

 その瞬間、ジョージは驚いた。マモルの背中は驚くほど暖かく優しい。人の体温さえまともに感じた記憶がないジョージは、じわっ〜と暖かいマモルの血が、そのまま自分のからだ中を巡るような錯覚を覚えた。

 片足の無いこの野良犬が、自分と似通った境遇にあるのかと思うと、たまらなく不憫に思えた。そして会って間もない自分に安心して体を預けてくれた事に感動したものの、

(オレはもうすぐここから消えるが、オマエはこれからも逞しく生きてくれ)

と願うしかなかった。

 ジョージは子供の頃から生き物好きで、動物を飼う事が一番の夢だった。犬や猫を飼っている子供を見ると羨ましくてたまらなかったが、楽しみと言えばせいぜい公園や路上で野良犬や野良猫を見つけては、気まぐれに可愛がるだけだった。

 今日の特別な夜に現れたこいつは、天からのプレゼントかも知れないとジョージは思った。

(“俺を守ってくれる”と若い警官が言っていたが、俺が海に入ったら溺れるまで付き合ってくれるって事か?)

そう思い無防備に横たわるマモルを見た。

(いや、こいつは野良犬だ、俺なんかよりずっと逞ましいはずだ。動物は人間みたいに生きる事を諦めることはしないだろう。道連れなんかさせるもんか!)

そう自分に言い聞かせて、ジョージはマモルの頭を優しく撫でた。

 ジョージに頭を撫でられマモルは嬉しかったが、この後に起こる事を思うと悲しくなった。この浜で出会った人間は皆自分の頭を撫でた後、すぐに吹っ切れたように海に入り、やがて沖に流されて見えなくなった。この若い男もそうするのだろうか、と心配になった。

 心配すると同時に、この男はこれまでのニンゲン達どこか違うとも思った。これまでこの浜で出会い、沖に向かったニンゲン達は、誰もが生気をなくし青ざめた顔をしていた。この男も同じ目的でここに来たのかも知れないが、エサを旨そうに喰ったりアワの出る水を飲んだりして、何か楽しそうにしている。顔色が悪いどころか赤味さえ帯びている。そんな奴は見た事がない。どうも‘場違い’なのだ。

 これまでは特別な感情を持たずにニンゲン達を見送ってきたが、こいつとは何か気が合いそうで、もう少し一緒にいたいという思いがマモルに生まれて来た。

(かなり臭いヤツだけど……)

そんな思いを伝えようとマモルは男を見た。一人と一匹は少しの間、じっと見つめ合った。

 ジョージが先に目を逸らすと意を決したように、

「さてッと、そろそろかな……」

とマモルに言って立ち上がった。

 嫌な予感がしたのか、マモルも慌てて起き上がるとジョージの前進を阻止するかのように前に立った。ジョージは膝を折り、優しい笑顔でマモルの頭を撫でながら言った。

「今夜は本当にありがとう、楽しかったよ。いいか、お前はここに残るんだぞ。いい飼い主が見つかるように天国から祈っているよ」

気取ったセリフを言ってみたが、

(天国から祈っているだって?天国なんて行けやしないのに)

そう思うと可笑しくなった。

 ジョージは胸のポケットからジップバッグに入った一枚の写真を取り出した。

 色褪せたカラー写真には写真には、小学校の校門で撮られた入学式のジョージらしい男児と三十歳ほどの着物を着た母親と思える女性、そしてジョージより小さい男の子が写っていた。ジョージは暫くしみじみと写真を眺め、呟いた。

(かあちゃん、ノボル、もうすぐそっちに行くからな、待っててくれ)

ジョージは写真を胸ポケットに戻し、意を決したように海を見つめた後、空缶やゴミをポリ袋にまとめ、その場に置いた。さらに焚火の始末を済ますと、“よし!”と大きく頷いてためらいなく海を目指して大きく踏み出した。その動きに反応して、マモルはジョージが前に出ようとするのを必死に止めようとする。

(何だ、自殺をやめろってか?)

とジョージは苦笑いしながらも海に向かう。マモルはついにジョージのズボンをくわえて抵抗を始めた。三本足の野良犬が必死に止めようとする姿に、ジョージは感動さえ覚えた。ジョージが一瞬躊躇して足を止めると、マモルは嬉しそうに足元に纏わりつく。

「あのな〜、オレは今日死ぬって決めたんだ。さっ、兄弟、頼むから行かせてくれ!」

マモルを振り切るように大股で波打ち際まで行くと、そのまま迷うことなくバシャバシャと沖に向かて進んだ。マモルが追ってこないのを確かめようと振り返ると、マモルは水際で立ち止まり悲しそうな顔をジョージに向けている。やはり三本足では上手く泳げないので、水に入りたくないのだとジョージは思った。

 更に進んで膝まで浸かった。離岸流はまだ感じない。海水は思った以上に冷たい。そう感じた途端に少しだけ恐怖感が生まれた。しかし、もう進むしかない。

 迷いを打ち消すために、食い物の事を考えた。もう一度、吉野家の牛丼が食いたかったな。ケンタッキーのチキンも……。もう長いこと美味いラーメンも熱々の餃子も食ってないな〜。カツ丼、カツカレー、あ~回転寿司も腹一杯食いたかったな〜。そう言えば、最後に鰻を食べたのはいつだったっけ?アンパン、メロンパン、鯛焼きにどら焼き、ドーナッツ。バースデーケーキは弟が死んでから一度も食べてない。幸いジョージの脳裏に食いたいものが次々と浮かぶので、迷う事なくどんどん深みに入って行く。

 腰まで浸かると急に強い離岸流を感じた。まるで悪魔に引き込まれているようだ。本能的に足を踏ん張ろうとするが、足元をすくわれそうになる。もう食い物なんかイメージしている場合ではない。必死にバランスを保とうとするのが精一杯である。前に出なくてもズルズルと体が沖に押される。もう踏ん張れない。

(死ぬために来たんだ、腹をくくれ!)

自分にそう言い聞かせても体は震え始めた。

(母ちゃん、ノボル、もうすぐそっちに行くからね)

心の中でもう一度呟くと、不意に涙が溢れた。その時、遂に足が地面を離れ、腰から沈んだ。ゴーという波の叫びに包まれる。覚悟はしていても、やはり必死にもがいてしまうが、離岸流の中ではもうなす術がない。

(母ちゃん、ノボル!)

水の中で叫ぶと、母と弟の顔が浮かんだ。

(ジョージ、ジョージ!)

母ちゃんが呼んでいる。

(ニイちゃん、ニイちゃん!)

今度はノボルの声。

(大丈夫だよ、もうすぐ会えるから!)

心の中でそう応えると、ジョージはやっと笑うことができた。

 もがいているうちに何度か顔を水面に出し、塩水にむせながら息継ぎはできたが、泳げないジョージは両手で水面を叩いている。

 また母と弟の声が聞こえて来た。

(ジョージ、戻りなさい!)

(ニイちゃん、戻ってよ!)

(えっ、戻れだって⁈ もう遅いよ!)

もう、もがくのを止めようと思った時、突然水面に出ていた片方の袖が引かれた。それはジョージの体を離岸流から引き離すように、横に引かれているようだ。必死に水を掻くと体が浮いて顔も水面に出た。むせながらも、ジョージは懸命に息を吸った。一体何が起きているのか確かめようと引っ張られる方向を見ると、なんと岸にいたはずのマモルがジョージの袖を咥え、目をむいて懸命に引いているではないか。

 このままではコイツが道連れになってしまう。コイツを死なせるわけにはいかない。

「コラっ、戻れ!お前は生きるんだ!」

ジョージはそう叫んで袖を振り払おうとしたが、マモルは必死に食らいついている。

(コイツの命はオレが握っている。オレが助からないとコイツも溺れる。もう迷っている場合ではない)

ジョージは無我夢中で水を蹴った。そうしているうちに、離岸流が弱くなった感じがした。

(もう少しだ、頑張れ!)

マモルに言っているのか自分を鼓舞しているのか、もうどちらでもよかった。離岸流から抜けると、マモルに引かれたままジョージも片手とバタ足で浜へ向かって泳ぎ続けた。

ついに足が地面に着いた時の安堵感に、ジョージはまだ‘こちら側’にいる喜びをひしひしと感じ、水が膝下まで来るとバシャバシャと飛ぶように浜へ駈け上がった。マモルも必死に浜を目指した。

 這うように浜に上がると、ジョージはドスンと仰向けに倒れ、激しい息遣いをしている。マモルがジョージに駆け寄った。ずぶ濡れのニンゲンとノラ犬はしばらく抱き合った。冷えた体にマモルの体温が嬉しい。マモルもジョージの体温を感じているのか、ホッとした様子で抱かれている。

(コイツ、海に入ったから、少しは臭くなくなったな)

マモルはそう思っていた。

「お前、何て奴だ!そんな足でよくオレを助けようと思ったな」

ジョージはマモルの顔を両手で抱え込み、感謝の言葉を口にした。

 野生の本能なのか、横に泳ぐ事で離岸流から少しずつ脱出できる事をマモルは知っていたのだろうとジョージは思った。

 ジョージは自分をじっとを見つめているマモルを見ていると、

(こいつ、マジでオレの人生を変えてくれるのかも知れない)

そんな気がした。

 それにしても寒い。先ずは着替える事にした。海に入った時、ボロ靴は履いたままだったが、もがいているうちに両方とも脱げてしまった。ずぶ濡れで裸足のまま、タオルと着替えを取りに急いで自転車まで戻った。心配なのか、マモルも付いてきた。

 ポリ袋の中から、薄汚れたタオルを取り出し、一応周りに人がいないのを確認して濡れた服を脱いで素っ裸になり、震えながら急いで体を拭いた。拭き終わると、Tシャツとブリーフを取り出し素早く身に着けて、その上にヨレヨレの長袖シャツとズボンを着ると大分暖かくなった。靴の予備はないので、裸足のままである。

 着替え終えても冷えた体には十分ではないので、浜に戻りもう一度、今度は少し派手に焚き火をし暖を取る事にした。

 海水に濡れた衣服を手で絞って自転車に広げるように掛けた後、再び浜に向かった。途中、思い出したように立ち止まり、キャンピングカーの様子を窺った。車には相変わらず人の気配がない。

(もしかして、このクルマの持ち主も、先に海に入って死んじゃったのかも?車の中に誰もいなくて、暫く待って持ち主が戻って来なかったら……これ、貰っちゃおうかな)

 突然生じた所有欲に背中を押されてさらに車に近付いた時、突然車内の照明が点いた。(ヤベ〜)ジョージは電気ショックを受けたように一瞬凍りついた。そしてすぐに踵を返し、逃げるように浜へ下りていった。


第ニ話に続く。


※第二話ではキャンピングカーのオーナーが登場。マモルとジョージに入水自殺を阻止される。

中卒のホームレスとアメリカの大学でMBAを取得したインテリ中年の人生問答と二人が意気投合する過程をお楽しみ下さい。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る